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得能正照自叙伝「発明街道」

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1992-08-30 【連載第1回】(平成4年)

以下の「連載編」は、「段ボール事報」の平成4年8月30日号を第1回に、12月25日付の同年最終号まで合計11回連載したインタビュー記事の全文です。この連載が、後年、「得能正照自叙伝」刊行につながる経緯となりました。

本紙では8月28日、エス・ケイエンジニアリング本社(東京都台東区元浅草1-8-7、元浅草SKビル、電話03-3843-2449、FAX同2407)で得能正照同社社長にインタビュー、氏の近況から、これまでに手掛けて来られた数々の技術開発の経緯、現在進行中の新技術開発の話題、さらには第3世代、第4世代技術への展望など、幅広い角度からお話をうかがった。当日のインタビューは、ご挨拶もそこそこに、次のように始まった。

知一郎さんに徹底的にしごかれ、教育されて

私は、大昭和製紙の先代社長、斉藤知一郎さんに徹底的にしごかれ、教育されました。知一郎社長は私の伯父にあたりますが、私は当時30才で吉永工場の工場長を命じられ、1年365日、その間に一日たりとも会社を休んだことがなかったんです。朝5時、6時から会社に出て、それからいつも夜中まででしょう。出張しても、帰りは必ずまた工場に寄って。というのも、先代社長にはそれだけの迫力がありました。それに、家が工場から100mほどのすぐ近くで、年寄りだから、朝の5時ごろからユカタがけで工場に出てくるんで、それで困っちゃうんです(笑)。

知一郎さんには、それこそ仕事のイロハから、製紙のことまで全部教わって、そして工場長をやらして貰いましたが、私の工場も相当の利益をあげましたからね。

−−当時の大昭和さんは凄い勢いでしたが。

ええ、物凄いんです。吉永工場だけで、当時、月に1億円ぐらいの利益をあげていたんです。当時のカネで、月にですよ。最初は、実は月に600万円ぐらいの赤字だったんですが、その後、私が昭和30年から吉永工場に勤務していた間に、大変な黒字に変って、ご覧の通り、昭和37年9月の利益が8千万円でしょう、こんな状況だったんです。
(本紙注)それは、氏が「これだけは大事に持って出たんだ」という手塩にかけた吉永工場の損益計算書だった。横長の集計用紙を何枚もセロテープでつないだ数表で、30年の歳月の経過でセロテープが全く乾き切って、ページを繰るごとに氏の手許にハラハラと散った。

これだけは私の記念に持っているんです。これは私だけの手柄じゃないです。半分以上は斉藤知一郎先代社長のおかげです。私は、どうやるか、一生懸命、真似ながら、教えて貰いながら、進めて行ったわけです。それで、儲かるためにはどうあるべきかということが、よく分かったんです。

知一郎さんが亡くなって、了英さんに変ってから、私は了英さんと大喧嘩して、大昭和をやめてレンゴーに移りましたが、約1年遅れぐらいで、加藤さんが東洋製罐からレンゴーに来たわけです。

私は、レンゴーでは、まず製紙関係の立て直しを頼まれて、利根川製紙工場に1年ばかりいて、それから本社に来て、段ボールもある程度は見はじめていたわけです。
そのとき、加藤さんが私に、「得能君、あんたも新入社員みたいだし、オレも新入社員みたいなんだが、レンゴーに入って、レンゴーは将来どうあるべきかとか、どういう方向へみんなを持って行くかという問題、それから業界との問題、製紙会社との問題、それらについてレポートを出してくれ」と言うんです。

それで私は、「分かりました」と言って、A4の便箋用紙に10枚ぐらい論文を書きました。レンゴーに一年ぐらい勤めてみた結果、どうあるべきかと考えたことを書きました。それを、加藤社長は亡くなるまで持っておられましたね。

