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得能正照自叙伝「発明街道」

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1992-10-15 【連載第5回】(平成4年)

ウルトラフォーマー開発、オントップワイヤーも出願したが

−−ところで、どのあたりから、ウルトラフォーマーにつながっていくんでしょうか。

それをやりながら、それをやる直前だと思うんですね。大昭和を辞める以前から毎日、板紙のことを考えていたわけですから。井出製紙の問題も考えていましたしね。

板紙は、あの丸網シリンダーというのは所詮ダメだということで、ちょうど東京オリンピックがあったでしょう、昭和39年ですね。あの前年、38年ごろに考えたんです。レンゴーに入った直後ぐらいでしょうかね。そのころ、一生懸命考えていましてね、大阪のマンションにいたとき、毎晩飲んだくれていましたが(笑)、ある晩、ポコッと夢を見たんです。丸網が上にあって、毛布が下にあるような、上下ひっくり返したような機械のユメを見たんです。「こいつだ」と思って、すぐその夜中に起き上がって、絵を画いたわけ。どういう風にやるのが一番良いかということで。

「ようし、これならいける」と思って、次の休みの日に靜岡に行って、そのころ、私は土曜、日曜は静岡で井出製紙を見ていましたから、静岡に帰っていました。それで、金曜日に静岡に帰って、土曜、日曜日と井出製紙で仕事をして、月曜日に大阪ヘ出社しました。365日、全く休みなしなんですよ(笑)。それで土曜、日曜は井出製紙の技術屋だ、なんだを、みんな会社に出さして、井出の兄貴なんかと話して、仕事をしていました。それはレンゴーに入社するときの条件でしたからね。

−−要するに、こういうようにさせてもらいます、ということですね。

そう、私は井出製紙を見ているんで、それを見ちゃいけないということであれば、レンゴーには入れませんと、はっきり断ったんです。ですから、井出製紙に関しては、結構ですと了解を得ていましたから、井出の板紙抄紙機のことを考えていたんです。

それで、そのウルトラフォーマーをやる前に、こんな新しい抄紙機も考えていました。これはパテントも出したんです。長網をこう上に付けるやつで、オン・トップ・ワイヤーというんです。これが「オン・トップ・ワイヤー」のパテントです。昭和35年10月6日、発明者得能正照、出願者は小林となっているでしょう。発明者は私ですが、出願者・実施権者は小林製作所ということで、小林製作所にぜんぶ任せたんです。というのも、私が発明して、何もかも私の名前にすると、大昭和に対してもレンゴーに対しても、何か問題が起きたときに困るからというようなことも考えていたんです。

それで、オン・トップ・ワイヤーは既に昭和35年に日本国内で出願しているんですが、そのあとで、ヨーロッパの抄紙機メーカーのフォイト社とかバルメット社なんかがオン・トップ・ワイヤー式の製品を出したんです。ですから、日本でこのパテントを出した時点で海外特許を出しておれば、彼らは全然、このスタイルは出来なかったわけです。

−−国内だけでやっておられたんですね。

そう、それで、これは実際には機械が製作されなかったんです。いや、製作が昭和41年5月に許可になっていて、製作しかけたんです、テストマシンを作りかけたんです。しかし、これよりも、まだこっちの方がもっと面白いというので、ウルトラ・フォーマーをすぐ出したんです。これがそう。同じように発明者が得能、出願・実施権者が小林忠さんでね、この図がウルトラ・フォーマーの原形です。こんな風に、紙の色がすっかり変色しちゃって(笑)、こんな仕様も無いものも全部持っているんです(笑)。ほら、このウルトラ・フォーマーのパテントは昭和39年でしょう。このときは、私は既にレンゴーに入っていました。

東京オリンピック、チャスラフスカからネーミンング

そのネーミングはね、東京オリンピックのチャスラフスカ選手の体操なんかで一ぺんに有名になった「ウルトラC」というのがあったでしょう(笑)。それを私がいただいて、「ウルトラ・フォーマー」という名前をつけたんです。

