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得能正照自叙伝「発明街道」

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1992-10-25【連載第6回】(平成4年)

ラベルにジェット機、天下無敵「JETマニラ」「JETスター」

−−缶詰ライナーのほかに、伝説的に言われたのがコートボールですか。前回のインタビューのとき、ちょっと話された「エア・ナイフで」というのが、そのジェット・コートのことでしたね。

そうです。ですから、あんなに儲かったんですよ。苦労したんですから。コートボールと称するもの、つまり板紙の上にクレーコートするやつは、本州製紙が一番最初に始めたんです、メタリング・バーでね、チャンピオンから輸入して。要するに、バーでこう、こすってやる方式でした。これは塗工がムラになりますよね。それに対抗上、私は急拠、半年か一年ぐらい遅ればせながら、ヤーゲンのエア・ナイフを持って来たんです。そして、エア・ナイフでやり出しました。

それで、コーティングなんて、知りませんよね、アート紙の日本加工製紙でもなければ、神崎でもない、なんにも知らないんですから。知らないのが、機械だけ買って来たって、運転できないから、それでヤーゲンベルクに頼んで、ドイツから技術屋を呼んで、コーティングを作る機械を全部輸入して、それに技術屋もつけてもらって、一カ月間教わったわけです。その人のもとで、毎日、作業服を着て、クレーで真っ白の泥まみれになって。
それが、これもダメ、あれもダメと、捨てるばっかりです。日本の塗料じゃ、塗るような塗料が出来ないんです。それで、おっさんも往生しちゃったんだけど、そのうちにやっとこういう風な順序でというようにやり出して、ようやく出来たんです。それで、初めて塗ったんです、嬉しかったですねえ。三十六回かなんか、塗料を捨てましたね、やったやつをみんな(笑)。だから下水道が毎日、真っ白になるぐらい、明けても、暮れてもでした。終わってから、彼を、会社の車で日光見物に連れて行きましたけどね、その写真全部ありますよ、その頃のね。

それで、やっと完成して、一番最初に買ってくれたのが集英社の社長をやって、この間亡くなった堀内さんでした。よし使ってやろうと言って、本の裏表紙にね、50トン注文呉れました。それを作って、大日本印刷の市ヶ谷に届けて、印刷の立ち会いに行ったんです。そうしたら、印刷が乾かなくてダメなんです。印刷の上がりは物凄くきれいなんです。だけど、こんな手間がかかるんじゃダメだと現場の連中は言うんです。
仕様が無いんで、外に出て、市ヶ谷の近くの酒屋で一升ビンを二本買って下げて来て(笑)、それで現場に「頼みますわ」いうて、パッと渡したんです。「分かった、ちゃんとやりますから、工場長、心配しないで」というわけです。市ヶ谷の上の方は知らんのです、現場にもぐり込んでやっていましたから。
堀内さんも心配になって、どうだ、どうだと言うんですが、うまく出来て、堀内さんに褒められてね、「いやあ、トクさん、さすがだなあ、よくやってくれた、有難う」というわけです。それから、注文がトットコ、トットコ入って、それで、名前を何とつけようかということになりました。

あの頃は朝鮮戦争でね、初めてジェット機が出たでしょう、F86というやつ。あの写真をね、神尾常務に頼んで毎日新聞から持って来てもらって、最新鋭のジェット戦斗機ですよね、その飛んでいるやつをラベルにして、「ジェット・マニラ」「ジェットA」「ジェットスター」とつけたんです。それで、あの「JET」が入るんです。
そのネーミングを私がやったんです。また、それに合うレッテルを作ったんですが、井出製紙が同じように、引き続きやったから、「おい、向うに負けないように、マッハという名前をつけろ」と言って、だから井出製紙には「マッハボール」とつけさせたんです(笑)。ジェット機よりまだ上のマッハだというわけでした。

