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アメリカ製紙業界を変えた男(その1) 1993-09-25(第599号)

ゴールドスミスゴールドスミス

アメリカの製紙業界は1980年代において大規模な業界再編成をみたが、この変化をもたらす陰の大きな原動力となったのが、「サー・ジェームス・ゴールドスミス」という人物であった。アメリカでは、ゴールドスミスという名前を知らない業界人は一人もいないだろう。アメリカの製紙業界でも屈指の名門とされていたクラウンゼラバック社、セントレジス社、それにコンチネンタル・キャン社やダイヤモンド・インターナショナル社といったメーカーが、彼のために次々に名を消し、代わってジェイムス・リバー社、ストーンコンテナー社、フェデラル・ペーパーボード社、ゲイロード・コンテナー社といった新興会社が彼を介することによって台頭し、成長を遂げてきた。以下は、日本製紙連合会の広報紙「紙パルプ」に掲載の「アメリカ製紙業界を変えた男・ゴールドスミス」と題する長文のレポート(筆者=同連合会国際部近藤唯弘氏)からの要約である。

「彼の手口は、株価の安い、つまり株価が資産価値を充分に反映していない会社の株を買い集めて支配下におさめ、そのあとは、事業所ごとにできるだけ高い価格で売りさばいてキャピタル・ゲインをあげる、というやり方であった。従って、買収された会社の事業所は、個々に売却されて、そのオーナーが変わって行く。また、買収できない場合は、「株を買い占める」と経営陣に迫って、買った株を高値で買い戻させ(いわゆるグリーン・メイル)、莫大な利益を挙げた。彼が主として製紙会社に的を絞ったのは、製紙会社が保有する広大な社有林の資産価値に着目したからである。

【生い立ち】
ゴールドスミス(以下、文中敬称略)は1933年、パリで生まれた。父はイギリス人、母はフランス人であることから、彼は英仏両国の国籍を持つ。言葉も英語、フランス語とも自国語であるから流暢に喋る。父方の祖父はユダヤ人で、ロスチャイルド家の遠戚にあたるが、永年ドイツのフランクフルトで銀行業を営み裕福に暮らしていた。

当時は、一家の姓をゴールドシュミットといっていたが、1880年代に反ユダヤ主義運動が高まったことから、一家はドイツでの銀行業に見切りをつけ、イギリスに渡って、姓も「ゴールドスミス」に改めた。父のフランクは、一家がイギリスに渡ったあと生まれている。その父はオックスフォードに学び、卒業後はイギリス陸軍省に入って、のちに少佐となった。第1次大戦ではトルコのガリボリ半島(1915年、イギリス軍が上陸に失敗したところ)で戦い、そのころチャーチルと親交があったという。

しかし、当時のイギリスは反独感情が強かったので、休戦と同時にゴールドスミス一家はフランスに渡る。そして、フランクはホテル事業の経営に乗り出し、やがて「Reunis」(再会)という名のホテル・チェーン(全部で48店所有)のオーナーとなった。そして、フランス人のマルセル・ムイエと結婚して、1933年にジェイムスを生んだ。彼が英語とフランス語を喋り、イギリス国籍とフランス国籍を持っているのはそのためである。第2次大戦が始まると、一家は再びイギリスに移り、父のフランクはサボイ、クラリッジ、パークレイといった有名ホテルの大株主となって、これらのホテルの取締役に就任した。しかし、ナチス・ドイツの勢力拡大に危機感を持ったフランクは、一家を引き連れて、今度はカリブ海に浮かぶバハマ島に移住する。が、終戦と同時に再びイギリスに戻った。

ジェイムスは、バハマ島のナッソーにある小学校に入るが、怠け者で、勉強が嫌いだった。しかし、父が裕福であったため、小さいころから超一流のホテルに住む豪華な生活を送った。読み書きもロクに覚えようとしないことにたまりかねて、両親が、ある時、字を覚えるように諭すと、「大人になっても、本を読む時は人に読んでもらうから覚えなくてもよい」と答えたという。

