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アメリカ製紙業界を変えた男(その2) 1993-09-30(第600号)

M&A 1M&A 1 M&A 2M&A 2

【セント・レジス社をめぐる攻防】
1984年(昭和59年)2月中旬、東京のプレス・センターにおいて第1回「日米紙パルプ会議」が開催された。日本側からは18社のメーカーのトップが、アメリカからは12社の代表が参加し、両国の紙パ業界の現状、課題、将来の展望などについての協議を行った。この会合には、アメリカ側からセント・レジス社の会長CEOのウィリアム・R・ヘイズルトン氏が出席し、アメリカ側代表の司会を務めることになっていた。(同氏は当時、米国製紙連合会の会長職にあった。アメリカの連合会の会長は1年ごとの輪番制をとっている)

だが、会議の直前になって同会長は突如来日を中止した。セント・レジス社がゴールドスミスによって買収されそうだ、という話が急に持ち上がったからである。実は、ゴールドスミスが次なる目標をセント・レジス社としたのは、DI社の買収が完了した時であったという。そして彼は、香港にあった子会社を通じて既にセント・レジス社の株を300万株、発行済み株式総数の8.6%を取得しており、84年2月7日には「近い将来、セント・レジス社を株式公開買付けによって買収するつもりだ」と発表していた。

セント・レジス社の83年の売上高は28億ドルで、社有林は320万エーカー(約130万ヘクタール)に及び、その簿価は2億2,300万ドルでしかなかった。だがセント・レジス社もDI社と同様に保険業や石油パイプライン事業、それに金融業にも進出して経営の多角化を進めつつあった。しかし、ゴールドスミスはこのような経営方針に基本的に反対であった。紙パルプというコア・ビジネスに専念すれば、会社の業績はもっと向上して、株主に報いることができるはずだ、という主張を押し通した。

買収価格は1株につき35.50ドル、総所要資金は約11億ドルとなるが、ゴールドスミスは、ロンドンにいる縁者のジェイコブ・ロスチャイルの協力を得て必要な金を集めると伝え、既に資金のめどがついていることを匂わせていた。なお、ロスチャイルドはこの後、ゴールドスミスが動く場合には必ず現れて、資金的な援助を行っている。

セント・レジス社では直ちに緊急取締役会を招集し(アメリカでは社外取締役が過半数を占めるのが普通であり、しかも彼らは全米の各地に散在しているため定例の取締役会はせいぜい月一度くらいしか開かれない)対策の検討に入った。取締役会の反応は予想された通りで、「ゴールドスミスの買収は、当社の株主にとって最高の利益とはならない。したがって買収には応じられない」という結論が出された。

これを受けてヘイズルトン会長はニューヨークでゴールドスミスと会い、セント・レジス社の買収を諦めさせる交渉に入った。しかし、ゴールドスミスには既にDI社の買収を成功させた実績がある。その上、資金的にもめどをつけていたことから、交渉は一筋縄では行かない。ゴールドスミスは、セント・レジス社の買収をやめる見返りとして「DI社から入手した160万エーカーの山林をセント・レジス社が吸収合併すること、その代償として合併新会社の株式25%と取締役の椅子を1個自分に与えよ」と求めてきた。しかし、セント・レジス社はこのゴールドスミスの申し入れを拒否している。

交渉は難航したが、結局、同年2月15日に(この日はちょうど日米紙パ会議が開かれた当日であった)両者は一つの協定を結んだ。その内容は「向こう3年間、ゴールドスミスはセント・レジス社の株を買い増ししない。そのかわりセント・レジス社は、ゴールドスミスが持つセント・レジス社株の買い戻しに応じる」というものであった。

セント・レジス社の株はニューヨーク証券取引所に上場されていたが、従来からあまり目だたない存在であった。だが、買収の噂が飛び交うようになって動きが活発になっていた。1月末には30ドルそこそこであったものが、3月に入ると50ドルを越えてしまった。こういった株価の動きは、ゴールドスミスの「読み」の中に入っていたと思われる。3月中旬になって、両者は「セント・レジス社はゴールドスミスの持つ300万株を1株につき52ドルで買う」という取り決めを行い、ようやく決着がついた。