亡くなる1年ぐらい前に、「得能君、オレが入ったとき、これを依頼したけど、覚えているか」と言うので、「覚えてますよ、東洋製罐からすごい専務が来たなと思って書いたから、良く覚えています、内容もよく覚えてます」と言ったら、加藤さんは、「オレは東洋製罐の高碕社長にも見せたら、得能君って凄えなと褒めていたよ。それに、お前の言う通りの状況に来たな」というんです。まあ、そんなように加藤さんという人は来て、すごかったんです。

それで、加藤さんが来ての一番というのが、機械の開発だったんです。「ヨソがやれないものを、自分でやらなきゃダメだ。得能君、カネは幾ら使ってもいいからやれ」と、この一言でした。それ以来、加藤さんは、社長をやめられても、亡くなられるまで私をバックアップしてくれたし、私が開発を進めていった問題については、いくらでも資金を出してくれました。

加藤さんばかりでなく、東洋製罐の高碕社長も、側面から援助してくれました。「やれ」といってね。福井化字工業を買うときも、東洋製罐の高碕社長に呼ばれて行くと、「福井化学を買った方がいいか、得能君、キミはどう思うか。キミの意見によっては買うけれど」と言われて、「そりゃあ、買いましょう」と言ったら、即決で「買え」となりました。あの人は、それぐらい力がありました。

そういう強力なバックアップがありましたから、それからずーっと、色んな機械の開発が思う存分に出来たわけです。これはもうウソも隠しもない話です。

レンゴーに移ってからは加藤さん

大昭和製紙で知一郎さんに教えられ、レンゴーに移ってからは、加藤さんに、とことん言われたわけです。

加藤さんが言うのは、つまり、「機械メーカーが開発したマシンを、必要に応じてただ買って来て据えるというのは、競争力を無くすモトじゃないか。カネさえあれば済むことだから、これは、銀行から借りてくれば、誰にでも出来る商売になる。段ボールのような、単純な、ハイテクのいらない、人を使ってこう機械を回して作るようなものは、スピードが速いとか遅いとか言っても、結局、平方m当り幾らということでは同じなんだ」と。そうすると、もちろん資本力だとか、そのほか色んな問題もあるけれど、単価にすると、中小の方が安いものが出来る可能性もあるわけです。だから、加藤さん曰く、「それを飛び越せないとダメだ、レンゴーがつぶれていくだけだ」というわけです。

「では社長、どうするんですか」というと、加藤さんは「東洋製罐を見てみい」と言うんです。

東洋製罐を見てみいと言われても、私はカンカラの機械なんか見たこともないんで、そう言うと、「オレが案内してやる」となって、加藤さんが、最新鋭の工場を2工場か3工場、それから中央研究所にも私を連れて行って、技術屋にも会わせて、細かいところまで全部見せてくれました。

すごい機械でしたね、カンカラを作るのに。加藤さんは、「どうだ得能くん、すごいだろう」と大威張りで、「この機械はどこで作っているんですか」と訊いたら、「バカたれ、みんな自分のところで作っている」と言うんです。

「だけど、東洋製罐はコンチネンタル・キャンと提携して、コンチネンタル・キャンのパテントのもとに作っているのと違いますか」と言うと、「それは昔の話や、今は全然関係ない」とのことで、「東洋製罐の方が技術レベルから何から、よっほど上だ」というんです。

そういう機械を自分で開発して、パテントは取る、いろいろするけど、ヨソには一切売らない、自分のところだけの仕様で作っている。ということによって、ヨソは機械がないから参入できないということを話してくれたわけです。

それから、コストといい何といい、自分独自の機械だから、自分の製品の製造の仕様に合わした、自分に全く向いた機械を作っているというんです。「だけど、ヨソに売らないのだから、機械メーカーは赤字になるでしょう」と言ったら、「そんな赤字なんか知れたもんだ」というわけです。

そのとき、東洋製罐の新鋭工場を2工場か3工場、それと東洋鋼鈑の圧延工場も見せてくれて、そして、「自分独自の機械を作って、それをヨソには売らないということで、生産性なり何なり生産力の差をつけないと、得能くん、大きな会社は大変なんだよ、利益が落ちてくる」と言いました。

