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得能正照自叙伝「発明街道」

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1992-10-30【連載第7回】(平成4年)

海軍独特の記号や記録要領も

これ、日記帳ですよね。この日は「晴れのち曇り」です。天気もみんな記号で書いているんです。この記号はね、曇のち雨、のち雪となっています。

−−これも海軍ですか。

ええ、海軍です。海軍でやっていた天気の符号を書くようになっちゃったんです。これは全部、誰と会ってどういう話をして、要点をまとめて、それから重要項目については、こういうように切り抜きを貼りつけてありますから(笑)。これを見れば、誰と話をして、どうだった、こうだったというのが、もうすべて分かります。

−−はあ、すばらしいものですね(笑)。

戦後からのやつを、この方式で全部統一して残してあります。海外のは三井物産のこの手帳です。だから、ウソのことも言えませんしね、ひとにああだ、こうだ言われると、いいや、そんなことはない、オレちょっと調べてみるいうて、十年前のをパッと広げると、ウソ言え、これこれこうだったじゃないか(笑)。

−−そうですか。

ただ、持って出る手帳はこっちですよ、これは同じように、曇りだとか雨や雪だとか。

−−これも同じように、海軍の記号ですか。

そう。これは、どうしてこうやったかというと、吉永工場の工場長のときにね、印刷屋さんのところで、物凄いクレームがついたんです。「あんたのところの紙は、伸縮して、ちゃんと刷れなくて、こうで、ああで、だから紙が悪い」と来たわけです。それで、私は「ちょっと待ってください」と言ったわけ。「それは何月何日に印刷されたんですか」と訊いたら、「何月何日だ」というんです。それで、天気を調べてみたら、その日はドシャ降りの日ですよね。
だから、こっちはわかっていて、「その日は天気でしたか、雨でしたか」(笑)と訊いたら、「いや、天気は良かった」と言うんです。ですから、「誠に申しわけないけれど、気象台で調べたら、ドシャ降りの日なんです。ドシャ降りの日に印刷されたら、紙は伸びるんですよ」と言いました。向うは、何にも言わなくなって(笑)、「わかった、もう結構です」と、クレーム解消です。それから、私はこの天気の符号を全部つけ出したんです。
いまは、ときどき、孫が聞いてきますよ、「おじいちゃん、あの日は雨だった、どうだった」いうて、宿題で(笑)。よしよし言うて、教えてやるんです(笑)。

−−そうですか(笑)。

だけど、吉永のときは、これを持つと同時に、大阪なら大阪に出張するとき、大阪の二カ月先までの気象台のデータがありますね、湿度が何で、なにがこうで、雨だ、あれはこうだという資料ですね、あれを全部持って行きました。勝手なクレームをつけられると困るから、私は必ず大阪事務所の連中に、「おい、気象台から全部写しを取っておけ」と言っていたものです。

−−紙屋さんは、いつもそういう方面まで気をくばらないといかんのですか(笑)。

まあ、いまは、それをやっている人はいませんがね。いまはもう、印刷工場もみんなエアコンになったし、あまり必要ないでしょう。あの頃は、エアコンの工場なんて無いんですから。そりゃもう、そういうことは、抜け目なくやっていたんです(笑)、あのおっさん来ると、かなわんなあ(笑)ちゅうたもんで、トッパンの連中が、よう言うてましたよ。工場長はああ言やこう言うし、こう言や、ああ言うで、どうにもなんないなあなんて。それでまた親しくなりましたね、トップの技術屋さん達と。その当時の人たちと、いまでも時にはお会いして、親しくさせていただいています。

−−今回は、主に板紙を中心にした話題でお話をうかがったわけですけれど、次回は話題を段ボール機械の方に戻して、おうかがいしたいと思いますが。

はい。ただ、あれだけは、よく言うてて貰いたいのですがね。あなたのおっしゃった「種を蒔いた人、それを育てた人」ということですが、いままで書かれたものを自分で読んでみると、何か自分ばかり偉そうに、大威張りしているようでね。そうじゃないんですよ、まあ、話し言葉というのと、それを活字にしたときの、ニュアンスの違いということもあるんでしょうが。
繰り返すようですが、いままでの経過を言いますと、やはり私は本当に恵まれていたと思います。勤めていた会社にも恵まれましたし、知一郎さんという人のいた暴れん坊の土壌で育ちましてね、そして保守的だったレンゴーに行きましたけれども、加藤さんが来て、長谷川社長が後を継いで、その間、ずっと技術のトップで開発の仕事をやらして貰ったという、その土壌がありましたからね。だから、私は本当に恵まれていると思いますよ。
いまでも昔と同じです、いまでも三菱と、小林製作所に対しては、色んなアドバイスもし、あれをし、これをしというように、さしてもらっています。どうも、その辺の、感謝しているという気持ちが、少し伝わらないような気がしましてね。

週末には井出製紙の技術指導

−−限られたスペースの中だけでは、すべてを表現し尽すのは難かしいかも知れません。ただ、これほど回を重ねてお話いただくわけですから(笑)。ところで、本日の最後の質問で、もう一つだけよろしいでしょうか。井出製紙と得能さんのご関係ですが。

私は、姉の恭子と二人姉弟で、姉の連れ合いが井出正則なんです。井出製紙というのは、むかしチリ紙工場があったんですが、兄貴は独立して、ひとりで今泉で仙貨紙をやっていました。だけど、仙貨紙じゃ仕様が無いというので、初めて板紙をやり出したんです。

その板紙をやるについて、私は当時、もう吉永の工場長をやっておりましたから、私に「面倒をみてくれ」ということだったんです。二人きりの姉弟で、義兄だけど、面倒みてくれと言われても私は右から左にそうは出来ないと言ったんです。それで、「了英さんのところに、得能に面倒みて貰いたいんだがと言いに行け」と言って、兄貴はそうしたんですが、了英さんは、「いいですよ」と言っておいて、それから私のところに来て、「得能、おまえバカだな、兄弟なら面倒ぐらいみてやれよ」と言うわけ。「じゃ、面倒みてもいいんですね」と言ったら、「いいよ」というんです。
井出製紙の工場は、吉永工場への行き帰りの途中です。だから帰る途中、必ず寄っては面倒をみていたわけです。それで、コーティングをやり出して、私が機械を発注させ、誰も知らんですから、全部私がやったんです。そしたら、大昭和よりも良いやつが出来て(笑)。

−−それは、困ったでしょうね(笑)。

困っちゃって(笑)。大昭和の注文が井出に流れて行くからオレも困るわけです(笑)。そういう問題もありました。だけど、そのまま引き続き見てもよいということで、見ていたわけですが、私が了英さんと大喧嘩して辞めて、それで全面的に見だしたわけでしょう。こんどは営業から何から、全部ひったくっちゃったんです(笑)。
得意先に行ってね、私の顔もあるんですから、「大昭和を辞めて、井出を見ているから、井出に注文ください」といったら(笑)、みんな、わかった、うまくやるから言うて、ダーッと大昭和の注文を呉れたんです。大昭和は、怒った、怒った(笑)。

−−しかも、いわばご町内ですからね(笑)。

だから、レンゴーに来いと言われても、中途半端では行けなかったんですよ、兄貴も困っちゃうしねえ。だから、家を変わらないで、静岡にいて、金土日と帰ってこっちを見て、それから大阪に行って、それを毎週、繰り返していたんです。疲れましたよ(笑)。