(注)株の買い戻しは「自己株式の取得」になる。自己株式の取得は、資本の払い戻しになることから、日本では原則的に禁止されているが、アメリカでは盛んに行われている。自己株式を持つことは、それだけ市場に出回る株式数が減って株価を上げやすくする(いざとなれば安定株主に売ることも可能)。ただし、自己株式には配当が付かず、議決権もない。そのかわり1株当たりの利益は上がり業績評価も高まる。

ゴールドスミスが持つ300万のセント・レジス株の平均価格は35.35ドルであった。これを52ドルで売り戻したのであるから、単純に計算しても約5,000万ドルの差益を出したことになる。後にアイバン・ボウスキーというウォール街の証券マンがインサイダー取引で逮捕され、罰金1億ドル、禁固刑3年の判決を受けることになるが、彼はこの時のセント・レジス株の取引や、この後に続くクラウン・ゼラバック株の売買に深く関わり、インサイダー取引を行っていた。

今後も買収の対象とされることを恐れたセント・レジス社は、大手の保険会社であるコロニアル・ペンを買収して一層の多角化を図るとともに、一方ではジョージア・パシフィック社との間で安定株主になってもらう話が成立、84年6月30日に両社は次のような合意書を交わした。すなわち、ジョージア・パシフィックはセント・レジスの株270万株(8.5%)を市場から購入し、見返りにセント・レジスはミシシッピー州にあるモンティセロ工場(段ボール原紙、クラフト紙を生産、年産能力50万t)と周辺の山林を3億4,000万ドルでジョージア・パシフィックに売却する、というものであった。

【「新聞王」マードック氏の登場】
しかし、ジョージア・パシフィックという安定株主を確保してほっとしたのも束の間、同年7月上旬、セント・レジス社は再び買収の標的にされてしまう。今度はオーストラリア人(のちに帰化してアメリカ人となった)で、「新聞王」と呼ばれていたルパート・マードック氏が「セント・レジスを買収する」と発表したのである。マードック氏はアメリカやイギリスのメディアを次々と買収し、世界のマスコミ界に君臨しようとしていた。彼は、セント・レジス株を5.6%まで買い占めた段階でヘイズルトン会長に対し「業務提携をしたい」と申し入れたが、同会長はこれを断わった。マードック氏の狙いは、セント・レジス社を傘下におさめ、同社が生産する新聞用紙(年産能力75万t)中質コート紙(同60万t)を同氏が所有する新聞社や出版社で使わせようとすることであった。

この申し入れを断わられたマードック氏は、同年(84年)7月下旬に「1年以内にセント・レジス株の持株比率を50%に上げてみせる。セント・レジス側の出方次第では、1株55ドルで公開買付けをするつもりだ」と発表した。セント・レジス社の発行済株式総数は3,300万株だったから、持株比率を50%にもって行くには、新たに44%を買い増ししなければならず、これを1株55ドルで買うとすると、総額で約8億ドルの資金を必要とすることになる。

セント・レジス社の取締役会は、ゴールドスミスの場合と同様、マードック氏に買収されることを拒否した。しかし、当時のマードック氏の勢いから見て、セント・レジスは「抵抗してもいずれは買収されてしまう」と判断したのであろうか。ひそかに「ホワイト・ナイト」を物色しはじめる。そして3週間もたたない7月30日、突如としてヘイズルトン会長は、チャンピオン・インターナショナル社のシグラー会長兼社長と同席のもとに、次のような声明を発表し、ウォール街を驚かせた。

「チャンピオン社はセント・レジス社の株を60%まで1株につき55.50ドルで公開買付けを行う。セント・レジス社は、このオファーがセント・レジス社の株主にとって最大の利益になるものと考え、この買付けを支持する。60%の買付けが成功したあとの残余の40%の株式に関しては、セント・レジス社1株をチャンピオン社の株2.85株で交換し、セント・レジス社はチャンピオン社と合併する」。