10歳になった時、彼はカナダのトロントにある私学に入学させられるが、態度は一向に改まらず、ビーバーを罠で捕えて、毛皮を人に売り、小遣いを稼ぐというようなことをやっている。そのうち、トロントでの生活がいやになって、一人で逃げ出し、ニューヨークのウォルドルフ・アストリア・ホテルに投宿しているところを親に見つかり身柄を引き渡された、というエピソードまである。

彼が12歳になった時に戦争が終わったので、彼は父とともにイギリスに戻り名門イートン校に入学する。勉強嫌いな彼がイートンに入学できたのは、彼が英語とフランス語の両方を話すことができたためとされている。イートンに入学しても勉強には身が入らず、学校では競馬などの賭博に凝っていた。そのころから博才には人並み以上のものがあったようである。イートンでの生活も長続きせず、2年後に退学して、しばらくホテルでコックとして働いた。

しかし、女を追いかけまわすプレイ・ボーイぶりに父はすっかり困り果てる。この間に出来た借財を全部肩代わりしてやるからと説得して、父は彼をイギリス陸軍に入隊させた。陸軍では中尉まで昇進したが、1953年に除隊。その後はイギリス産のリューマチの薬をフランスで売る販売権を得て、フランスでこの薬を売る事業に乗り出した。ジェイムスが弱冠20歳の時である。

このころ、彼は南米のボリビアにあって錫で財をなしたドン・パチノ財閥の娘イザベル・パチノ(当時18歳)と知り合い、恋に落ちた。結婚を誓う仲になったが、イザベルの両親は、ジェイムスのようなプレイ・ボーイと結婚させるわけにはいかないといって、認めようとしなかった。イザベルの父が「我々はユダヤ人と結婚する習慣はない」と言ったのに対し、ジェイムスも「我々はレッド・インデアンと結婚する習慣はない」と応酬したという。二人はスコットランドに駆け落ちした。スコットランドでは18歳になると、親の同意なしで結婚できたからである。だが、イザベルはジェイムスの子を生む直前に脳内出血でこの世を去ってしまう。子供は女児で、帝王切開で助かった。

フランスでの薬の販売は好調で、彼がこのために設立した会社も好業績をあげた。しかし、設立2年後の1955年にはこの会社を売却し、その際に得た資金で別の薬品販売会社を設立した。主に抗生物質を扱う会社で、これまた業績は好調、やがて従業員も400人を数えるまでに成長した。このころから、彼のカリスマ的な事業手腕が発揮されて行く。

1964年になると、パリを離れてロンドンに移り、ロンドンではイギリスの会社を買いあさった。しかし対象とする会社はそれまでの薬品ではなく、食料品や雑貨を販売するチェーン店であった。資金に余裕が出ると次々に買収を重ね、1970年代になると、イギリスでも屈指の大手雑貨販売チェーンのオーナーとなっていた。この間、パリでは有名な雑誌「ル・エキスプレス」の出版社を買収して、そのオーナーとなったし(その後売却)、アメリカにも進出して、まずグランド・ユニオン・グローサリー・チェーンを買収、アメリカの小売業界で勢力を伸ばそうとした。

このような国の内外での活躍が買われて、彼は1976年にイギリス政府から「ナイト」の称号を授かっている。(ナイトの称号は、国家に対する功労によって叙せられ、男爵すなわち「バロン」のすぐ下に位する一代限りの栄爵で、「サー」の称号を付けることが許される。「サー」は必ずファースト・ネームに付ける。従って、ゴールドスミスの場合はサー・ジェームスと呼ぶ。もちろん、サー・ジェームス・ゴールドスミスと呼んでもよいが、サー・ゴールドスミスとはいわない)

ゴールドスミスは、この後、フランスでもレジオンドヌール勲章を受けている(レジオン・ドヌール章は1802年、ナポレオンが創設した章で、日本では大蔵省出身で衆議院議員である柿沢弘治氏が1989年にこの章を受けている)。いずれも、国家に貢献した人物に授与されるものだが、イギリスではゴールドスミスにナイトの称号が与えられたとき、議会でも論議をよび、当時のウィルソン首相は釈明に苦慮している。

