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得能正照自叙伝「発明街道」

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1992-11-25【連載第8回】(平成4年)

スプライサー開発への経緯

−−前回は、主として板紙のお話をうかがったのですが、今回はまた段ボール機械の方に戻ってお話をうかがいたいと思います。一番最初に開発されたのがコルゲータ用スプライサーということで、それがまたアメリカから教わる一方だった日本の段ボール技術が、逆にアメリカを凌ぐに至る最初の象徴的な出来事だったと思えるわけですが、その話題が前回は途中で途切れてしまっています。ミスター・スチブンソンに会われて、アメリカでもコルゲータにまだスプライサーを使っていなかったというあたりから、もう一度お聞かせいただけませんか。

いや、一社あったんです。一工場だけです。それはね、これが原型ですよ。要するにターンオーバーのスプライサーです。そのときにあったのは、これです。ミルロールスタンドはS&Sのミルロールスタンドです。S&Sのターンオーバーのミルロールスタンド、それにスプライサーをつけたのです。これが一工場だけありました。
そのとき、スチブンソンに聞いたら、ターンオーバーのやつだと言うから、ターンオーバーなら製紙にも、もういっぱいある、新聞用紙だとか、ラミネーターだとか、いろんなものがみんなターンオーバーのスプライサーですよ、それは大昔からあるんです。それをモデファイして段ボール用のターンオーバーのミルロールスタンドにつけたわけです。それで、「うまくいっているのか」と私が訊いたら、「ターンオーバーで、簡単だから、うまくいってるよ」という話だったんです。
それから発達して行ったのが、このミルロールスタンドです。大昔のカタログです。原紙の先端をこんな具合にスプライサーの恰好に切ってあるわけ(笑)。

−−なるほど、それでわざわざこのような形に切っているんですか。

この富士山型の恰好というのは、このように貼り込むように、富士山型にしてあるわけです。これが、ターンオーバー型のミルロールスタンドの一番最初に出たカタログです。こんなカタログ、もう誰も持っていません。むかし、アメリカに行ったとき、何かで貰って、とってあったんです。

−−このカタログは「リューベック」というんですか、「ゼネラル・コルゲーテッド・マシナリー・リューベック」と書いてありますね。

そうです。面白いですね、そういう歴史を見ると。

−−これはドイツ語でも書いてありますね。

要するに「ゼンコー」です。面白いでしょう、もうそんなもの、全然ありませんよ。前にもお話しましたが、私は昔のカタログを見直しているんです。で、これはあとから出たやつです。

−−ミスター・スチブンソンと話をされたときにはご存じなくて、ですね。

そう、物を見たこともなければ、スチブンソンにそういう話を聞いて、オレも負けちゃおれんから帰ったらすぐスプライサーをやる、と言って帰って来たんです。当然やらなきゃならんということでしたね。
それで、スプライサーをどんどん、どんどん考えて行ったんです。結局、コルゲーターに付けるのにちょうどいいようなやり方はないかというので、大阪工場にスプライサーを入れようといって、こういうスプライサーを入れたんです。引っ張り上げるタイプですね。これは昭和四六年ごろに、札幌工場に入れたスプライサーの図面ですから、もう何台目か、あとの方のものです。

最初は大阪工場で、昭和四五年か、その頃に、これと同じようなタイプのものを入れたんです。ここにミルロールスタンドがあって、ここでピュッと合わせるんです。引っぱり上げるタイプですね、要するにフライングできないでしょう、こうターンオーバーじゃないですから。それで、ここで合わせるやつでやろうと、こうなったんです。
その頃、三菱さんは、タイヤをここへ乗っけてね、原紙の上でタイヤをこう回して合わせるようにしたんです。

−−その頃から、大体一斉に始まったわけですね。

いっせいに始まったんです、私がやり出して、三菱にも話して。それで三菱は、三菱タイプのやつを名古屋工場に入れてくれたんです。私はこのタイプでやったわけ。ですから、相当長い間、札幌工場あたりでもこのタイプを使っていました。十年以上も使っていましたね。その頃の図面です。大阪工場でやった最初のものは、これよりずっと古いですから、もう無いと思います。これは、ぜんぶ札幌工場のものです。