−−そうですか、モトはあのチャスラフスカですか(笑)

そう、それで先ほどのオン・トップ・ワイヤーから、テストマシンを急拠、ウルトラフォーマーに切り替えて、小林で作ってみて、もう物凄く良くいくわけでしょう。「これは絶対いいぜ」ということで、最初の機械をどうしようかというときに、レンゴー淀川工場の改造が始まるわけです。それから、井出製紙のマシンの増設もあって、それをウルトラフォーマー方式で2台同時にドーンと行ったわけです。

淀川工場は白板マシンのウェットエンド改造、そして井出製紙は5号機の増設と、井出製紙はもう最初からウルトラフォーマーで、まあ手直しもありましたけどね、そういうようにやり始めたわけです。

−−ある人が言うんですが、こと抄紙機に関しては、技術は海外から来たものばっかりだけど、ただ一つ、ウルトラフォーマーだけは海外に日本から売れる純国産の特許を持った抄紙機だと、そう言うんですが、正にその通りですね。

そうです。フォイトやバルメットなんかがやっているオン・トップ・ワイヤーも、先ほどお話したように、昭和35年に、国内では私がもうパテントを出していたんです。ちょっと早すぎたんですよ(笑)。まあ、そういうことで、ウルトラフォーマーも、私が発明しましたけれど、そのあとを小林さんにちゃんとやってもらったということは、私にとって、正解だったと思うし、小林さんも良くやってくれたと、そう思うし、それによって、小林さんが潤って大きくなるなら、それは何よりのことだと思いますね。

これはもう、発明する人間というのは、みんなそうだと思うんですよ、最初の苦労はありますけれど、苦労はあったって、結局は鉛筆と紙だけですからね、それとアタマと。

−−そうなんでしょうね、ご自分で旋盤、フライス盤なんかまで動かして作っちゃうというわけではないし(笑)。

だから、小林さんの努力というのも、それは大変なものだったと思いますね。同じように、三菱さん自体についても、これは、やはりあれだけの会社ですから、フィンガレスの問題だとか、ダイレクトドライブの問題だとか、色んな問題をこうワアワアやっていますけど、やはり三菱さんの段ボール機械に対する技術といいますか、製作する、デザインする、精度といい、あらゆる面から言って、私は、やはり三菱さんは世界最高だと思いますよ。

だから、私はつき合っているんです(笑)、それに私も可愛がってもらえるし(笑)。そりゃあ、三菱はもう最高だと思いますね。それで、板紙抄紙機については、やはり小林さんが最高だと思います。だからつき合っているんですから(笑)。

−−もうずいぶん輸出の実績もおありですね。

もう百何十台でしょう。

−−凄いものですね。

私は、そういう意味で、ものを考えて、色んな新しいやり方なり、色んなことを考えて、夜も寝ずに考えて、そういうことが現実にユーザーさんに喜ばれる機械になって、世の中に出て行くということは、やはり私だけじゃなくて、三菱さん、小林さん、その技術レベルなり、物の考えなりがあってのことで、私は本当に非常に良かった思うし、恵まれたと思うんです。そういうメーカーとつき合えたということを、私は、最高にハッピーだったと思います。

発明者はタネを蒔く人

−−発明者というのは、結局、「種を蒔く人」なんですね。あと、水をやったり、肥料をやったりもありますが(笑)。

そうです、いくら良いタネをまいても、枯れる土壌だなんだじゃあ、どう仕様もないわけです。そういう意味においては、段ボール機械なり何なり、機械に対する物の考え方は、そりゃあ三菱はもう最高なんです。ただね、同じ三菱の中でも、製紙と段ボールと、二つありますよね。印刷機は別として、私はよく知りませんから。それで、三菱重工の段ボール部門と製紙部門を見た場合、私は別に製紙部門をダメと言っているわけではないんですよ、やっぱり素晴らしいとは思うんですが、片方は装置産業、片方は加工機ですね。まあ、比べて見た場合、三菱さんの段ボール機械は、ラングストンと手を切ったということが非常に大きなプラス、飛躍台になったんだと思うんです。そういう見方をする人が多いんじゃないでしょうか。