現金をリュックに背負って吉永へ買いに

−−あれは、靴の箱から何から、大変な人気でしたですね。キャラメルの箱のために、リュックに現金を詰めて、吉永まで買い出しに行った人もいるし(笑)。

それは有難かったですね。だけど、まあ何でもかんでもやらしてくれましたからね。

−−本州さんが、どうやっても大昭和に勝てなかった話を、あとになって聞きましたが。

それはね、私は、一カ月に二回ぐらいは、営業と一緒に得意先を回っていましたんです。あるとき集英社に行ったら、堀内さんはそのころ専務でしたが、それで、「トクさんよ、これこれこういう原紙を抄いてくれ」と言うんだけど、私は間に合わないと言ったんです。来週の月曜日に入れろというんですが、ちょうど整備止転で、今度の日曜日はたまたまの休みだから、「月曜に入れろじゃあ、とても間に合わないんだ、そんな200トンだ、300トンだと言っても、とても無理だ」と断ったんだけど、堀内さんは何としてもやってほしいというんです。「オレのクビが掛かっているんだ」とまで言われては、どうにも仕様がない(笑)。七号機で抄いている、それじゃ待って下さい、ちょっと電話貸して下さいと言って、工場に電話して、工場長代理だとか、現場の連中を次々に呼び出して、「おいっ、次の日曜日回せ、それから金曜日の夜からこの紙に切り替えろ」と言ったんです。

みんな、「ダメだ、みんな楽しみにして休もうとしているのに」というんです。「お前ら、工場長のオレの言うことが聞けんか、回せ、七号機だけ。ボイラーは一基だけ燃やして、あとはみんな休んでいい」。そばで堀内さんが聞いているわけ、「お前はすごいこと言う、恩に着るよ」と。それで、回させて、月曜日の朝、市ヶ谷にボーンと届けました。堀内さんは、だから、もうすべて大昭和でなければなんなくなったんです。そういう、工場の責任者というか、何というかが無いとね、会社は伸びないですよ。それがサラリーマン化して、組織化しちゃうとダメです。そういうことを上がよく知っていて、あらゆることに精通していて、まあ、色んな例があるでしょう。みんなそうです。

旭化成の宮崎輝さんね、何だかんだ批判はあっても、あの人は物凄く勉強していましたからねえ。私は、びっくりしちゃったですよ、日本航空の機内で一緒になった時。偉そうな格好していて、ふんぞり返って、若い連中を叱りとばしながら入って来て、あのおっさん何やねと思っていたら、私の席のすぐそばですよ、ファーストクラスで。それで飛んで、フワッと安定して食事が終ったら、カバンからすぐ書類を出して、グワーッと見ているんです、鉛筆出して。
「このおっさん、すごいなあ」と思ってね、私は、宮崎輝さんとは知らないですよ、それで、太平洋を横断する間、私は寝たり起きたりしているのに、まだやっているんです。これは凄い人やなあと思って訊いたら、あれは旭化成の社長だというんで(笑)、とにかく三文雑誌を見てるんじゃないです、会社の書類だ、技術資料だ、なんだというのを一生懸命読んでいるんです。もう、ビックリしちゃったです。要所要所に鉛筆でこう書き入れてね。

「この人は偉いなあ」と思っていたら、やはりそのあと、あれだけの色んな多角化なり何なりをやって、すごい勢いだったですものね。

潜水艦の訓練、瞥見視力

−−ところで、横道にそれるかも知れませんが、あるいは原点に戻るような話かも知れませんが、海軍兵学校あたりからの、海軍の話をおたずねします。一般に、陸軍と違って、海軍は開放的というか、世界を広く見ているとか。

閉鎖的ですよ、海軍は。いや、いまになって考えると、私は海軍は閉鎖的だと思うんです。陸軍の方が、ワイドですね。というのは、海軍兵学校はエリート意識が強くて、それで固まり易いわけ。ところが、陸軍は数が多いでしょう。それに、陸軍は幼年学校、士官学校当時から普通の兵隊の服装だし、卒業しないと士官の服にならないんです。ところが、海軍兵学校は入校の時から既に士官の恰好でしょう。

−−短剣を吊って、カッコよかったですね(笑)。

陸軍はゴボウ剣でね(笑)。で、そういう風なものの違いから、批判される要素は色々あります。私もそれはそうだと思いますよ、海軍に在籍していて、悪くいっちゃなんですが(笑)。まあ、だからといって、海軍はダメじゃないですけど、海軍にも海軍なりの良い点があるとは思いますが。
私は、中学が広島ですから、中学から江田島の兵学校に入って、そのとき、ひどいところに入っちゃったなあと思いましたよ。というと、どうして海軍に行ったかというと、兵営生活というのがあったんです。当時、軍隊の体験をさせようということで、中学校四年か五年の夏休みに一週間、福山連隊の兵舎に泊まってやるわけです。それが、蚊はいっぱいいる、南京虫がいるし(笑)、それで練兵場でほふく前進でしょう、薬莢ひとつ失くしたといったら、かんかん照りの中、夕方まで探させるでしょう。あれでいっぺんに陸軍がいやになって(笑)、オレは海軍の方がいいやとなったんです。

