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得能正照自叙伝「発明街道」

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1992-09-30 【連載第4回】(平成4年)

第26回目の渡航日誌 実は、これは私の第26回目の渡航日誌なんです。いま現在は、160何回目かになっていますが、全部これと同じ三井物産の手帳で揃えて、記録をつけているんです、第1回目から。

これは1975年ですが、つまり昭和50年10月2日ですね。朝何時に起きて、晴れのち曇り、雨のち曇りだとか、パリは晴れだったとか、何時にどうやって寝て、その間に、こういうように、色んな段ボール工場や、製紙会社に行って、そのときにフィンガレスを考えていたんですね。それで、こういうメモが残っているわけです。

この手帳の一番最後は1975年12月、そのあと76年1月〜2月ぐらいまでついていますね。ここのところに、自分でこう考えて、スケッチして、残っていたわけです。あなたのインタビュー記事を読んでいるうちに、この手帳のことを思い出して、探しておいたのです。

加藤さんに言われて始めたフィンガレス・シングルフェーサの一番最初の発想というのは、いつだったかなあと思ってね(笑)。あれは確かアメリカだったなと、海外出張中のものを見たんです。

そうすると、いまのフィンガレスの原形は、50年10月2日には、バキューム孔はフィンガー溝にあける、そして剥がし易いように、このドクターを入れる。それから、もう一つのやり方としては、そういうことをやらないで、ちょうどイソワさんのパテントそのまんまですね、ここでこうドクターを2つ入れて、こういう風にチャンバーで囲ってバキュームするという、この2通りのものを考えていたんです。(写真参照)

それから、この図はウチダさんなんかがやっている、フィンガーにサクションの孔を開けてバキュームする方法ですね。そういうような、いろんなタイプをこの時点で考えていたわけです。それで結局は、こっちのタイプのフィンガレスに進んだわけですが、パテントを出しておけば、みんな誰もできなかったわけで(笑)、まあ、そんなことはどうでもいいんですが、これがその証拠物件ということです(笑)。

−−これは旅先で書かれたのですか。

そう、旅先です。このときは、1カ月ぐらい旅行していたんですね。11月2日にはニューヨークからヒューストンに飛んでいるんです。ちょうど、息子が留学していましたから、息子に会っているんです。ですから、ヒューストンのホテルで書いたんだと思いますね。

旅行のこと、全部書いてあるんです。コンチネンタルキャンとか、ウェイコ(ウェアハウザー社)の問題とか、糊機構の問題とか、主目的は英国のスマーフィットの技術指導に行って、帰りにアメリカに行ったんです。最初にロンドンへ飛んで、ロンドン、マンチェスターからリバプールに行って、サイモンに寄って、ウィンナーヴェルパッペン、スンズ社ですね。ああそうか、このときはダイレクト・ドライブ・カッターを輸出していましたから、スウェーデンの得意先にも、どうですかと聞きながら、ずーっと回ったと思うんです。

−−そうすると、DDS-Rの新聞発表が51年2月でしたから、その前年の10月ということですね。

カッターの発表が51年ですか。すると、この旅行はダレクト・ドライブのあれじゃないですね。やはり、スマーフィットの技術指導です。診断に行ったんです。それで、スマーフィットがお礼だといって、自家用機でパリまで遊びに連れてってくれて、ロシヤ料理を食べて、グラスゴーにまた戻って、グラスゴーの有名なホワイト・ホース(ウィスキー)の段ボールを作っている工場に行って、それからホワイト・ホースにも行ってますね。

−−こんなことを、何でも記録してあるんですか(笑)。

そう、バキュームの構想を10月2日にこう書いてあったでしょう。それで10月9日には、既にウェイコの連中にバキュームによるシングルフェーサの説明をしているんです。

−−そうすると、具体化する以前に、かなり前から着想を持っておられたのですね。

10月9日のウェイコとの会合で、ミスター・ポールソンにシングルフェーサのバキュームのことを言っています。シングルフェーサの音の問題、振動の問題、熱の問題、糊機構の問題などです。それから、中芯スプライサーのこういう貼り方とかね。まあ、面白いのが出て来たので、あなたに見せてあげようと思って(笑)、もう時効ですよ。

−−こういうように何でもきちんと記録することが、新しいものを発明する上で基本的な資質ですね。これから発明を心掛ける人に、ぜひお知らせしなければいかんですね(笑)。