その一方、製紙部門の方は、ベロイトとつき合ってるから、ベロイトの亜流から抜け出せないわけです。モノをこうクリエイティブして、考えて、新しいものを世の中に創り出して行くという考え方というのが、長い間かかって、無くなっちゃうんですよ。いくらそういう頭があっても、そういう方法でいっちゃうわけですから。

つまり、ベロイトの機械をそのままの図面で作っていれば、悪ければベロイトが悪いんであって、自分らが悪いわけじゃないんで、一つには責任逃れにもいいし、ハッピーなんです。そういうハッピーな状況でずっと育つと、やっぱり頭がそういう方向に馴染んじゃうんです。

ところが、段ボール機械の人たちは、ラングストンと離れたら、自分らで世の中で最高のものを作って行かざるを得ない環境にあるわけです。従って、段ボール部門の人たちっていうのは、物凄い開発力というのか、頭というのか、製紙部門と違ったものの考え方をする人が多いんです。だから、三菱の機械というのが、アメリカに行っても、どこに行っても、評価されるわけです。私はそう思っているんです。製紙機械の方は、ベロイトの機械と同じですから、アメリカであろうが、どこであろうが、ベロイト、ベロイトで、三菱が出て来ない。それよりもバルメットだとか、あんな一匹狼みたいなところにしてやられるというか、その危険性があるわけでしょう。段ボール機械の方は、その点、すごいと思います。

−−製紙と段ボールを並べると、どうしても段ボールの方を贔屓しちゃう(笑)。

私がですか(笑)、いや、そうでもないです。製紙の人たちとも随分親しくしています。ただね、私は同じ三菱の中の製紙部門の人と段ボール部門の人と、話をしてみると、随分違う感じがするんです。それと、小林製作所の人たちと話すと、会社も違うし、またこっちは板紙抄紙機という違いもあるわけですが、考え方が全く違いますね。片っ方は板紙で、一匹狼で、ウルトラフォーマーをひっ下げて世界市場を制覇したわけですよね。それと、ベロイトのインチをミリに直すだけの機械との差というのは、これはあると思います。

ただ幸い、三菱重工は板紙はやっていないですからね。三菱さんが板紙抄紙機もやっていたら、私はどうにも手が出ないですけれど、まあ、そういう点でも板ばさみにならず、ラッキーです。三菱にも、小林さんの板紙関係はやりますよと言って、了解を得ていますから。

−−ところで、段ボール原紙抄紙機では、一時、オン・トップ・ワイヤー式抄紙機、いわゆるインバーフォーマー抄紙機が盛んに採用された時期がありましたが、オイルショックで石油価格が急騰したら、インバーフォーマーはエネルギーコストが非常にかかるタイプなので、以後はすっかり廃れてしまったという話を聞くのですが、それについてはいかがですか。

結局、ウルトラフォーマーを発明して、ウルトラフォーマーで生産をやり出したわけですよね。ところが、ウルトラフォーマーにも限界があったんです。コンベンショナルなウルトラフォーマーというのは、せいぜい150mぐらいが限界だったんです。ハイスピードのウルトラフォーマーというのは、200mとか何とか言われてましたけれど、それでもせいぜい150か、そんな程度だったんです。従って、私は今後、ライナーは、段ボール原紙というのは薄物化して行くだろうと踏んでいたわけです。アメリカやヨーロッパに行ってみても、段ボールの平均重量は日本のような厚い700グラムだ、800グラムだではなくて、彼らは平方m当りで400グラムとか、半分ぐらいの重さでしょう。

だから、日本でも当然薄物化してくるだろうと見ていたものですから、利根川2号機をやるとき、薄物をやろうと考えたのです。

薄物を抄くには、マシンのスピードが出なければ、生産が上がらないんです。薄物をやるためには仕様が無い、インバーフォーマーでやろうと、インバーフォーマーを見て来て、それで大王製紙が日本で最初に入れたんですが、それに続いて、わたしが昭和40年に利根川2号機に入れたわけです。インバーフォーマーを入れようと言ったら、みんな猛反対したんです。長網なんて誰もやったことがないんですから、とても長網なんか出来んということでした。