−−どうせなら(笑)。

そう、どうせなら(笑)と海軍に入ったら、海軍では軍事学より数学なんですよね。だから兵学校に入ったら、成績のつけ方が違うんです。数学が年間を通じて100あるとして、例えば英語が1しかなかったとしますね、教わる時間数にして。すると、数学を100点とると100点なんですが、英語は100点取っても1点にしかならないんです、重点主義なんです。だから、学校の時間数によって、授業時間数によって成績が変わるという組織でした。
それで、食べるものは一緒、寝起きが一緒、訓練は一緒、学科は一緒だから、やはり本当に実力でそうなってしまうのでしょうが、また、これが最後まで成績順に士官名簿が出来ていまして(笑)、まあ、しまいになると考えないんですよ、そういうことは。やはり、あいつは成績が良かった、どうだと言っても、成績のいいのと戦争に強いのとは全く違います。全然違うんですよ、これは(笑)。まあ、一瞬を争うことですからね、生きるか、死ぬかですから、全く一瞬の判断なんです。

潜水艦なんて、どういう訓練をやったかと言いますと、瞥見視力(べっけんしりょく)というのがあるんです。いちべつのベツですね。それはね、潜望鏡を長い間出していると見つかっちゃうから、コンマ五秒ぐらいしか出せないんです。パッと出して、パッと下ろす。その間に相手の船の恰好、方向、速力、距離ぐらいのことを三六〇度、パッと見てパッと下ろすわけ。
だから、初めはこうやって潜望鏡を上げて、グルーッと回って、下ろすんですが、その間に全部見ちゃうんです。

−−瞬間的に判断がつかないと、いかんのですね。

それを瞥見視力というんです。その訓練をやるんです。最初はスライドですけど、まあ、いまはスライドと言わないとピンと来ないんですが、昔は幻灯機でした。それで、四角、丸、二重丸、バッテン、三角など、色々取り混ぜたものをぐしゃぐしゃにしてね、パッと映して、しばらくしてパッと消すんです。さあ、四角がなんぼあって、三角がいくつ、バッテンが幾つあって、これは幾つかと書かせるわけです。
初めはまるで分かりませんよ。だけど、これをだんだん、毎日訓練して行くと、瞥見視力が上がっていくんですね。それで、パッと見て、パッと消したら、網膜に残るわけです。

−−そんなものですか。

この訓練を散々やらされたわけです。これがね、私はビジネスの上で非常に役立ちました。ですから、私はみんなに言われましたけれど、大昭和のときも、レンゴーのときも、ただスーッと通っただけで、あすこで何をやっていて、ここではこうやっていて、あすこのプレス圧はどうだった、こうだったというのが、みんな頭に入るわけです、そして文句をタレるんです(笑)。なんだ、おかしいじゃないか、とかね(笑)。
一番いい例が、ブラックローソンに行ったことがあるんですが、大昭和の抄紙機の交渉でね。それで、彼らの図面を広げたんです、丸網シリンダーのバットの図面ですね。そのとき、伊藤忠の西松部長(後の常務)が一緒にいたんですが、彼がついて来てくれて、それで、「西松っちゃんなあ、相手とダーッと話していてくれ、その間にオレがこれを全部覚えるから」(笑)。

「そんなバカな、こんな細かい図面をどうやって」という返事でしたが、「いいから、あんたは、適当に話していてくれ」と言って、ジーッと見ながら、話を聞いているように、フンフン言っていたんです。
30分ばかり、その図面をジーッと見つめて、あとパッと帰って、自動車の中で彼が色んな話をするから、「西松っちゃん、もう話をしないでくれ、忘れちゃうから」(笑)と言って、部屋にかけ込んで、ノート広げて、ダーッとその図面を書いたんです。
それ、ありますよ、いまでも。その寸法も全部入れて、完璧なものでした。彼は、「どうやったんだ、これは」と呆れていましたが、それを持って帰って、大昭和の11号機を作るときに、そのバットを小林で作らせたんです