なぜなら、彼は実業家として名声を得たことは事実だが、相変わらず女性関係で問題を起こしていたからである。ボリビアのパチノと死別した彼は、のちにフランスで彼の秘書を勤めていたジネット・レビと結婚して2人の子供を生むが、そのころロンドンにも愛人を囲っていた。しかも、その愛人はアナベル・バーリーといい、ロンドンデリーの侯爵の娘で、人妻であった。ある時、パリにいる妻子とロンドンにいる愛人とその子供たちを同時に地中海のサルジニア島に連れて行き、彼はそこで2家族の間を往復して家庭サービスにつとめた、というエピソードがある。

そして、1978年に妻のジネットが離婚を迫ったので、彼女と正式に別れ、そのあとすぐロンドンにいたアナベル・バーリーと結婚した。なお、ゴールドスミスには、エドワードという5歳年上の兄がいる。彼はオックスフォード大学の学者で、とくに環境保護問題の専門家である。

【紙パ会社買収の最初はDI社】
ゴールドスミスが、アメリカの製紙会社の買収に乗り出したのは1980年のことで、当時のダイヤモンド・インターナショナル社(以下、DI社という)を標的にしたのが最初である。DI社は製材・紙パ・包装事業・小売業などを営む中堅メーカーで、80年当時の売上高は13億ドル弱、純益4,100万ドルを計上していた。全米ナンバーワンのインターナショナル・ペーパー社の同年の売上高が50億ドル、純益が3億1千万ドルだったから、アメリカの紙パ業界では10指に入る大手メーカーといえる存在であった。

製紙部門では東部のマサチューセッツ州、ニューハンプシャー州、メイン州等に工場を持ち、印刷用紙やティッシュなどを生産していた。もともと、安全マッチのメーカーとして19世紀に発足した古い会社だが、その後、カード(トランプ)なども作るようになって、製紙部門に進出した。ゴールドスミスが着目したのは、DI社が持つ160万エーカー(約65万ヘクタール)に及ぶ私有林だった。しかも、この私有林は19世紀に購入した時の価格がそのまま再評価されることなく、簿価として計上されていた。

ゴールドスミスは、1977年から秘かにDI社の株を買いはじめた。80年には持株が5%に達したので連邦政府のSEC(証券取引委員会)にその旨届け出た。しかし、当時のDI社のウィリアム・コスロー会長は、同社を多角化させるために積極的に異業種への進出を図るほか、メイン州にあった木材会社ブルックス・スキャンロン社を買収しようとしていた。このような計画を実行するためには約5億ドルの資金を必要とするため、同会長はDI社の新株を発行することによって資金を調達しようとしていた。

だが、ゴールドスミスはこのようなDI社の多角化に猛然と反対した。それでもコスロー会長が計画を変えようとしなかったために、ゴールドスミスはDI社の株を公開買い付けによって大幅に買い増しする手段に出た。80年5月、彼が公開買い付けに当たって出した条件は次のようなものであった。すなわち、「DI社株を1株45ドルで450万株(発行済株式の約35%)買う。ただし、DI社がメイン州の木材会社買収計画を撤回することが条件である。計画を撤回しない場合は、1株当たり40ドルとする」。

この公開買い付けが成功すると、ゴールドスミスの持株比率は一挙に41%に上昇する。当時のDI社の株は、ニューヨーク市場において32ドル前後で取引されていた。公開買付けを宣言されたDI社は、直ちに取締役会を召集し、対抗策の検討に入った。もちろん、自分たちの会社が不本意な第三者に買収されるのを黙認するわけにはいかない。かといって、放置しておけば、株主の多くは有利な価格で持株を手放してしまうだろうから勝ち目がない。

そこでDI社側はゴールドスミスと条件交渉に入ることを決め、80年6月、折衝に入った。その結果、最終的には、「DI社はゴールドスミス側から3人を役員として迎え入れる。ただし、ゴールドスミスは今後5年間、DI社の株を40%以上持たない。DI社がメイン州の木材会社を買収する場合の公開買付けの価格は40ドルから42ドルに引上げる」ということで休戦協定が成立した。(このあと、DI社はメイン州の木材会社を買収してしまう。ただし、その際に新株を発行しているため発行済み株式総数が増え、ゴールドスミスが450万株買っても、彼の持株比率は34%と、40%以下だった)。