−−以前の話をむし返すようですが、日本で得能さんがスプライサーを作って、うまくいって、アメリカからミスター・スチブンソンが見に来ましたね。あれはどういうことだったのですか。

あれは、スプライサーから始まって、インクライン、ナイヤガラ・スタッカーだなんだというのを一斉にダ、ダ、ダッとやったわけですよね。

−−そのときは、もうナイヤガラ・スタッカーも出来ていたんですか。

そう、それで名前をナイヤガラと付けたわけです、こうやって、ここへ持ってきて、ズドンと落とすタイプなものですから、上から落すから滝だというわけです。そしたら、スチブンソンも、「いやあ、これはいい名前だ」いうて、感心してくれましたけれどね(笑)。

−−ああいうものも、アメリカでは全く無かったわけですね。

そう、無かったんです。だから、オートフィーダから何から、省力機械は、その頃は全く無かったんです。アメリカ人は、身体がこんなに大きくて、力があるから、要らないんです。ところが、日本人は、体力がないんで、従業員に腰痛が多くて、腰が痛くなるの、どうとかと言うもんだから、それでは何とかしてやらなければと、そういうものも作ったんです。

腰痛は、職業病だったんです。給紙でシートを積んだり、積み下ろしたりするのでね。それで、かわいそうだから、私がナイヤガラ・スタッカーを作ってね。まあ、初期のナイヤガラ・スタッカーは全く恰好が違うんですよ。初期のナイヤガラの資料は、みんなレンゴーに置いて来ましたが、初期のはコンベアでこう流して来て、ストンと落とすようにしたんです。支えがあって、それに立てかけるようにして、それからストンですが、それがレンゴーでは一世を風靡して、これは楽だというので、鳥栖工場だ、あっちだ、こっちだとみんな入れたわけです。

盛名馳せたナイヤガラスタッカー

−−一時は、得能さんといえば、反射的に「ナイヤガラ・スタッカー」でしたね。

ナイヤガラというのは、図に書きますと、テーブルからデリベリーのコンベアがこうありまして、シートがこう積み上がりますね。こっちヘこぼれたやつをこうやりまして、これがずーっとこうなるでしょう。それで、ここにキャタピラーのコンベアがあって、こういう風な立て掛けの支持板があって、ここに来たのがストンと落ちて、それでまたこれをバッと引いてね、次のがまた、だんだん、だんだん積んで来るんです。そこで、ここにフォークがあって、こいつをワーンと立てかけたんです。そして、ここでストン、ストンと落とすもんだから、ナイヤガラという名前をつけたんです。
それで、これがFLで、ちょうど1mぐらいありますから、ここにストン、ストン落ちる、こういうのだったんです(笑)。ナイヤガラ・スタッカーにしても、スプライサーにしても、時代とともに変遷して行きましたがね。これが、特許出願の順番です。いま言ったスプライサーがここにありますね、これがオートフィーダです。
まあ、箱の形式とか何とかいうものもありますけれど、これがナイヤガラ・スタッカーですね、これがまたスプライサーです。これもスプライサー、だんだん形が変ってくるわけです。これはターンオーバーのときの色んなタイプのスプライサーです。

−−はあ、これは申請順ですか。

申請順のはずです。それから、これはイン・クライン・スプライサーです。それからスリッタースコアラね、これは色んな開発の歴史です。それから、これはオートフィーダ、次がDDS-R、ダイレクト・ドライブがここで出て来るんです。
これが、私がレンゴーにいる間に、私が開発した一覧リストです。全部そうです。だから、スプライサーにしても、ずい分多くの変遷をたどりながら来ているわけで、どのスプライサーからどうだったというのは、仲々特定し難いわけです。こんなにあるわけですから。

−−そうすると、走りながら考えては、また開発して走るという(笑)。

そう。ですからこのスプライサーというのは、昭和四六年三月に申請しているんです。

−−段ボール工場から肉体労働を無くすんだということを、よく言われておりましたね。

ええ、職業病になっていましたからね。腰の痛い連中がずいぶん多かったんですよ、当時の段ボール工場では。だから、同時にオートフィーダも考えたわけです。

−−オートフィーダでは、捧積み(一方積み)、交互積み(交互反転)の間題もありましたね。

それが出来るようにしたわけです。私は、それまでの製紙から、段ボールの方に行ったばかりで、棒積みとか、交互積みがどうとかいうのは知らなかったわけですから。そんなもの、ワケないじゃないかといって、こう斜めにして、ダーッとやることをまず考えたんです。これです、これはボトムプリント用のフィーダーです。S&Sのフォルダーグルアが初めて大阪工場に入ったですから。

