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アメリカ製紙業界を変えた男(その3) 1993-10-15(第601号)

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【解体されたクラウンゼラバック社】
ゴールドスミスの製紙会社狙いはさらに高まる。彼がクラウン・ゼラバック社の株を集めているらしいという噂は、1984年5月ごろから流れていた。84年2月、東京で開かれた先述の第1回日米紙パルプ会議には、クラウン・ゼラバック社会長兼社長であるクレソン氏も出席している。セント・レジスをチャンピオンに吸収させる発端を作ったゴールドスミスが、やがて自分の会社に手を伸ばし、2年後には消滅してしまう運命にあるなど、この時、クレソン会長は思ってもみなかっただろう。しかし、セント・レジスやコンチネンタル・キャンの例があったので、クラウン・ゼラバックはその後、敵対的買収を防衛する目的で「毒薬条項」なるものを取締役会で採用した。

毒薬条項とは、「敵対的な買収がなされようとした場合、株主は、その会社が買収された後に存続する会社の株を所定の価格の半額で所得することができる」というもので、買収する側はこれにより合併が高価なものになりすぎ、合併を不可能なものにしてしまう。実際の方法としてはワラント債を発行し、合併と同時に株式に転換する、という方法をとる。クラウンの場合、敵対的買収を試みる者が20%の株式を取得した時点で毒薬条項が発効することになっていた。

しかし、同年(84年)暮れになると「ゴールドスミスがクラウン株の買い占めに乗り出すようだ」という憶測がウォール街に流れるようになった。果たせるかな、85年3月になると既にゴールドスミスの持ち株が5%を越えて(この時点でSECへの報告義務が発生する)8.6%に達しており、彼がクラウンを買収しようとしていることが明らかになった。クラウンの84年売上高は30億ドル、社有林は200万エーカー(約81万ヘクタール)以上持っていた。

【クレソン会長の抵抗】
85年3月19日、ゴールドスミスはサンフランシスコにあるクラウンの本社を訪れた。その際、クレソン会長は、買収には経営陣として反対であることをゴールドスミスに伝え、買収工作を思いとどまるよう説得したが、会談は物別れとなった。4月9日にゴールドスミスが正式にクラウン株を「1株につき42.50ドルで2,720万株(発行済株式の78.4%)を公開買付けする。期限は5月7日とする。但し、クラウンが毒薬条項を撤回することが条件である」と発表した。また、クラウンが毒薬条項を撤回しない場合には51%まで買い占め、クラウンを支配下に置く意向であることも伝えた。

これを受けて、クラウンは4月11日に取締役会を招集し、対策を検討した。その結果、クラウンの方針として「当社の株価は1株60ドルの値打ちがある。もし60ドルで公開買付けを行おうとする者があれば、相手が誰であろうとこれを受ける用意があるが、42.50ドルという価格では当社株を余りにも過小評価していると言わざるを得ない。株主にとって最高の利益とならないので、この買収工作に対しては取締役会として反対する」と発表した。4月25日にはクラウンはウォール・ストリート・ジャーナル紙に全面広告を載せ、株主に対しゴールドスミスの公開買い付けに応じないよう呼びかけた。この直前の4月23日には実はミード社がクラウンに接近し、クラウンを買収する話を持ちかけた。

一時は、クラウンがミード社をホワイトナイトとして迎え入れるのではないかとウォール街を緊張させた。ミード社の代表弁護士はゴールドスミスにも会い、ゴールドスミスの持株を「1株50ドルで買ってもよい」と持ちかけ、ゴールドスミスも「50ドルなら売ってもよい」と答えたが、翌日になってミードから「あの話は無かったことにしてほしい」といわれ、ミードがクラウンを買収する話はあっさり流れてしまった。この事件の背景に、どのような事実があったのかは明らかにされていない。

【臨時株主総会で取締役に】
その後、ゴールドスミスは少数株主権を行使してクラウンに対し臨時株主総会を開くよう要請、総会は5月9日に開くことが決まった。クラウンは、この間にもう一つの買収対抗策を取った。それは同社を(1)山林部門、(2)パルプ部門、(3)包装部門の3つに分け、ゴールドスミスが狙っている山林部門(社有林200万エーカー、約81万ヘクタール)はいつでも売却して、その利益を株主に還元(配当)する態勢を敷いた。

5月9日の総会を控えてクラウン側とゴールドスミス側との委任合戦(プロクシー・ファイト=株主の委任状を双方ができるだけ多く集めようとする争い)が展開された。総会直前の5月7日にゴールドスミス側がウォール・ストリート・ジャーナル紙に全面広告を出し、「クラウンは経営努力が足りない。株価が低迷しているのはそのためで、現在の経営陣は株主に十分報いていない。クラウンは先に打ち出した3分割案を撤回して、自分の公開買付けに協力すべきである。そうすることが株主の利益につながることである」と訴えた。

アメリカの株主は、機関投資家といえども安定株主としての忠誠心は希薄で、株価上昇を優先して考える傾向が強い。ゴールドスミスの買収工作は、その意味で起爆剤となっており、彼の一連の行動に同調する株主が多くいた。

総会では、ゴールドスミスが先に出した「3分割案を撤回せよ」という動議はクラウン側の思惑通り否定された。もっとも、この総会に出席できた株主は、直前の株主名簿に記載されていた株主に限られており、その時点でのゴールドスミスの持株はまだそれほど多数を占めていなかった、という理由もある。だが、ゴールドスミスはこの総会での新取締役(4人)の選任に当たっては、累積投票(1人の取締役候補に4人分の投票を集中させる)により、自分をクラウンの取締役として送りこむことに成功した(14人中の1人)。