そんな具合で、私ひとりがインバーフォーマーを進めたんです。私は、もともと長網の出なんで、長網をよく知っていますから、それで、強引に山野社長以下を説き伏せて、インバーフォーマーを入れて、みんに長網を教えたんです。

それから、3号機のあとの4号機もインバーフォーマーを入れたんです。あのころ、ベルモンドを入れればよかったんだけれど、まだベルモンドは無かったんです。3号機は白板をやり出したので、これはウルトラフォーマーです。そういう段階を踏んだんです。

ところが、いま言われたように、オイルショックで石油価格が暴騰して、原単位を比べてみると、とてつもなくエネルギーコストが高くついて、全然違うわけですよ。バキューム径が大き過ぎるし、これはとても仕様が無いぜという状況でした。バキューム径が大き過ぎるのですよ、ただそれだけです、原理的には。

そこで私は、4号機のコストが高すぎて仕方がないから、ウルトラフォーマーのハイスピードのやつを入たんです。ハイスピードとは言っても、先ほどの話のように、200mはなかなか出ないといわれていたやつです。「ようし、これで600mいこうや」と言ったら、みんな「そんな、出るわけない」というわけ。「出るわけがない」と言われる中で、小林製作所でも分らんわけです。そこで、ウルトラフォーマーの4号機を、ハイスピードの600出るマシンにするため、全知全能を傾けて改良したんです。

そして、入れて、本当に500ぐらいまでスピード出したんです。エネルギーコストも、どーんと下がったし、それはもう、だれも信じなかったことでした。

誰も信じないんです(笑)、私一人が出ると言って、「出ない方がおかしい」ぐらいの勢いで、デザインして、ワイヤーの長さはこれぐらい、ここでこれぐらいの遠心力が働いて、これをどういう風にやる、ここはこう、そこはこう、あれはこうと考えて、必ず出ると言ったんです。そして、バッチリ出ました。

−−それは、何が秘密なんですか。

いや、私は紙から生まれた人間ですからね。何回もお話したように、もう48台か50台ぐらいもマシンを自分でデザインして、運転しているんです。抄紙機にユビも取られたし(注・右手人差指を切断)、もう私は紙から生まれたような人間や、繊維の中に入った人間やということで、挙動は全部わかる、だから、こうしなければならんということでやったわけです。

それは、一番最初に考えたこれが基本になっているんです。(設計図を示しながら)このワイヤーから水が吹き出るわけですからね、こういう感じではダメなんですよ、バキューム径が大きすぎて。それで、この次にすぐ考えたこれね、こいつを基本にしたわけです。利根川のハイスピードのマシンというのは、全くこれとよう似ているんです。ここでバッと出た水を吸い取ってね、サクション・ピックアップにして、これと同じなんです。これをちょっとワイヤーを長くしただけなんです。

−−遠心力で振り落として、ですね。

遠心力でバーッと出た水を、ここでこういうようにね、これが基本になっているんです。それで、ヘッドボックスをこっちに持って来たんです。そして、ワイヤーの上に移動しました。

これで、600mぐらいまではいける、というのは、用具の市川毛織なんかとも色々話し合ったんですがね。そうすると、これが速く回れば回るほど、遠心力がかかるわけです。だから毛布がバーッと膨らんじゃうんです。毛布でタイトに押え込んでいるものが、毛布自体が外側にふくらんで、ガチャガチャになってしまうんです。その遠心力に耐えるように、毛布にテンションを与えなければならないでしょう。すると、こんどは毛布が持たないんです。

ところが、それを相談したら、「いや、そのテンションに耐える毛布は、今は出来ないけれども、もう少ししたら、こういう構造で、こういう風になります」というんです。毛布屋と打ち合わせて、テンションの強さを聞いて、それならいけると思いました。