−−底面印刷ですね。

ボトム・プリントというのは、要するにグルア用に考えたわけです。グルアの場合は、印刷は一方積みだから、印刷したやつをグルアにかけたんです。フレキソフォルダーグルアというのは、当時はまだ無かったんです。昭和四六年当時は、フレキソ・フォルダー・グルアというのはまだ無くて、プリンターはプリンターで、フレキソ印刷機か、油性の印刷機かという違いだけで、一方積みで、印刷したものをグルアに掛けていたわけです。

グルアも、その当時はまだ無かったんです。ステッチでやっていました。それで初めてS&Sのグルアをアメリカから買ってきて、これは私が買ってきたんじゃなくて、確か服部さんや井上亮一さんが行ったときに、S&Sから買ってきて、グルアをやり出したんです。
ノリ付けのジョイントは、レンゴーが初めてだったと思うんです。ところが、それが良いとか、悪いとか、しばらくは評価が定まらなくて、こう仲々だったでしょう。それを、まあまあ使えるように改良して、ちょうどその頃から、私が段ボールの方を見はじめたわけです。
ところが、グルアの場合、一方積みでしょう、印刷し終っているわけですから。それで、これを考えたわけです。これをバタバタッとこうやって、ザラザラッと流して行くんです。

もう一斉ですよ、どれもこれも。スプライサーも、スタッカーも、フィーダーも、あれもこれもでした。それで考えて、大阪に入れたら、非常にうまくいったんです。そこで、これのパテントを申請したんですが、そうしたらフィーダーはアメリカで引っ掛かっちゃったんです。これは「取り下げ」になっているでしょう。引っ掛かったんです。

昭和46〜47年ごろ、何もかも一斉に

−−スウェーデンとか西ドイツでは、拒絶になっていますね。

というのは、サンフランシスコに本社のあるクラウン・ゼラバックが特許権を持っていたんです。それでクレームが来たんです。パテント侵害だと言ってね。だから、私はビックリして、海外に行くときに寄ったんですがね、それで見せられて、確かに侵害するわけですから、私はもうシャッポを脱いで、「わかりました、ロイヤリティを払います」と言って、ロイヤリティを払ってから、これを作り出したんです。それで、ここで取り下げたわけです。

−−そういうのもあったんですか。

ありますよ。私はもう認めたら、わかりましたと言って、すぐ取り下げますからね。国際紛争をやって、弁護士を雇って、論争に長い年月と費用をかけるのはバカげたことです。私の方も、独自で考えたものですけれど、向うの方が早いとすれば、わかりましたと言って、それに同調して、まあ相手の人はクラウンゼラバックのパテント・オフィスの人でしたが、彼とはいまでも付き合っているんです、今でも手紙のやりとりをしています。
非常にいい人でね、私の方もすっきりしていたものだから、彼も、何かあったら、いつでも言って来いと言ってくれているんです。彼は、いまはもうクラウンゼラバックをやめて、自分で個人で弁護士をやっています。

−−そういうように、得能さんが発明される前に特許が成立していて、フィーダーのように、これはアカンというものが、ほかにもまだあったんですか。

私はね、開発する前に、これを誰かがやっているか、やっていないかということは、調べもしなかったんです。全部初めてだと思っていたもんだから、ヒトのことなんか構っちゃおれんで(笑)、それよりこっちの方が忙がしかったんです。