だから、振り返ってみると、大昭和吉永工場のときに2億だ、3億だという利益が出たのは、それだったんです。要するに、知一郎さんが、「得能、お前は独自の機械で、好きなように作れ」というので、ヨソより率先して色んな機械を入れて、新しい製品を作ったんです。

私は、海外へは、機械の買い付けにしょっちゅう出されました。「いいと思うやつは、みんな買って来い」と言うんです。それで、三十代のときに海外に何度も行って、社長に電話をかけながら相談するんです。「5千万円ぐらいの機械ですが、買ってもいいですか」というと、「ああ、すぐ買え」と、こう言うでしょう。そんな調子でした。

それで、ヨソより早く、例えばコートボールなんかそうなんですが、ヤーゲンから初めて機械を入れて、エアナイフで、オン・マシンでコートボールを作ったのは私が最初なんです。そういうことを振り返ってみて、なるほど、そうだと思いながら、レンゴーでも色んな開発をやって来たんです。

DDS-Rを三菱重工に売って怒られた

ところが、このDDS-Rは三菱重工に売っちゃったんです(笑)。これは、日本リライアンスと共同して開発したんですが、売っちゃったから、目の玉が飛び出るほど、加藤さんに怒られました。「何ちゅうことや」というわけです。「ウチ独自の機械でやろうとしているのに、ヨソヘ売りやがって」と、もう散々でした。

実はレンゴーより早く、三菱を通じて、森紙業に10台入ったんです。それで向こうの三菱製の方が、寸法精度から何から良いものだから、今度はレンゴーの工場に、ユーザーからクレームがつくわけです。「森紙業みたいに寸法精度をよくしてくれ」というんです(笑)。

レンゴーでは、工場が「うん」と言わなければ、なかなか入れられないシステムだから、工場長にいろいろ説明して、早く入れろと言うんだけれど、カネがかかるからとか何とか言って、入れないんです。それで面倒だから、三菱重工に「ヨソに売れ」と言って、ヨソに入れちゃったんです。

それで怒られました(笑)。東洋製罐の社長にまで言われました、「得能くん、あれは何だ」と。平謝りで、「済みません」(笑)という具合だったんですが、これがその元凶なんです。

【17年前の本紙記事から(1)】

上掲は、昭和51年2月25日付の本紙記事の引用である。同年1月に創刊したばかりの本紙は、まだ第6号だった。この記事の要旨は次のようなものであった。

『レンゴー及び三菱重工の両社は2月24日、DDS-R(デジタル・ダイレクトドライブ・サーボ・ロータリーカッターの略)方式の段ボールシート用カットオフにかかる製作販売協定を結んだと発表した。この装置はさる昭和49年、レンゴーがダイレクトドライブ式カッターの基本特許をもつ日本リライアンス(パイプ切断など鉄鋼関係用途に開発)と共同でコルゲータ用カットオフ向けに開発、レンゴー利根川及び京都工場でテストを重ねてきたが、その後、レンゴーから三菱に対して同装置の機械部分の製作の依頼があり、両社間で更に種々改良の上、レンゴー名古屋工場向けに初めて本格的なテストを兼ねたコルゲートマシン用実用機として三菱が受注、四月上旬には稼働に入る予定となっている。

レンゴーは、これが成功の暁には、国内はもとより、世界の段ボール産業の発展に寄与するところ大であるとして、この装置の利用を業界全体に無償で公開してゆくとの英断を下し、同時に本制御装置、及び駆動装置の完全な実稼働に当って最も必要とされるカッター本体の加工精度、剛性などを勘案、三菱重工をこの協定のパートナーに選んだ。