それが「瞥見視力」なんです。だから、町でも、誰か知った人を、大体私が先に見つけますね、瞥見視力で、サッと見たら分かりますから(笑)。
ですから、レンゴーのときに、海外出張して、色んな会社に行ったりしても、瞥見視力が本当に役に立っていますよね。こういうノートに書くのも、その場でばかり書くわけじゃないです、怒られちゃうから。だから、自分でこう頭に入れておいて、ホテルに帰ってからダーッと書いておくわけですよ。そのときに、こう、こんな具合にまとめて書いたものが、いまノートに残っているんです。

−−私が海軍の話を持ち出したのは、一つには得能さんの発明と、海軍とが、どんな関係がありますかとお訊ねしたかったわけですが(笑)。

瞥見視力です(笑)、それ以外の何物もないです。網膜に残しておかなければならないと同時に、あっ、こいつはどの資料を見れば参考になる資料が出てくるかというのは、やはりコンピュータに残しておかなければね、頭の中のコンピュータにですよ。だから、瞥見視力で、こんなノートをみんな書いてるわけです。
ですから、私はあれもこれも海軍のときの潜水艦の瞥見視力の訓練の賜物だと思います。いまは、それもだいぶ衰えましたよ。ですけど、あの頃の私はすごかったと思いますね(笑)。

−−ブラックローソンの図面を丸ごと(笑)。

全部ね(笑)、全部、写したんじゃなくて、見ていてアタマの中に入れたんですから(笑)。それで、「西松っちゃん、早く帰ろうよ」と言ってね。早く帰らないと抜けちゃうんだから、こぼれちゃうんです(笑)。

−−段ボール関係では、海軍で有名な方というと、日本フルートの山田穣さん、もちろんレンゴーの長谷川さん。

山田さんは先輩ですよ、潜水艦ですから。イロハ会という会があって、いまでもときどきお目に掛かっています。ウチにもよう来られます。山田さんは親しくさせていただいています。

−−飛行機の方で長谷川さんですね。長谷川さんとの最初の出会いはどちらでしたか。

兵学校です。それで、兵学校を卒業するまでは、配属が決まらないんです。私は最初は駆逐艦で、そのあと潜水艦です。長谷川さんは、最初から飛行機でした。
ですから、私は潜水艦に行ったために瞥見視力の訓練も受けられたわけで、それは私にとって、非常にプラスになっていますね。私は技術屋の誰かれにも瞥見視力のことをよく言うんですが、そうでしょうね、専務は町をスーッと歩いただけで、あの子はあすこにいた、どうだ、こうだ、みんな知ってるもんなあ(笑)なんて言ってますけど。
ただ、すーっと歩いていただけで、圧力ゲージでも何でも、目に入ったものをみんな網膜に残す、そういう訓練が出来ていたわけです。だから、工場歩いていても、あすこのゲージがおかしかったけど、どうしたんかというと、いや、そんなことありません。「それじゃ、キミは何キロでやっていると思うんだ、バカもん、行って見て来い」いうと、あとで「済みません、専務の言う通り圧力が低すぎました」なんて、それぐらい瞥見視力で養った力というのは、良かったと思いますね。そういうことが、開発につながっていると思うんです。

ですから、消えないものは、いつまでも消えないんで、フィンガレスでも、ああ、今日は亘理さんが見えるから、面白いもの見せよう、あれはどこにあるか、書いたはずだがなあと、こんなにある一冊、一冊の中から記憶をたどったら、ここにパッとあるんです。
こういうのが、アタマの中にインプットしてあります。忘れないですよね。
ただ、限度があります。年を取ってくると、脳細胞が一日に何万個かダメになって、消えていくわけです。新しい細胞が出来るわけないですから、活性化しなければなりませんよ、新しいものをやるためには。そのためには、やはり重要書類とか何とかいうものは、ファイリングして、きちんと残しておくということをやりませんとね。みんなにもそう言っているんです、オレの書類の整理の仕方を見てみい、と。だから、あんなウルトラフォーマーの、大昔の、色の変った資料もパッと出てくるわけです。

−−そういう整理の才能は、言ってみれば生まれつきですか(笑)。

親父が、わりと整理魔でしたね。

−−これはもう、一朝一夕じゃありませんね、生まれつきのものがあって、それに、訓練が重なって、海軍もあったでしょうし(笑)。