結局、用具の助けがあったから出来たわけです。プラスチックのワイヤーが開発され、それから毛布もポリエステルの毛布が開発されて、それで出来たんです。 これをご覧なさい。ですから、丸網の遠心力というのを、どのぐらいの遠心力が働くかということを、ずいぶん計算したんです。丸網シリンダーのところはこうで、それが遠心力の倍数が何倍になってくるとか、なんとかというもの、これが当時のわたしのメモですよ。それをみんな計算してあるわけです。

ウルトラフォーマーを世界中に売り歩く

これは、いまでも通用するんです。こういうヘッドボックスのスピードがどうだとか、これは全部昔の資料です。2号機のときはどうだとか、これはみんなウルトラフォーマーの英文データ、輸出用の資料です。小林にやれと言っても、説明できないん、仕方がないから、わたしが全部こういう資料を作って、小林の技術屋さんを連れて、アメリカ中を説明に歩くわけです。それで注文を取って来なければいかんのですよ(笑)。

そりゃあ、ひどい苦労もしたけど、面白かったです(笑)。レンゴーの社員でしょう、それで小林の仕事をして歩いているわけ。わたしも面白いから、「いけっ」といった調子で、アメリカには戦争で負けたけど、ようし、オレが上陸してやるといって、そういう契約を結んだわけです。レンゴーと小林製作所の間で、レンゴーがロイヤリティを取るようにしたんです。

−−「乙が甲の技術者の該地域への派遣を要請した場合、甲は特別な支障がない限り応ずるものとする」と書いてありますね。レンゴーが甲で、乙が小林、技術者が得能さんなんですね(笑)。

そう。それで、これだけのロイヤリティと、技術者を派遣した場合の滞在費用などを乙が負担する契約を結んだんです。結ばれなければ、わたしは動けませんからね(笑)。

−−昭和42年11月15日ですか。

これを結んでもらったんですよ、それで、あとは私は…。

−−天下晴れて(笑)ですね。

そう、大手を振って世界中、売り歩いたんです。売ればレンゴーにカネが入るんですから、ロイヤリティーが。くまなく歩きました、こういう資料を持ってね。これが、その当時の説明して歩く資料です。理論的によく説明しなければならんのですから。そして、マシンが先方の工場に納まりましたら、こういう説明資料をスライドで映して説明するんです。白水の処理はこうやるんですよ、毛布はこうですよ、ウルトラフォーマーのローディングはこうですよ、ああですと。昭和43年ごろの大昔のやつです。

それで、マシンを買ってくれたら、ウルトラフォーマーの運転要領ね、どういう風な運転の仕方をするかというのを英文で書いて、このパンフレットを片手に、私は一週間ぐらい、オペレーターを集めて教育するわけです。ほかの連中は全然やらないんでね(笑)、できないんで仕方がないけど、そばに付けておいて、教えるわけです。オレの言っているのを聞いて、よく勉強せいよ、と言ってね。これが、そのときのパンフレットです。

−−その当時、何カ所ぐらい行かれましたか。

さあ、どれぐらいありましたか、わからんですね、あっちもこっちもですから。それで試運転をやるでしょう、メキシコだ、あっちの試運転、こっちの試運転だと行くと、もう徹夜ですものね、日本の国内の試運転と同じで。それで、試運転が終ると、みんな記念品をくれたり、額をくれたり、そりゃあ、私も40才ぐらいでオモシロ盛りでしたから(笑)、これはカネじゃないですよ。まあ、カネは会社に入れておけばいいんです。こうやって契約しているんですが、もうあんなに楽しい仕事というのは、ほかに無かったですね。独壇場ですもの、世界中に、一ぺんで有名になりましたし(笑)。

ウルトラフォーマーの歴史もそうで、私は、まあ何回も言うようですが、三菱や小林製作所と、いいメーカー、ピカ一のメーカーに恵まれて、本当に幸せだと思うんですよ。蒔いた種を育て、みごとな花を咲かせてくれたと思いますね。