しかし、ゴールドスミスが以前に出した株式公開買付けは、その条件であった「毒薬条項の撤回」ということがみたされなかったため、無効となった。その一方で、彼はクラウンの株を市場から着々と買い増し、5月14日にはその持株比率が19.6%すなわち「毒薬条項」の発効する20%に迫りつつあった。そしてクレソン会長に対し強力な圧力をかけ続けたが、同会長は頑としてこれを受けなかった。2人の間柄は感情的にも対立するようになり、そのままゴールドスミスの持株は20%を越えてしまう。すなわち、この時点でクラウンの毒薬条項は発効したわけである。

あえて毒薬条項を発効させたゴールドスミスの意図は、クラウンという会社を「完全買収する」作戦から「支配する」作戦に切り換えることにあった。

【流れはゴールドスミスに】
この頃から、運はゴールドスミスに味方し、クレソン会長の思惑は不利に傾いて行く。紙の市況低迷でクラウンの業績が悪化しはじめたからである。それに取締役会内部でも、クレソン会長のやり方に異存が出るようになった。

クラウンという会社は、110年も前の1870年ごろ、ユダヤ系ドイツ人のゼラバック氏が創業したもので、1984年当時にはその孫が取締役会のメンバーになっていた。しかし、4年前の1981年にクレソン氏がクーデターのような形で強引に、しかも51歳という若さで会長兼社長の座についていた。

そのようなクレソン会長のやり方に、内心反感を持つ役員もいた。そこへ業績悪化で84年7〜9月期には8,400万ドルの赤字を出してしまった。そのため株価が急落して一般株主の不満も高まっていた。株価下落はゴールドスミスの買い増しを容易にする。ゴールドスミスもこのチャンスを利用してクラウン株の買い増しをさらに進め、やがて持株比率は50%を越えるまでに至った。

もはや小株主ではなく、過半数の議決権を持つ大株主であった。大株主となってからのゴールドスミスの行動は素早い。クレソン会長に対して、業績悪化を理由に責任を取って辞任するよう迫った。

ここにおいて、さしものクレソン会長も抵抗することができず、ついに彼は会長兼社長のイスをゴールドスミスに明け渡したのである。クラウンを支配下に収めたゴールドスミスは、すぐさま市場からクラウン株500万株をクラウン自身に買わせ(自己株取得)、自分の持株比率を高めた。そして、同時にクラウンの資産の切り売りにかかったのである。

彼が最初に切り売りの話を持ちかけた相手は、ダイアモンド・インターナショナル社を切り売りした際の相手と同じであった。つまりジェイムス・リバー社のハルセー社長であった。ハルセー社長は、クラウン全体を吸収合併することを望んだのだが、毒薬条項が障害となって目的は果たせない。そこで同年(85年)12月中旬、両者はクラウンの紙パ部門を7億7,000万ドルと評価して、ジェイムス・リバー社の株とスワップすることに合意した。

これにより、ゴールドスミスは200万エーカーに及ぶ山林を温存し、紙パ部門だけを売却することに成功した。クラウン社の85年の売上高は31億ドルで、全米紙パルプメーカーの中でも5指に入る名門有力企業であったけれども、ついに85年末には115年の歴史に幕を閉じ、その名を永久に消した。クラウンに所属していた紙パ工場は、いったんジェイムス・リバー社に渡り、その後、ジェイムス・リバー社が一部を転売したために持ち主は分散する。90年末現在、元クラウンの工場は表4のような所有形態になっている。

なお、クラウンのカナダの工場(バンクーバー島のキャンベル・リバー工場=新聞用紙生産)は、これより前の83年にニュージーランドのフレッチャー・チャレンジ社に、またポートタウンゼント工場も同じ83年にドイツのハインドル社に売却されていた。一連のクラウン解体によってゴールドスミスが得た利益は、ウォール街の観測では3億4千万ドルから4億4千万ドルに達したと見られている。

買収を防止する手段として最も有効と考えられていた「毒薬条項」も、ゴールドスミスの前にはほとんど効力を持たなかった。そのやり方にアメリカの製紙会社の経営者は安閑としていられなくなっていた。ウェアハウザー社が、85年に同社の組織を3分割したのも買収防止を狙ったものである。分割したのは紙パルプ部門(ウェアハウザー・ペーパーカンパニーという名称を使っているが、正式の法人ではない)、山林部門、そして不動産部門だった。

【製紙メーカーは攻めれば儲かる】
しかし、ゴールドスミスのやり方は「製紙メーカーを攻めれば儲かる」といった神話を作りだしたようで、85年10月にはサンフランシスコに本社を置くポトラッチ社が、カナダのバンクーバーを本拠地とする金融財団のベルツバーグ一族(ユダヤ系カナダ人で、主として不動産業から成長した)によって買収の標的にされた。ベルツバーグ一族はポトラッチの株を4.4%買い集めた段階で「ポ社の全発行済株式を1株45ドルで買収する意向である」と発表した。

同社の発行済株式の総数は1,540万株であったから、総額で6億9,300万ドルとなる。当時ポトラッチ社の株価は、ニューヨーク株式市場で42ドル前後で取引されていたから、3ドルのプレミアムを付けて買収しようとするものであった。もちろん、ポトラッチにとっては予期しなかったオファーであり、同社の取締役会はただちにこの買収に反対であることを表明した。同時にポトラッチのトップは、個別にベルツバーグと接し、ベルツバーグが持つポ社の株の買い戻し交渉にかかった。その結果ポトラッチ社は、ベルツバーグが既に集めていた同社株109万株(全体の7.1%)を1株43ドルで買い戻すことで折り合いがつき、買収から免れた。

ポトラッチ社のケースは典型的なグリーンメイルであり、ベルツバーグ一族はこれによって1,200万ドルのキャピタル・ゲインを得た。(つづく)