これに対しては、マードック氏もさすがに慎重で、オーバービットするようなことはしなかった。むしろチャンピオン社に持株を売却することによって、キャピタル・ゲインを得る方を選んだのである。すなわち、マードック氏は、チャンピオンが公開買付けを発表した時点でセント・レジス株を183万株所有しており、その平均取得価格は35ドルであったから、55.50ドルで処分すれば約3,750万ドルの利益が転がりこむことになるからである。その意味では、彼は最初からセント・レジス社を相手にグリーンメイルすることを狙っていたのかも知れない。

こうしてセント・レジス社はチャンピオン社に吸収合併されることになり、1984年11月に新しいチャンピオン・インターナショナル社が発足した。合併当時の両者の規模を比較、合計すると表1のようになる。最近のディレクトリーでチャンピオン社を調べて見ると、数多くの工場がリスト・アップされているが、セント・レジス社との合弁によって得たものは表2の通りである。なお、上記のほかにワシントン州にあったもとのセント・レジス社のタコマ工場(クラフト紙、日産900t)は、その後、シンプソン/ペーパー社の手に渡った。

【次の標的コンチネンタルキャン社】
セント・レジス社を支配下に置くことはできなかったけれども、グリーン・メイルによりゴールドスミスは5,000万ドルあまりの利益をあげた。その勢いで次に着目したのがコンチネンタル・キャン社である。同社は板紙と紙器の製造をメインとし、南部に4つの板紙一貫工場を持っていた。社有林も、ジョージア州、ルイジアナ州などに150万エーカー(約61万ヘクタール)ほど所有していた。

売上高は1983年には42億ドル以上もあり、大手10指に入る紙パ・包装材のメーカーであった。このコンチネンタル・キャンに対し、ゴールドスミスは1984年6月、同社の発行済株式の全株4,200万株を1株につき50ドルで買収する意向である、と発表した。総額21億ドルのビッドで、当時のレート(1ドル=240円)で換算すると5,040億円に相当する規模の大きいオファーであった。

この頃のアメリカでは、大規模なM&A活動が盛んに行われ、ピケンズ、ソウル・スタインバーグ、カール・アイカーン、アーウィン・ジェイコブスといった大物が次々と大企業のM&Aを成功させ、膨大な利益をあげていた。インフレの激しい時期だったために、機関投資家も有利な条件が出されるとすぐ持株を手放した。

そうした状況からコンチネンタル・キャンの当時のスマート社長(このあと、レーガン政権時代には商務省の次官に就任した)は、買収がもはや避けられないと判断、ゴールドスミスと会って、買収のための条件交渉に入る道を選んだ。その結果、ゴールドスミスは1株当りの買収価格を50ドルから58ドルに上げることで妥協し、買収が進む手はずになっていた。

ところが、このオファーが出された直後に、これを上回るオファーが、今度はディビット・マードック(カリフォルニアの金融業者)及びピーター・キーウィット(鉱山・建設業を営む)という2人の投資家から出てきた。彼らのオファーは、ゴールドスミスが出した58ドルという価格に50セント上乗せして58.50ドルでコンチネンタル・キャンの全株を買収する、というものであった。

さしものゴールドスミスも、これ以上オファー価格を引き上げてオーバー・ビッドしようという意志は待たなかった。そのため、ゴールドスミスはコンチネンタル・キャンの買収を諦めたが、しかし、自分の持株を彼らに売ることにより、またまた3,500万ドル(84億円)の差益を稼ぐことができた。

一方、マードックらに買収されたコンチネンタル・キャンの工場は、ダイヤモンド・インターナショナル社と同じ運命をたどり、個々に切り売りされて行く。コンチネンタル・キャンが当時持っていた南部の4つの製紙工場は、その後フェデラル・ペーパーボード社とストーン・コンテナー社の手に渡った。内訳は表3の通りである。

なお、ストーン・コンテナー社は、これを契機に次々に工場を買収して行く。80年前半には3工場しか持たなかったが、その後、ライナー工場を中心に積極的に買収を進めた結果、80年代後半には11カ工場を擁する大手製紙会社にのし上がった。そして従来は段ボール原紙がメインであったが、1989年4月にはカナダの大手新聞用紙メーカーであるコンソリデーテッド・バザースト社を25億ドルで買収し、新聞用紙事業にも進出した。(つづく)