アメリカで製紙を勉強、帰って直ぐ大昭和に

−−得能さんのインタビュー記事を読んだ読者からも、色んな話題が寄せられているのですが、中には昭和30年代の初めごろの話もありました。例えば、大昭和製紙吉永工場のマニラボールでないと、キャラメル箱の印刷がきれいに出ないので、リュックに現金を詰めて吉永まで買いに行った話だとか、また、近藤充寛さんが、まだ東洋製罐におられて、「コンドー・テンノー」と呼ばれていた頃に、輸出缶詰で起きたデント缶(凹み)や缶サビの問題だとか、それに関連して、吉永の缶詰用ライナーの話題などもありました。日本缶詰協会のその種の会議に、得能さんもよく出席されていたようですね。時代が少しさかのぼるんですが。

それはね、私が初めて吉永に転勤になった、その最初の頃ですよ。私は、大昭和の前に、最初、朝日製紙という叔父さんの会社にいて、セミケミカルパルプをやろうと思って、日立造船との共同作業で、お前やれといわれてやり始めて、しかし、うまくいかないもんですから、セミケミカルというのを実地に見て来なければダメだとなって、アメリカに飛んだんです。

やっと、一般外貨を貰ってね、それが昭和29年です。自分で外務省に行ったり、大蔵省に行ったり、通産省に行ったりして、中西という当時の通産省の課長をおがみ倒して、やっと一般外貨を500ドル貰って渡航したんです。手持ちは500ドルしかなかったんです。昭和29年3月でした。

それは、まだ大昭和に入る前ですよ。やっと外貨が下りて、社長に、それじゃ行ってきますと挨拶に行ったら、社長は最初はカネを出してやると言っていたのですが、セミケミカルパルプがうまくいかないものだから、会社の具合が悪くなってね、それで行っちゃダメだとなったんです。お前が行く費用なんか出せんと、こういうわけです。

「そんなことを言ったって、あれだけ苦労して、他人が行かないときに行くんだから、それじゃ私は自費で行く」と言ったんです。すると、行きたければ勝手に行けと言うんで、私は自分でカネを払って、まあ親父にカネを出して貰って、自費で行ったんです、第1回目の昭和29年は。その第1回の渡航手帳も持っていますけどね、面白いことが書いてありますよ。

−−あの三井物産の手帳の第1号ですね。

いや、最初は大きな普通のノートなんです。初めて行ったんです。ダグラスDC-6Bという、まだプロペラ機で、初めて一人で出掛けたんです。

そして、デンバーのデンバー・イクイップメントに寄って、というのもペーパー・トレードジャーナル誌にフローテーションの機械の記事が出ていたものですから、これは面白いということでした。それでデンバーというのは鉱山の町でしたが、デンバー・イクイップメントという会社へ行って、一人で一週間、研究所にいて教わったわけです。インキを泡で浮かして抜く方法、いわゆる脱墨パルプを作る古紙再生方法です。昭和29年にそこへ最初に行ったんです。

それで、「分かった」いうて、次にグリーンベイに行って、セミケミカルパルプの作り方をみたり色んな勉強をして、帰ってきたら、飛行場には家族が来ているだけで、ほかには誰も来ていないんです。行くときは歓呼の声(笑)に送られて行ったんですが、帰りは家内と子供らが迎えに出ているだけでした。

それで、私は家に帰ったんですが、家内は、「もうあんたは会社に行かない方がいい」というんです。「だけど、オレはみんなに教えなきゃなんないんだ、セミケミカルパルプの薬品はこれこれこうで、それを教えなきゃいけない。だから、オレは会社へ行く」と、家に帰った次の日、会社に行ったら、みんな、よそよそしいんですよ。それでよく聞いてみたら、「あんた、クビだ」というんです。もうクビになっていたんです(笑)。そんな風にして朝日製紙を辞めました。

朝日製紙を辞めて家にいたら、斉藤知一郎さんがパッと来て、「お前なあ、せっかくアメリカで勉強してきたんだから、大昭和でそれを生かせ」というんです。私を連れに来たんです。私はいやだと言ったんですが、「いまパルプの建設をやっているから、オレも大変なんだ。だから、お前手伝ってくれ」というわけ。