いや、いろいろ言ってますけど(笑)、こんなもの、毎日毎日続けられるものではないし、やはりリラックスして遊ぶときもないと集中できないんですよ。人間というものはそうです。集中できるのはほんのいっときで、リラックスすることがないと、仕事から解放されることがないと、ダメです。だから、会社で日常決まった仕事をどんどん、どんどんこなして行くということは、どうしてもストレスもたまるだろうし、やはり、ある程度それを解放する時間がないとできないと思うんです。

だから、外国の連中がやっているように、長い夏休みをとるとか、ああいうことは、長い人生においては非常に大切だと思うし、いま漸く日本でもいわれている時短とか完全週休二日制とかも、非常に大事なことです。現実には、若い人たちが有給休暇を仲々とれないという問題がありますがね。

レンゴーに移った最初のころ、製紙部門の再建

利根川工場の視察に訪れた井上貞治郎社長と

−−得能さんは、前回のインタビューで、大昭和からレンゴーに移られた最初の頃の話として、確か、製紙部門の「再建」を頼まれて、一年ほど利根川工場にと言われたように記憶するのですが、今日は、そういう製紙部門の関連の話題から、ウルトラフォーマーの開発につながるお話をしていただきたいのですが。

そう、最初の一年ほどは利根川工場でした。あれはね、利根川製紙工場ができた最初に、小林製作所の丸網式抄紙機を入れたんです。これは、3400?幅で、日産120tの抄紙機と称されていたんです。詳しくは忘れましたが、実際の生産量は100トンか80トンか、要は100トン前後ですよ。一方、私の方は当時、大昭和の吉永工場の工場長をやっていたんです。ですから、その頃、レンゴーが利根川工場に機械を据えることも知らなかったんです。まあ、得意先ですから、ある程度は聞いていましたけど。そこで建設が終ってライナー工場が稼働したんですけど、モノにならんのですよ。まるで損紙の製造機(笑)みたいで、損紙ばっかりで、紙がつながらないらしいんです(笑)。

その頃、いまの長谷川社長が常務かなんかで、利根川工場の担当になって、向こうに行って寝泊まりしていたんです。行ったけれど、彼は技術屋ではないから、わからんですわ。叱咤激励しても、分からんものは分からんわけです(笑)。それで私の家に来たり、電話がかかって来たりで、3回か4回ぐらいでしょうか、大阪から利根川への行き帰りの時に、彼が吉永に寄り道して行ったんです。

「おい、こんなになっているんだけど、どこが悪いんだろう」とか、色々聞くんで、「なんでや」と言うと、「オレが担当や」ちゅうわけ。それで「一回見に来てくれないか」というので、「そりゃあ、行ってもいいけど、一応コンペチターだから、了英さんに聞かないとオレは行けないから」と、それで了英さんに、当時は社長ですが、知一郎さんはもう亡くなっていましたから、「友だちが製紙の担当になって利根川にいるけど、モノにならないから来てくれと言うんで、行ってみます」と、その状況を話したんです。

「行ってもいいけど、ホントのことは教えるなよ」(笑)という返事でした。それで、許可を貰ったから、行って見たんですが、ビックリしました。まさに損紙製造機ですよ。二階式マシンだけど、二階から下の倉庫の方まで損紙のヤマで、階段を伝わらないでも、歩いて降りられるんです(笑)。それぐらい損紙が、グワーッと山積みになっていて、片づけようがない有様でした。もう、ビックリしました(笑)。

あのまま行ったら、つぶれるな、と思いました。それで吉永に帰ってきたら、了英さんがどうだったというから、これこれこうと報告したわけ。すると、「そのうち手をあげるからな、そしたら買おうや」「いやあ、それはグッドアイデアですな」なんて言っていたわけ(笑)。

それでも、まあ、わたしは海軍兵学校以来の友だちだから、彼のために行ってサポートしないと悪いから、そういうことで、大昭和にいる時に2回行きました。だけど、所詮は外部から言うサジェスチョンですから、その通りにはやりませんよね。わたしは本当のことを言っているんだけれど、向うはその通りには受け入れないでしょう。というのも、同じ組織の人間ではないから、命令も何もできないわけで、ただサジェッションするだけです。

現場の、利根川工場の人たちに言わせれば、自分らが苦労してここまでやって来たんだからと頑張るわけで、いくらサジェッションしても、ポイントが間違っているから、やっても、やっても、うまく行きません。そんな状況でした。

その後、わたしは了英さんと大喧嘩して、辞めさせて下さいと、辞めたわけです。辞めたとき、7社ばかりから声がかかりました。伊藤忠からは大王製紙、三興製紙の話、本州の石原常務がウチに来ないかという話、それから、十条の金子さんからも話がありました。トッパンから電話がかかって来て、トッパンに来ないかという話、それとレンゴーからも来ないかという話がありました。

