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「モスクワ事情あれこれ」(その1) 1993-01-30(第576号)

以下は、1992年(平成4年)6月、日本色板紙工業組合の研修旅行に同行した同工組専務理事太田巌氏が、日本製紙連合会の機関紙「紙・パルプ」に寄稿した紀行文からの要約である。1991年12月、ソビエト連邦が解体され、構成各共和国がそれぞれ主権国家として独立した。それから半年後のモスクワで、一行が見聞したロシアの経済事情が、バブルの余韻さめやらぬ日本人旅行者の目でクールに述べられている。以下、要約してお伝えする。  (2010-06-07/段ボール事報社)

『今回、日本色板紙工業組合の研修旅行で北ヨーロッパ各国を回った。その中で、せっかく北ヨーロッパに行くのであれば、ぜひソ連崩壊後のモスクワを経由したいとの参加者の要望が強く、旅行会社の2度にわたる中止勧告があったにもかかわらず、無理にロシアの首都モスクワを経由することとなった。

業務報告書は「北ヨーロッパ研修報告書」として組合で作成されているが、ここでは特にこの目で見たモスクワ事情のあれこれを報告させていただく。報告する前に、現在の為替レートについて触れておく。ロシアの通貨ルーブルは、4半世紀前にはUSドルよりも高く、日本で約400円を越えていた。92年3月、1ルーブルが日本円で約2円、私たちの訪問した6月末には1円または1円以下、9月1日にロシア政府の発表したところによれば205ルーブル=1ドルで、10月末ぐらいのヤミ相場レートでは、1ドル=395ルーブル程度とのことで、日本円評価によると約31銭にまで凋落してしまった。いかにインフレの進行度合が激しいか、ご理解いただけるものと思う。以下、この報告文中に出て来る事柄は92年6月末の出来事なので、そのつもりでお読み願いたい。現在は、インフレがもっと進行しているものと思われる。

▽幽霊空港の非効率
平成4年6月25日、木曜日、12時、日本航空441便は定刻通り成田をスタートした。ジャンボ機なのに客室はガラガラの状態。スチュワーデスにどの程度の乗客があるのかと聞いても初めは答えを躊躇していたが、100名以下しか搭乗していないとのこと。この便はモスクワ経由パリ行きの便である。モスクワよりパリまでの乗客があるのかとの質問には、ほとんどそのような客はいないとのことで、これでは日本航空も赤字運航になると思った。

乗務員たちはモスクワで勤務交替をすると言ったので、モスクワのどんなホテルに宿泊するかと聞いてみたところ、シェレメチェボ空港から約40分のところにあるコスモスホテルに宿泊するとの答えである。そして、そのホテルはロシア国営ホテルだが、設備も悪く汚い、食べ物もロクにないホテルだから憂うつであるとつけ加えた。8時間の旅は比較的快適であったが、到着前に所持金の申告書について説明がくどいくらいあり、通関の時に確認のスタンプを押してもらい、出国の時に所持金がそれ以下の金額になっていないと面倒なことになるとの説明であった。

なんだか、だんだん憂うつになってくる。シェレメチェボ空港はかなり広く、さすがはロシアの首都モスクワの表玄関であると思わせた。しかし、そこには異様な光景が広がっていた。ソ連の国営航空会社のアエロフロート機が30〜40機、諸所方々に駐機しているではないか。やはり大国の航空会社の行うことはスケールが違うなと一瞬感じたが、国際空港としての活気が全くない。そして、エンジンのかかっているアエロフロート機は1機もないではないか。見渡したところ、搭乗してきた日航機のほか、海外の旅客機は3機ほどで、空港独特の騒音すら全く聞こえてこない。まるで幽霊空港にまぎれ込んだおもむきである。

いざ空港のビルの中に入ると、通過客用の部屋の前を通るが、その部屋に誰一人いない。初めて見る光景に戸惑いながら進んでいくと、段々と暗くなる。更に行くと階段があり、その横にはエスカレータがある。しかし、そのエスカレータは動かなくなってから相当の時間が経過しているようで、挨だらけである。階段を下ると、一層暗闇に近い状態となる。電力の消費を極力抑えているようで、目がなれるまで、まるで暗闇の状態である。手荷物がどの手荷物台に出てくるのか、表示がない。相当の時間が経って、ヨーロッパ方面から前に着いた英国のBA機の客の手荷物と一緒に出て来はじめた。このため、手荷物を受け取るまでに、かなりの時間が経過した。

次に入国の段階になると通関窓口の開いているところを勝手に取り替えたりして到着客を混乱させる。前に並んでいる者が一向に進まない。どうなっているのか、いらいらしてしまう。漸く私の番となる。窓口の役人は高い窓口から睨みつけていて、ニコリともしない。通貨申告書を出して待っていると、ロシア語で何やら言っている。こちらがロシア語は分からないので、英語で話してくれと言うと、分けのわからないとの表示であった。そして、こちらのポケットを盛んに指さす。その後、通貨申告書を叩いて、何やら言っている。そこでトラベラーズチェック、日本円、USドルと順番に出していくと、ドル札を1枚1枚、まるでわざと時間をかけて数えているのではないかと思うくらいのスピードで調べていく。そんな具合で、飛行機を降りて通関が済むまでに1時間以上かかってしまった。

▽通訳はモスクワ大学卒のミセス
通関を終えて一歩入国すると、ロシア人でごった返している。その出口のところに、一人の長身のロシア人女性が立っており、しばらくお待ち下さいと、あまり上手くない日本語で話かけてきた。この女性がこれから2日半つき合う通訳のミセス・リューダである。空港前のバス乗車場には1台ずつしかバスを乗り入れることができない。そのバスがずっと1列になって並んでいる。リューダさんはバスを呼んでくるから待っていて欲しいと言い残して消えてしまった。また、ここで相当の長い時間、待たされることとなる。