DI社としては、その5年という期間にホワイト・ナイト(友好的に買収交渉が出来る相手)を探し出そうとした。ところが、不幸なことに、81年からは第2次オイルショックの影響もあって紙パルプ市況が低迷しはじめ、つれて会社の収益も悪化に向かった。このような状態では、当初期待したホワイト・ナイトも現れない。しかもこの時、先にDI社が買収したメイン州の木材会社の元のオーナーがゴ—ルドスミスに対して「自分が保有しているDI社の株160万株(約11%を譲渡してもよい」と持ちかけて来た。

そこでゴールドスミスは、業績悪化により当初の計画が狂ったという理由で、DI社の経営陣に対し、さきに締結した「持株維持協定」の破棄を言い渡してしまった。そして、オファーのあったDI社の株160万株を買い増した。さらに同年12月になると、彼は「DI社の残りの株5%を、1株44.5ドルで買収する」と発表した。業績不振で株価の先行き見通しも明るくなかったので、時価より有利な価格で売れるのであれば売ろうとする株主が多く、2度目の公開買付けも簡単に成功、82年春にはDI社は完全にゴールドスミスのものとなった。(形式的には、彼の持つ投資会社がDI社を吸収する形をとった)。

ゴールドスミスがDI社を買収するに当たってのエピソードがある。DI社が、ゴールドスミスに買収されることを嫌って、ホワイト・ナイトを探すことを伝えた時、ゴールドスミスはDI社の社長に対し「私は"ホワイト"であり、かつ"ナイト"だ」と述べたという。彼の言う「ホワイト」は自分が「白人」であることを言ったものであり、「ナイト」は彼がイギリス政府から「ナイト」の称号を貰っていることを指したものである。ゴールドスミスがDI社を買収するのに要した資金は6億6千万ドル。これに対し、DI社の資産価値を時価に換算すると、私有林だけでも83年夏には7億ドルを越えていた。

DI社を傘下に入れたあとは、最も有利な条件を受け入れる相手を求めて、事業所ごとに少しずつ切り売りして行く。そのような切り売りの話にまっさきに乗ってきたのが、ジェームス・リバー社だった。当時はジェームス・リバー社といっても、まだ無名の企業でしかなかったが、DI社の製紙工場部門をゴールドスミスから買収することによって、その基盤を築き上げたと言ってよい。同社の主力工場となっているメイン州のオールドタウン工場(BKP年産25万t)、ニューハンプシャー州のグラブトン工場(特殊紙、年産10万t)、ニューヨーク州ガーバナー工場(ティッシュ年産2万t)などは、もともとDI社の工場だったものである。ゴールドスミスはこれらの工場をジェームス・リバー社に対して1億3千万ドルで売却した。ウォール街のアナリストの推測では、ゴールドスミスはこのDI社にかかわる取引で、5億ドルの利益をあげたという。

ところで、ゴールドスミスがDI社を買収するに際して用いた手段が、後年、アメリカで流行ることになるLBO(レバレッジド・バイアウト)の走りであるとされている。彼はこのとき、ハイリスク・ハイリターンのジャンク・ボンドの起債を得意とするドレクセル・バーナム・ランベール社(証券会社)に資産調達面で世話になっている。同社はM&Aが盛んになされた80年代後半にはジャンク・ボンドで脚光を浴びたが、90年2月に倒産した。この証券会社のパートナーの一人であるランベールが、ゴールドスミスの遠戚に当たることから、この証券会社に接近したという。

LBOによって標的会社を買収するには、まず買収を目的とする持株会社を設立する。ゴールドスミスの場合は「ケブンハム社」の株式を担保としてジャンクボンドを発行し、買収資金を集める。買収が完了すると「ケブンハム社」とDI社を合併させ、「ケブンハム社」が存続会社となる。新会社はこの時点ですでに非公開会社となっているから、配当のことなど気にしなくてもよい。公開会社であった時に支払っていた法人税や配当は、主としてジャンクボンドの金利や元金の支払いに充当されるが、その間に「ケブンハム社」のオーナーであるゴールドスミスは、取得した旧DI社の資産を入札にかけるような形で高値で売却し、借金を返済してキャピタル・ゲインを得ていった。