それで、一年ぐらい、パルプ工場の建設を斉藤知一郎さんのところで一緒にやって、そして、やがて試運転が終ったから、「やれやれ、これでオレは自分で勝手な仕事ができるわ、東京に出て、印刷屋でもやろうか」と思っていたわけです。

「お前にまかせるから段ボール原紙を抄け」と知一郎さん

そしたら、或る日、「お前は吉永工場に転勤だ」というんです。「そんなこと言ったって、オレは大昭和を辞めるつもりだ、もう紙はコリゴリだ」と言ったら、「そんなこと言わないで、一年でいいから行け」というんです。「行って何をするんですか」と訊いたら、「聯合紙器からな、段ボール原紙というのを抄いてくれと言われたんだが、お前、行って抄け」というわけ。これがまあ、知一郎さんは、私の弱いところをくすぐるんですよね、やりたそうなことを(笑)。「お前にまかせるから、段ボール原紙を抄け」といわれて、「ハイ、ハイ」(笑)いうて行ったわけです。それで、段ボール原紙を抄いたんです。

私はその頃のレンゴーなんて、見たこともないし、全然知らないんですが、第1回目に抄いて、川口工場に納めたら、「こんな段ボール原紙じゃダメだ」というんです。規格には合っているけど、こんな固い原紙ではダメというわけ。

そう言われても、私だって困るじゃないですか、規格通りに抄いているんだしと、それで、段ボール工場ではどんなことをしているのか、川口の東京工場に見に行ったんです。そしたら、ミルロールスタンドをまだこうやっているんです。シャフトがこうなって、古い機械で、段ボールなんてこんなに古いのか、と思ったですよ。そのとき、初めて見たんです、コルゲータというものを。

それでね、いやオレはどうやって板紙を抄くのか、よう分からんというわけ。私は、長網の出でしょう。吉永工場に行ってから、初めて板紙を見たんだから、すぐ頼んで、あんたのところ、淀川工場で板紙をやってるそうだけど、あそこ見せてくれるかと言ったんです。で、見せますと言うんで、紹介状を書いてもらって、それで折り返し淀川に行ったんです。

まだ、利根川工場ができる前です、昭和29年ですから。それで、彼らの紙を抄く淀川工場に見に行って、ポイントが分かったわけ。あっ分かった、と。だけど、淀川のは古くさい機械で、ほんとにすごい、なんか神功皇后の三韓征伐の頃の機械じゃないか(笑)と思いましたね。

一世を風靡した大昭和吉永の缶詰ライナー

びっくりしたけど、ポイントだけは分かったので、ああ、こうやればいいんだと、それで帰って来て、すぐ原料を変えて、紙の抄き方を変えて、缶詰用の段ボールに使うライナーを抄いたわけです。坪量は「九モンメ三プン三リン」ですよ。私は忘れもしません(笑)、九匁三分三厘でした。

−−いまのグラムで言ったら、どれぐらいですか。

ええとね、大体400グラム近いですね。(本紙注・平方尺当り3.75×9.33匁=34.9875グラム=平方m当り381グラム)

「九モンメ三プン三リン」、私は一生忘れませんね、私の手がけた最初の板紙ですから。

それでね、パッと抄いて納めたら、イッパツでした、全く問題ない。割れも何も全くない。ポイントを見る目が違いますからね、古い機械を見ても仕方ない。紙の抄き方だけを見たら、原料の流し方とですね。それで、どのシリンダーにKP(クラフトパルプ)をつけて、どうやるかというのも、パッと見て、パッと分かったわけです。一時間か、それぐらいしかおりませんでした。わかったから、もう帰ろうと言って帰って来ました。

