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大王製紙三島工場で見学会 1982-05-15(第203号)

一連の合理化完成、日本最大の総合工場に

大王表の1大王表の1大王表の2大王表の2

大王製紙では、5月12日、愛媛県伊予三島市の同社三島工場に産業用紙関係(クラフト紙・段ボール原紙)の取引先300社を全国から招いて、工場披露の見学会を行なった。三島新工場は、さる昭和48年、臨海埋立地に新たに建設されたが、第一次オイルショック後の経済情勢の変化に対応して、50年以来、既設工場(三島・川之江)を含めた抜本的な体質改善の合理化工事に着手、これが昨年末すべて完了して、単一工場としてはわが国最大の総合製紙工場となっている。

大王製紙の近年の"躍進"は、沈滞の色濃い紙パルプ業界の中にあっては、特にきわ立った趣きがあるが、その最大の推進力となったのが、「臨海工場」の威力をフルに発揮する三島新工場の開設と、さらに昭和50年以来、「既設工場を含めた生産システム組替え」を軸にした一連の合理化工事の推進であった。これによって、同社は過去数年間に生産力を倍増、かつティシュペーパー、コーティングペーパー、更にノーカーボン紙、ナプキン紙などの新しい領域を相次いで開拓したほか、海外原料の調達、および新聞用紙用・ライナー用のそれぞれ古紙パルプ処理設備の導入等においても次々に新機軸を打ち出し、経済環境の変化を積極策で克服する経営の冴えを存分に示した形となっている。

現在、同社の保有抄紙機は、三島工場が計20台(コーター1台)、川之江工場が計5台で、これによる主要製品の生産量(月産)は次のようになっている。
(1)新聞用紙40,000t、(2)段ボール原紙30,000t、(3)上質コート紙3,000t、(4)中質コート紙3,000t、(5)上質紙5,000t、(6)情報関連用紙1,000t、(7)中質紙3,000t、(8)出版更紙5,000t、(9)更紙1,000t、(10)包装用紙8,000t、(11)家庭用薄葉紙2,000t、合計101,000t。
これに対応するパルプ製造設備の生産能力は、いずれも月産量で(1)クラフトパルプ48,000t、(2)セミケミカルパルプ22,000t、(3)機械パルプ32,000t、(4)古紙パルプ20,000tの合計11万3,000t。そして、この工場の敷地総面積は38万m2、従業人員2,800名というのがその概要である。

この生産力をもって、昭和56年における同社の紙・板紙及びパルプの生産量(年間)は合計188万1千tに達しており、王子・大昭和・十条に次いで第4位。そして単一工場では、大王製紙三島工場が178万4千tと、王子苫小牧も大きく凌いで断然たる第一位の"総合工場"という状況に変っている。

5月12日の当日、関東勢は前夜晴海のホテルに一泊して早朝羽田から空路松山経由、バスで三島へのコース。名古屋・大阪・中国勢は新幹線・宇高連絡船の高松経由、九州勢はフェリーでというように、全国各地から伊予三島をめざして参集した。それぞれの一行には、大王製紙が全国に展開する営業所・出張所網の若手がつき添って、何もかも細かく配慮の行き届いた案内ぶり。同社の組織力の見事さも、一行の大きな話題の一つであった。

関東勢一行は、松山からバスで三島への途中、新居浜で同社直系のレストラン・チェーン「エリエール」で昼食。聞けば当地が第二号店で、既に20数店がチェーン展開しているとのことであった。昼食のひととき、あちらこちらテーブルの話題の一つは「さんふらわあ丸」でもあったろうか。招待客一同が心待ちにした船旅であった。

5月12日、全国各地から参集した今回の産業用紙関連の招待客は約300名。まず伊予三島市「市民会館」で井川高雄大王製紙副社長から歓迎の挨拶があり、ついで新体制成った三島工場の設備・生産概要の説明をそれぞれの担当者から聞いた。この工場概要説明会が午後2時40分から約30分、次いでバスで2時間半ほど工場内を巡回して見学、午後6時少し前に三島工場の岸壁に横づけされる関西汽船「さんふらわあ・7」に乗船して神戸に向い、船上、春の瀬戸内海の一夜の宴に、日頃の取引先への謝意をあらわすというのが、大王製紙の当日のスケジュールであった。


大王製紙副社長大王製紙副社長

井川高雄副社長は、一行の歓迎挨拶で次のように述べた。

『本日は、日常、会社経営について多忙を極めておられます皆様方に当社の御視察をお願い申し上げましたところ、遠路お出まし下さいましたこと、厚くお御礼申しげます。また、当社製品について、永年格別の御愛顧を賜っておりますこと、併せて御礼申し上げます。さて、御多忙な皆様方に今回、四国までお出まし頂き、工場を御視察して頂きたいとお願い申し上げましたことでございますが、当社は昭和48年に臨海の埋立地に新しい工場を建設致しました。ちょうどその年、第一次オイルショックに遭遇し、それを起点として、日本経済は急速な質的変化を始めたのであります。この変化に対応するため、竣工後一年にして、新工場の抜本的な生産システムの組み替えをしなければならなくなりました。また、既設の工場ではパルプ・蒸気・電気等は新工場と一体のものでありますから、新工場の生産システムの変革は、当然にして既設工場の生産システムの変革を避けては実施できないことでありました。