昨年8月、レンゴー得能常務がダラスのTAPPI総会で発表して以来、世界中に大きな波紋を呼び、5月に大挙来日するCID視察団の主目的も、このDDS-R、及びHCRシステム(ハイスピード・コンティニアス・ランニング・システム=高速連続自動運転装置)の見学にある。

レンゴー得能常務談 向う5年か10年以内に、世界中のコルゲータカットオフの制御装置はこれに変るだろう。この開発によって、プレプリントしたライナーをコルゲータにかけて、現在のような製函工程での段つぶれをなくしたケースの生産も可能。いまは日本の技術が世界の最先端です』。

【17年前の本紙記事から(2)】

前号に、本紙第6号の掲載記事をお目に掛けたが、左掲コピーは、その10日後、昭和51年3月5日付第7号の掲載記事である。

『既報の通り去る2月24日、レンゴー・三菱重工の両社が「DDS-R式段ボールシート用カットオフ」にかかる製作販売協定を結び、同日、東京・丸の内の東京会館で新聞発表を行ったが、その記者会見の際、レンゴー得能常務が語った要旨を以下にまとめる。題して、「段ボール技術ざっくばらん」。

『ご承知のように、レンゴーでは創立50周年を記念して、従来の"段ボールひと筋"から"総合包装企業"をめざして歩んできました。この成果は、ユーザーにおける包装作業の合理化をはかるために開発した種々の包装機械、即ち贈答用ケース自動組立機、トレー成型機、自動蓋かぶせ機、仕切自動挿入機などの納入実績がすでに100台以上に及んでいることでもお分かりいただけるでしょう。これと併行して、本業の段ボール生産については、生産性・品質・原単位のいずれの面でも世界の一流企業たるべく努力しております。今日、わが国の段ボール産業が質的な面で欧米諸国を次第に凌駕してきたのは事実です。段ボール機械も、わが国の機械があらゆる面からみて最高です。

わが国では、特に欧米と異なる肉体条件、原材料条件、及び段ボール製品に対するわが国独得のユーザーからの厳しい要求が、米国の技術をそのまま受け入れることを許さなかったのです。ですから、どんな設備をとってみても、製作前の段階で、また使用中の段階で機械メーカーとわれわれ段ボール会社との間で本質的、また部分的な改良がどんどん重ねられました。そして、この努力が今日、わが国の段ボール産業を世界一の技術水準まで押し上げる原因となりました。(中略)米国の技術者が、こんなものを開発したと得意になってみせてくれます。しかし、よく見ると日本では全く必要ないものだったりします。われわれには想像出来ないことだけれど、全従業員が1年間で全部入れ替わってしまうような工場では、日本人にはとても考えられないようなものがぜひ必要だったり、また、日本に来て、われわれの工場を見学して、「こんな優秀な機械を我々も欲しいが、使いこなせる従業員がいない」と嘆いたりもします』。

実際には、こんなものは、私の部下が考えたものでも何でもないんです。リライアンスと色々話があって、日本リライアンスが「得能さん、一回、製鉄マシンを見ませんか」というんです。それで、あそこの兵庫県の製鉄を見に行きました。パイプの切断機なんです。するとパイプがピョーッと出てきて、フワッと減速し、ピシャッと止まって、バンとこう切るんです。それからまたシャーツと出してきて、フワッと止まって、バンと切るんです。

それを見て、「これはカッターに利用できるじゃないか」と思ったんです。ロータリーカッターですね。これがパイプの長さと同じとすると、ゆっくり回して、動いて同調してスポッと切る、またこう回して、こうすればいい、そうだろうと言ったら、「ええ、それは出来ます」というんです。

「それじゃ作ろうか」となって、ちょうど空いているカッターがあったんですが、普通の段ボール工場にはまず入れられないから、利根川工場の加工工場へ行って、私の傘下ですから(笑)、利根川工場なら空いていて広いから入れろと、そのカッターを入れて、テストしてみたら、うまく切れるんです(笑)。これはいけるちゅうわけです。