30〜40分も経ったころ、漸くバスが現われた。見るとベンツ型の大型バスだが、フロント・ガラスに大きなヒビが入ったままの状態。これが国営観光会社インツーリストのバスなのである。ロシアでは補修用の機材がないと聞かされていたが、国営観光会社インツーリストのバスにまでその影響が現われているのか、と感じた。結局、バスが動き始めたのは、飛行機から降りてから2時間以上も経っていた。

かつての大国ソ連は、このように表面と実態とは異なっているのかと実感させられた。宿泊するホテルは、昨年開業したばかりのフランス系のプルマンアイリス・ホテルである。中規模のホテルだが、人の出入がほとんどない。また、車は4〜5台を除いてほとんど駐車していない。これがホテルかと疑ってしまう。しかし、中に入ると、結構しゃれたホテルで、ホテルショップもあり、レストラン、バー等も一応揃っている。今夜の食事はホテルのレストランとなっているので、果たしてどのような食事が出て来るのか、いささか不安を感じた。

皆が部屋に入っているとき、ミセス・リューダがロビーに残っていたので、ロシアの事情について聞くことが出来た。それらについて、以下、若干紹介する。

まず、彼女は、現在38才の家庭の主婦。ご主人は鉄道大学卒業後、鉄道技師として勤務していたが、今回のソ連崩壊の騒動によって失職し、現在はタクシーの運転手として働いている。子供は5才と3才の2人いるとのこと。そして、彼女はモスクワ大学理学部化学科の卒業であると話していた。彼女の経歴からして、日本語とは全く無関係のように見えたので、なぜ日本語の通訳になったのかと聞いてみると、大学時代、ヨーロッパ系の文章と日本の文章は全然異った文章構造になっていることに関心を持ち、それ以来、独学で日本語を学んだそうである。そのために、あまり日本語が上手に話せませんと恐縮していた。

日本に留学したことがあるのかと聞くと、観光旅行で12日間だけ兵庫、京都、奈良、大阪の各地を回ったとのことであった。彼女の言うには、日本語のほかに英語、フランス語が出来るが、その言葉で契約している者が大勢いるので、仕事が回って来ないから日本語を選んだが、やはり仕事があまりなくて、次の仕事の予定は10月にあるのみであるとのこと。

▽ルーブルの通用しないホテル
彼女から聞いたロシア事情について紹介する。ガソリン1リットル8ルーブル(その後2倍の16ル一ブルに値上げになった)、また煙草や酒は貴重品で、煙草は1箱25ルーブル(彼女のご主人には1日に2本しか吸わせることが出来ない)、ライターは29ルーブル、パンティーストッキングは全くの貴重品で125ルーブル、モスクワにおける平均月収は3,000ルーブル程度とのことで、日々生活するのが精一ぱい。炭鉱労働者その他の一部の特権階級労働者は特別高く、10,000ルーブル程度とのこと。エリツィンの月給は15,000ルーブル、ゴルバチョフの年金は月額4,000ルーブルと、日本と比べると小額だが、私たちの物価と比べる時は約100倍程度してみることが必要らしい。年金生活者の年金額はある程度引き上げられたが、月額500〜600ルーブルで、何とか飢えを凌ぐ生活を強いられている。

ミセス・リューダに封を切った日本の煙草とライターを添えて差し出したところ、ご主人に有り難くいただいて帰ると言って持ち帰ったほどである。ロシア人には今や国家の概念は余りなく、一定の年齢層以上の者達には自由の意味すら理解できない。因ってクーデター騒動の折には、これらの人たちはペレストロイカ政策にこぞって反対したそうである。

レーニン以降、ロシア人は旗の振られる方向に皆が動くので、ロシア人に独創的な考えを求めたり、コスト意識を求めて競争したり、事業の段取りを企画、立案、実施することなどは全然不得手なことで、それを期待することは無理のようである。いまでも、ロシア人には独裁者待望論がある位である。

1917年にレーニンが帝政ロシアを倒してから、92年で75年になるが、その時点でソ連は凍結されたようなもので、共産主義国家ではなく、共同貴族と称する一部特権階級の支配する帝国主義国家に変貌したに過ぎなかった。そしていま、国営航空会社アエロフロートは世界最大の航空会社の一つだが、一部の国際線とごく限られた国内線で運航しているものの、大部分はガソリンと資材不足のため整備も出来ず、運休している。このため、航空機はどんどん機能が劣化しているとのことで、シェレメチェボ空港はあまり機能していない。日本とモスクワの間では1日に3〜4便運航しているようだがというと、それは成田で補給、整備しているから飛べているだけだとのことであった。

私たちがモスクワ到着時、この空港は幽霊空港ではないかと感じたのは正しかったようである。彼女は、英語による名刺を差し出した。名刺は非常に高価のものであろうと尋ねると、今後の仕事のタネだから作成していると言われ、自由主義国の人と変わらない考え方に驚いた。いま、ロシアで一番喜ばれるプレゼントとはとの問いには、しばらく考えて、やはりUSドルであるとの回答であった。

プルマンアイリス・ホテルのレストランでの夕食は、ビール、ワインなどもあり、一応の恰好を整えたディナーで、まあまあの食事が食べられた。部屋のサニタリー品は日本人でも充分知っているフランスのブランド品が備えられていて、家具調度品もフランス好みのものであり、日本の一流ホテル並みの状態である。しかし、驚いたことに、ロシアのルーブルが通用しない。支払はドルかフランで行わねばならない。あとで旅行会社に聞くと、モスクワのホテル料金が一番高かったそうで、それにはどうも生命の保証料が含まれていたようである。』