すなわち、昭和50年に着手した当社三島工場、川之江工場、三島新工場の体質改善の一連の工事が、漸くにして昨年末をもって完了いたしました。体質改善の内容は、新聞用紙、段ボール原紙だけを生産する産業用紙の工場から、上質紙、中質紙、各種コート紙、クラフト紙、ティシュペーパー等の殆んどの紙を生産する総合製紙工場への転換でありました。また、多品種を生産する総合製紙工場への脱皮とともに、当社の主力製品であります新聞用紙、段ボール原紙のコスト競争力を高めるための原料確保の安定と原料の多様化でありました。

産業用紙を主力とする工場から多品種を多量生産する総合製紙工場への脱皮が、当社の体質改善のフレームワークであるとするならば、そのフレームワークをより強固にするための肉付けが、原料確保の安定と原料の多様化であります。原料確保について申し上げますと、輸入チップはほとんど全量をウェアハウザー1社に依存しておりましたが、これを数社以上に分散しました。また、カリフォルニア州のサクラメントに木材チップ工場を建設しました。これによって、木材チップの購入を一社集中から数社に分散し、更にはサクラメントでの製材工場建設によって、自ら原木を購入し、自らチップを生産して、自ら船積みするという、海外原料に対して当事者能力を確立することが出来ました。

次に、原料確保の多様化としては、その主たるものは最新の新聞古紙脱墨プラントと段ボール古紙処理プラントの建設であります。当社では、一般的な新聞古紙脱墨プラントと段ボール古紙処理プラントは以前から保有しておりましたが、今回完成したものは、従来の考え方の延長線上のものではなく、革新的なプラントであります。この古紙プラントに匹敵するものは、相当期間、内外において完成しないものと考えております。今後、皆さま方の業界におかれましても、皆様方の需要家からの要望は日々に厳しくなり、需要家の限りない細分化されたニーズを満たさなければならなくなると思いますが、これに対応するためには、製紙メーカーとして、当社もまた皆様がたのニーズの多様化に対して限りない対応をして行く責務があります。

現在、ライナーを例にとれば、国産Kライナー、輸入Kライナー、Kダッシュ、Kツーダッシュ、Cライナー、Cダッシュ、Cツーダッシュ、輸入Cライナー、Nライナー(内装用ライナー)、およびNダッシュ等、数年前には予測しなかった多様化が進んでしまいました。幸いにも、当社が保有しているライナー抄紙機は、各種原料の多様な組合せができる機能になっておりますので、皆様方のご指導により、積極的に時代の潮流に遅れることなく進んで行く考えであります。

資源小国のわが国における製紙産業は、古紙を貴重な資源として、この利用技術を絶えず開発しなければならないことはいうまでもないことでありますが、同業の各社もこぞって研究しております。しかしながら、古紙プラントを建設して古紙を利用することによって、木材パルプが余剰となり、その結果、既存のパルププラントの操業度を下げざるを得ないということになると、古紙利用は必ずしもメリットがあるということにはなりません。申すまでもなく、クラフトパルプ設備の建設には巨額の設備資金が投下されておりますので、クラフトパルプのトータルコストは古紙パルプよりは高いものでありますが、しかしながら、クラフトパルプのトータル・コストから固定費を除いたチップ・コスト、電気、蒸気等の変動費コストだけと、古紙パルプのトータルコストを比較すると、古紙パルプがなおクラフトパルプよりコストが低いか、ということになると疑問が残ります。

現在、当社の工場では、月間数万tの古紙を使っておりますが、その古紙を使うことによって余剰となった木材パルプは、上質紙、中質紙、ティシュ、或いはまたクラフト紙の増産となっており、パルプ部門はフル稼動であります。当社三島工場は、国内における例外的な多品種・多量生産工場でありますから、このことによってはじめて貴重な資源である古紙の利用が可能であります。このような事情から、技術を開発して古紙を多量に消費することができればできるほど、パルプを多量消費する新聞用紙やライナーに使われている木材パルプが他の紙に転用できることとなり、国際競争の最前線に位置しております段ボール原紙とクラフト紙、および新聞用紙のコストを下げるのに大いに貢献するのは勿論のこと、間接的には余剰になったパルプによって生産されるクラフト紙、上質紙、コート紙等のコスト低減にも寄与するのであります。