それで、すぐ実用機でやろうとなって、加藤さんもやれというから、大阪工場のラングストンのコルゲータに取付けました。ただ、おかしなことになったら困るから、リーブスベルトだけは、そっくりそのまま、裏側は取って置いて、表側にドライブを取りつけようというわけです。

ところが、こんな大きなモーターは無いんです。普通のモーターじゃダメだというんで、それじゃ仕方がない、世界中探せといったら、ウェスチングハウスのモーターがたまたまあったんです。それで、モーターがイカれると困るから、ウェスチングハウスから10台輸入せいと、リライアンスにそのモーターを10台輸入させたんです、予備を考えて。その中の一台を持って来て、くっ付けたら、うまくいったんです。それでTAPPIに発表したわけです。

ウェスチングハウスから輸入のモーターがドーンと爆発

アメリカの連中はみんな、「ウソだ」と言うんです。だから、「ウソだと思うんなら、見に来い」と言ってやりました。それで、ダックスフントみたいに胴長のモーターでやったんですけれど、一カ月経ったら、ドーンと爆発しちゃったんです。ローター、つまり中の回転子と外側とが接触して、ショートして、爆発したんです(笑)。

これはいかんと、予備はなんぼでもあるから(笑)、次の新しいのを入れて、徹底的に調べたら、やはり胴が細長すぎて、ローターがこう触れるわけです。それで擦っちゃうんです。それじゃ、中のやつを出して補強しようじゃないか、溶接でとなって、補強したわけです。そして、こんどはアメリカから輸入するのはかなわんから、それを真似て作れというわけです。それで、リライアンスが出入りの業者に言って、DDスケアの少ない、細長いモーターを作って入れたんです。それが「DDS」の始まりですよ。それをヨソに売り出したんです。

ドーンと爆発したんで、ウチの工場の連中は、みんなしびれて、よう入れられないんです、爆発したら困ると言って。私は急速に広まると思って、モーターを10台輸入させたんですが、その1台が爆発したから、これはあかんと開発をやり直して、爆発したモーターを外して、予備のモーターも取り外して、こんどはリライアンスで開発したモーターを入れて、それでやったらうまくいって、全然間題ないんです。

だから、各工場へ入れようじゃないかと、工場長を呼んで、見せて、入れろと言ったら、「いや、爆発するからイヤだ」(笑)。

これじゃ、仕様がない、モーターはもう何台か作ってますからね。「それじゃ三菱さん、提携して販売してくれ」(笑)となったら、森一夫さん(森紙業社長)が「得能さんが開発したんなら大丈夫だ、オレが入れる」と言って、10台、ポーンと入れちゃったんです。なんにも問題ないんです。

それで、森紙業が先に行っちゃって、みんながカーツとして、みんなに怒られたんです(笑)。

裏ばなしはそうです。誰も知らないことです。私は怒られたけど、部下にも、何も言いません。私が一手にかぶっていましたから。また、言う理由もないです。私が全部やったんです、やらしたんですから、ヒトにかずける理由もないし、仮にクビになっても、別にどうということないか、と思っていました。
(本紙注)このインタビューが始まって5分も経たないうちに、記者が最初に考えていた通算3回ぐらいの連載(インタビュー時間にして1〜2時間)では尻切れトンボで、全く恰好がつかないことになると、すぐそう思われた。なにしろ、ラングストン、S&Sに代表される第1世代の段ボール生産技術を、新発明によってことごとく革新した人であり、それらの発明の経緯だけをうかがっても、大変なボリュームである。

本紙が意図するように、過去10数年来、われわれが目のあたりにしてきた段ボール技術革新の一大ページェントを、大もとの発明者自身の口からうかがい、活字の記録に残す作業となると、あるときは「私の履歴書」風に、あるときは「技術解説書」風に、また、あるときは「雑談」風とか色々あるだろうし、ということで、そのむねを得能さんにお願いして、今回のインタビュー分の掲載を終り次第、更に次回のインタビューをというように重ねて、当分、長期連載の形でこのインタビュー記事を掲載しつづけることに、得能さんのご了承をいただいた。