それで、2回目を抄き直して納めて、バッチリ。それはもう、非常にうまく行ったですねえ、あれは。それで東洋製罐だ、なんだ、近藤さんとも親しくさせてもらって、近藤充寛さんはもう信頼してくれて、大昭和吉永の抄くやつは抜群や、あれでいいという評価を得たわけです。ところが、缶詰屋はみんなそうでしたね、吉永の缶詰用原紙でなければダメだということになって。そうしたら今度はトーモクが、売ってくれと、三菱商事を通じて言ってきたんです。

当時は、まだ名前が東洋木材企業ですが、北海製罐をやるんで、小樽の工場にコルゲータを入れるんです。それで、課長の海崎さんが来たんです、のちの社長です。で、私は工場長で、「工場長、頼むから九モンメ三プン三リンの段ボール原紙を売ってくれ」というわけ。「いやだ、オレはレンゴーにしか売らん、トーモクには一切売らない」と言っていたら、大昭和の営業担当の神尾常務やらなんやら、「そんな堅いことを言わないで、売ってやれよ」と言うんだけれど、私は頑として「ダメだ、ダメなものはだめだ」と、うんと言わないわけ。

それで、ああでもない、こうでもないと言っていたけど、あるとき、ヒョコッとね、「海崎さん、ところで東洋木材企業という会社は、どこにあるの」と訊いたら、「小樽だ」というんです。

「ええーっ、小樽?」というわけ。

小樽には、私は戦争中、ずっといたでしょう、北東方面艦隊で。駆逐艦のときは、小樽を母港にして、小樽に帰ってきたんです。一ぺんに意気投合して、「そうかあ、あんた小樽か、そうかそうか、そいじゃあ売ってやる」(笑)というわけ。トーモクかなんかは知らんけど、あんたが小樽なら、あんた気に入ったから売ってやる、レンゴーには内緒で売ってやるわい(笑)といった具合で、試運転の時に来い、私も行きたい、呼んでくれというわけ。それで常務に、トーモクの試運転だから、行って来ますよと言って、行ったんです。

いやあ、小樽だから、昔の芸者やら何やら総揚げでドンチャン騒ぎ(笑)、面白かったですねえ。といういきさつで、トーモクにも売ったんです。

そのとき、海崎さんが仕入れかなんかの課長で、だから、あとで社長になっても、「オイ、カイさん」いう調子でね、むかし面倒をみて、貸しがあるというアタマがあるから(笑)。

−−大昭和の缶詰ライナーというのは、まるで神話みたいなところがあって、ずーっと、その後もそうでしたね。

それはね、ポイントがあったんです。それを見逃さなかったのがね、私がラッキーだったということでしょう。ポイントを押さえて抄き出したら、レンゴーには負けませんよ、吉永工場は(笑)。それで10年間、この間も話した通り、知一郎さんに手をとり、足をとり、さんざん教わったわけです。一年経ってね、もう一年経ったからオレ辞めると言ったら、辞めさせてくれないんです。「だめだ」というわけ。それで、ズルズルと来ちゃったんです。そりゃあ、もう海外にもよく出さしてくれましたしね。

自分の子どもは、わがままばっかりで、言うことを聞かないものだから、オレばかり、こき使ってね(笑)。

−−知一郎さんは、「フレー、フレー大昭和」の野球は、いつもニガい顔をしておられたという話を聞いたことがありますが。

だから、私はね、後楽園の大昭和の応援には行ったことがないですよ。私は工場長で、工場には朝比奈だ、なんだというような選手がいっぱいいるわけです。彼らは、申しわけなさそうな顔で、「工場長、野球に行ってきます」とかなんとか言うわけ。それで、応援に行ってやろうと思っても駄目なんですよ、「得能、まさか、お前は後楽園へ応援に行くわけじゃないだろうな」(笑)と言うんで、「そりゃあ、行きませんよ」(笑)。

社長と二人、事務所が空っぽのところで(笑)、それでも気になるものだから、「おいっ、勝ったか、負けたか」なんて、ラジオをかけてね。そんなに気になるんなら、自分で行けばいいものを、そうすれば私も楽ができるのにねえ、全然行けないんです(笑)。

しんどい10年間でした。だけど、楽しい10年間でもありましたね。