日本経済も成熟してしまい、再びかつての高度成長の時代の再来はないと思いますし、また国際競争は避けて通れない道であると思いますが、品質の向上とコストの上昇を吸収して、どの同業他社よりも安定的に、しかも柔軟な価格で製品をお届け出来る努力を続けて行きたいと存じますので、変らぬご支援をお願いする次第です。

厚顔にも長々と当社のPRをして参りましたが、工場のご視察をお願い致しますということで過日、御案内状を差上げましたが、あの御案内状は日頃格別のお世話になっております御需要家の皆様に、せめて一日だけでもご多忙なお仕事を離れて、春の瀬戸内海へお遊びにおいで下さいという、実は言い訳でありました。それ故、工場御視祭は言いわけでありますので、ほんのちよっとだけ工場をのぞいて頂いて、今夕は、瀬戸内海の船上でおくつろぎ下されば、主催者としてこれに過ぎる喜びはございません。本日は有難うございました』。

瀬戸内のハプニング、大王製紙「大奮戦」の記
5月12日は、折柄、何日間か連続の「真夏日」の最中。空は抜けるほど青く、わが国最大の総合製紙工場は余りにも巨大で、パルプ工場、抄紙工場、古紙処理設備、コーター工場等々と、行けども行けども大小様々なパイプが頭上に延々と連なり、階段もまた果てしなく続いた。機械設備や、そのオートメ化もさることながら、1万t製品倉庫、平判製品を陳列格納する完全自動の倉庫、岸壁横手に山と積み上げられたチップ、古紙のストック、更に港湾施設など、段ボール加工工場とは比較の仕様もない、途方もない投下資本額の大きさが、改めて実感として迫ってくる状況であった。

「ハプニング」は、スケジュール通り工場見学を終って、バスが岸壁に着いたところで唐突として起った。最初は、何が何やら分からなかった。要するに、「さんふらわあ丸が、ご覧の通り来ておりません。新居浜から引き返したので、当初のスケジュールを変更し、高松・国際ホテルのパーティ会場に向かいます」とのことであった。


大王井川社長大王井川社長

二時間後、パーティ会場で井川伊勢吉社長が挨拶に立って、このハプニングの舞台裏を語った。要約すると、「関西汽船の常務が突然私に会いたいといってきて、実は大変なことができたという。自分は"さんふらわあ"が事故でも起したのか、それなら、ウチのお客さんは乗っていないから良かったと思っていたら、そうじゃなくて、今回の契約はこれまでと違って副社長からいただいたが、これは井川社長と同じ意志かと妙なことを言い出す。そんなバカなといったら、また来ますと言って帰って、こんどは二人で来た。井川副社長の契約は社長の私の契約と同じだというのに、それならその旨を文書でくれという。何とも常識では考えられないことをいうのだが、当社は、当社を代表して副社長が契約した事柄を、社長がさらに保証するなど、契約の履行に関する当社の信用にかけて絶じて出来ないといったら、先方は別室で何か電話をしていたが、それなら契約を白紙に還元してくれということだった。そんな次第で、本来なら、いまごろは"さんふらわあ丸"の船上で皆さんと歓談しているはずでありましたが」と。

全国から集まった300人の顧客を抱えて、全社あげて歓待につとめている大王製紙、その動きのとれない足もとを見すかしての唐突の"意趣返し"のようであった。それにしても、下世話な心配だが、関西汽船のこの契約不履行は、法的にはどうなるのだろうか。「事実は小説より奇なり」というが、最初の素朴なオドロキが過ぎ去ったあとで、記者が感じたのは、「事実はまさに週刊紙より奇だなあ」ということであった。

「週刊文春」の56年11月12日号で、佐世保重工で名を売った坪内寿夫氏が大王製紙に関する放言をして、それが井川伊勢吉大王製紙社長の「坪内寿夫氏のウソを撃破する」反論を生んだ。本紙は、同年11月20日付第189号にこの全文を掲載したので、読者にもご記憶の方が多かろうと思われる。井川社長の反撃に対する坪内氏の反応はその後、何もない様子であった。「撃破する」文中で、問題の"さんふらわあ丸"も、関西汽船と坪内氏の関連で、そして大王の関連で取り上げられているので、記者にはますます"週刊誌ダネ"のように思われたことであった。船上で歌うはずだった「由美かおる」「牧村三枝子」両嬢の熱唱を、大王製紙が急拠買い切った高松一のキャバレーで聞きながら、大切な顧客を迎えての大王製紙の「無念」を思ったことであった。

同夜、大王製紙の懸命の手配により、高松市に分散宿泊。翌朝、宇高連絡船経由、岡山から新幹線で帰路についた。最後の最後まで、前夜一睡もしないわが身の疲労を忘れたように、お客第一に振舞う同社の若手第一線の人たちがまた、大王製紙の何よりの"宝"と思わせる「旅」でもあった。