しばらくは、じっくり考えていたわけです。もう製紙はイヤだし、あまり面白い商売でもない。親父が内職か何かで、浅草で印刷工場をやっていたから、東京へ出て行って、自分で印刷でもやろうかなあ、こんな静岡にいたってしょうがないからと思っていたら、まあ、長谷川さんがしょっちゅう来るし、「お前に井上貞治郎さんがぜひ会いたいと言っている」と言って、それで何回か会って、「どうしてもウチに来ないか」というわけ。

自分としては、その頃、井出製紙の面倒もみていましたけれど、親戚の会社に入るのはもうこりごりだったし、段ボール会社に入るのが一番いいだろう、しかも段ボール会社の製紙部門というのは、見た通り、相当レベルが低い(笑)。だから、あそこに行けば、オレだってちっとは光るだろうと思ってね。それが本州だとか、十条に行ったって、光りはしないわけです。なんだ、大昭和なんかから来たぐらいで、というようなものでしょう。だけど、レンゴーに行けば、レンゴーの製紙部門に行けばピカ一ですよ。見たらわかるんだ(笑)、ああ、あんな程度か、ちゅうようなもんでした。そう言っては悪いけど、ホントの話です(笑)。それで、意を決して、レンゴーに行きましょうとなって、レンゴーに入れてもらったんです。

手のひらを返すように、一ぺんに良くなった

レンゴーに入ったとき、みんな、世間一般ではね、まあ得能は三年ぐらいしか持たないだろう、あんな保守的な会社に入って(笑)、と言われていたんです。まあ、せいぜい二、三年やなあ、と。やっぱりしっかりした、歴史のある会社で、保守的ですよね。本州にしても、十条にしても、そうだと思います。大昭和みたいな、「東海の暴れん坊」と違いますから。

まあまあ私は段ボールを覚えたいとは思っていなかったんですけれど、レンゴーの方では、そういうあれはあったと思うんです。だけど1年ばかりは製紙部門の立て直しということで、またその1年で完全にひっくり返して、黒字になって、それで日産120トンが出るようになり、ほとんど紙も切れなくなるように、全部直したわけです。

−−レンゴーに行かれた当時は、利根川工場が出来たばかりの頃だったわけですね。

半年か、1年経ったばかりでした。独身寮に泊まり込みでしたね。レンゴーに入ったのが昭和38年でした。暮れから39年にかけてですね。はじめは、だから1年ばかり、製紙工場の立て直しをやらなきやならんわけです。それで私は、改造しなきゃならんでしょう、しかも早くやらなければね。だから、あっちこっち直すのにカネがかかるわけですよ。小林製作所に行って、オレの言う通りに直してくれというわけ。それで、みんなにも言って、工場長にも言って、ここを直すよと全部直したわけ。そしたら、一部の技術屋さんは、あんな直し方をして、紙が出たら、銀座の街を逆立ちして歩いてやるわい、いうようなことを言っているのが、耳に聞こえてくるわけです(笑)、全然やり方が違うんだから(笑)。

まあ、私は新入社員みたいなものですから、古手の技術屋からみれば、そうだと思うんですよ。それで、小林でみんな直して、小林もカネが掛かりますよね、それで請求書が私のところに来たんですが、原価でやってくれたというような安い請求書です。ところが、経理へ出したら、ダメだと言うんです。稟議書も何もないのに、そんなもの、払えんというわけです。大昭和流にはいかんのです。

私はアタマに来て(笑)、担当常務の江崎さんと直談判で、「大いそぎで手を打って、早く良くしなければならないので、みんなに説明してこうやったのを、稟議書がないからカネを払えんとは何事か。オレだって面子がある。だから江崎さん、悪いですけど井上貞治郎さんに私が話して、やってよろしいという許しを得てやったので、井上貞治郎さんのところに一緒に行って話して下さい」と言ったんです。そうしたら、「もう結構です、すぐ払います」(笑)というようなことで、一件落着でした。 それでもう、利根川工場は、まるで手の平を返したように、一ぺんに良くなりました。

−−一ぺんに良くなるというのは、抄紙機なんかは、特にそうなのでしょうね。

すぐ100トン近く出来るようになりました。それでも、まだやり残しが随分ありますから、原質の方とか何とか、それで1年ばかりいましたけれどね。そうしたら、ある時、うまくいったということで、技術屋の連中、現場の連中が集まって一ぱい飲んだときに、「さあ、これから、みんな銀座に行って、逆立ちして歩いてもらおうか」(笑)と言って、敵討ちしました。みんな黙って、下の方を向いていました(笑)。