段ボール機械の第3世代、第4世代

私はね、昔から外国での発表が多かったですよ、国内では怒られるから(笑)。会社の連中には、要するに、「得能をマスコミに会わせるな」という指示が出ているわけです、私には言わないんですが。だから、みんな遠ざけるわけ。止めないと困るんです。それは理解できたですよ。私はもう、ざっくばらんに全部喋っちゃうから(笑)。だけど、海外では誰も制限しなかったから、みんなが発表してくれというから、何でも話しましたがね。

それで、いま私が認識しているのは、段ボール機械の第1世代は、私がレンゴーに入って開発をやり始める前のコルゲータなり、段ボール機械ですね。それが第1世代だと認識しています。

第2世代というのは、これも私の認識では、レンゴーを押し上げるために、レンゴー独自の開発に持っていこうということで、スプライサー、スリッタースコアラの自動化、それからスタッカーはまだやっていませんが、DDS-Rカットオフ、更にフィンガレスのシングルフェーサ、それからブリッジのテンションコントロールとか、なんだかんだ、諸々のやつを開発したのが第2世代ですね。

生産性を上げるための開発でした。レンゴーは、ヨソよりも給料は高いし、中小のところと比べてね。ですから生産性を上げて、1人あたりの生産でぐんと差をつけないと、レンゴーは生きてゆけない、大きな本社機構も抱えているしということで、遮二無二やったのが第2世代です。

その第2世代が、現実に、いまでも続いているわけです。DDS-Rも、直流モーターだったものが、ACサーボに変わり、コントロール装置がつき、コンピュータが発達してコンピュータ化され、人がマニュアルで調整していたものを、NCでコンピュータコントロールし、というように進んできましたが、その、いまのやり方が第2世代ですね。

第3世代というのは、また別だと私は思うんです。いまは、第3世代に移りつつあるところだろうと思います。

それでは、第4世代というのは何だろうかといいますと、私は、昔に戻ることになると思います。これは、私はいつも思うのですが、飛行機と一緒です。海外でよくスピーチをするときに、私は飛行機にたとえるんですが、飛行機では第1世代はプロペラ機だ。第2世代はジェット機の時代、そしてジェット機から進化してコンコルドになった。

しかし、あまりスピードが速くて、飛行時間は短くてすむかも知れないが、生産性は悪い、飛行機の金額がべらぼうに高過ぎるということが反省されて、第3世代はというと、「コミューター」ですよね。それじゃ、第4世代になったら、何になるんだろうかということを、いまでも私は考えているんです。元に戻るんじゃないか、プロペラ機に、ということです。

しかも、プロペラの恰好をこんな風にひねくって、扇風機のようなプロペラで非常に効率がいい、まあ元のプロペラとは違うけれども、本質的には同じ形態に戻るんじゃないか、といったことを考えています。

だから、三菱にも今でも言い続けているのは、もう一回もとに戻って、第1世代に戻って、考え方を考え直そうじゃないかということです。三菱重工も、全く賛成だと言うんです。シングルフェーサについてもそうです。

あの当時、シングルフェーサは強度がどう、段を潰さないから耐圧強度が一割上がりますとかなんとか言ってましたが、いまはそんなことないんです。フィンガーでいいんですよ。それで、そういうことを考えた人すら、いないじゃないかと言っているんです。フィンガー式の方がよっぽど簡単なんです、安いし。ただ、昔のフィンガーじゃないですよ。紙の厚みによって、自由にこう押し付ける隙間を調整できるようなフィンガーならいいわけで、当時はまだセラミックも無かったんです。

セラミックのプレートでやれば、フィンガーの寿命も物凄く長いわけだし、そういう材料革命があるし、色んな問題があるんで、それを含めて、第1世代の機械にもう一度戻って考え直した方がいいということを言っているわけです。