−−やはり、大概はそうだったわけでしょう(笑)、ほとんど初めてでしょうね。

ほとんどが初めてでしたね(笑)。だから、これをやったら、ヒトのパテントに引っかかるか、どうかというのは、全く考えもしなかったです。

−−たまたま、こういうのがポコンと出て来たわけですね。

そう、これだけだと思います。ただ、出したものの、拒絶とかというものもあります。それは確かにあるんです。これは三菱から出願していたものです、スリッタースコアラのヘッドの固定装置、これは権利放棄でしょう。こういうのは、みんな細かいやつですけど。
いや、そんなこと、頓着なしにトットコ、トットコ行ったんです。何か引っ掛かったら向うから言うて来るわい(笑)、ちゅうようなもんでした。そんなもの調べて、やろうか、やるまいか言うてるヒマもないぐらい、開発を続けたわけです。だから、昭和四五年〜四六年ごろからもう、これは四二年でしょう、バッチカウンターは、この頃から一気呵成ですからねえ。

−−四六年、四七年が凄いですね、四八年も。四七年というのは、特に重なっていますね。

そう、もう忙しいなんていうもんじゃないですよ、ヨソより抜きん出なければという、一つの会社のポリシーがありましたからね。加藤さんは、なんぼでもやれえ言うし、負けられないというあれがありますから、そりゃあ、もう無理やりやって行きました。このDDSなんかが四九年ですね。

−−四九年ですか。

そうでしょう、矢継ぎばやですもの、人のことなんか、構っちゃおれんでした。

−−これはまた新しい給紙機ですね、ニューオートフィーダー。

そう、これはアタッチメントをつけたものでね。結局、これはいくらやってもパテントにはならなかったんです。

−−なるほど、これも拒絶になっていますね。

何回やっても、フィーダーはパテントにならなかったですね。これ、ナイヤガラ・スタッカーね、こういうのはあまり拒絶にはなっていません。ユニークだから(笑)。

−−そうすると、積み込みの方は、海外にも考える人がいたんですね。

そうです。だけど、特許は取っても、海外では余り利用はされていなかったんです。ところが、私のところでは、すぐ実用になって、どんどんやり出したものですから、ヨソはみんなパテントが無いというので、私のやつを、それぞれ国内でマネて作り出したんです。それがオートフィーダです。うちが、それをあっちこっちに売ったものですから、それをコピーしてね。まあ、そういう紛争もありました。

−−こういう一番新しい機械を開発されると、すぐ右から左に各工場に配置されたわけですか。

まず一台、どこかの工場に入れて、実用テストをして、従業員の意見を聞いて、それでラクか、ラクでないか、また、ああやってくれ、こうやってくれという要望も出ますよ。オペレーターの意見を聞かないとね。それを聞いて、それで最終的に量産機をパッと作るということです。だから、フィールドテストをやりませんとね、わからないですから。

抵抗強かったオートフィーダの導入

−−それじゃあ、あっちではフィーダーをやっている、こっちではスタッカーだ、スプライサーだということだったんですか。

ええ、もう、あっちこっち。それでね、オートフィーダを初めて開発したとき、東京工場に入れようと思ったんですよ、東京工場の連中は特に腰痛が多いとか、どうとかと聞いていたものですから。それで一台入れようとして、現場の連中に、こんどオートフィーダというのを開発して、これなら給紙が一人で出来るし、ラクだから入れてやるいうたら、みんなが「いやだ」と言うんです(笑)。昭和四六年ごろの最初は、そんな、機械でやるようなことは、わしらよう扱わん、だから要らないと言うんです。せっかく作って、初めて入れてやろうとしていたのに、ね(笑)。
それでも、まあそんなこと言うなと抑えて、一台だけ印刷機用に入れたんです、交互積みのものもある程度は手作業で全部いけるやつです。で、それはいまのオートフィーダの原型です、まあほとんど変っていませんがね。

−−いわゆるセミオートフィーダですね、手でこうやるような。

そうです。入れる前は要らないといってワーワー言っていたのを、強引に入れたんです、悪かったらすぐ外すからなんて言ってね。それで入れたら、印刷機のラインが6ラインありましたが、その一台だけ入れて、ほかの連中は要らん、要らんでしたが(笑)、それがすごくラクなんですよ、スイスイいけるんです。印刷機のスピードが上がっても、ある程度ついて行けるし、そしたら、ほかのラインの連中が見ていて、オレにもやらせい言うて、かわるがわる試してみて、みんなラクなのがわかったんです。シートを担がないで済むから。

だから、こんどは、ほかのラインの連中が、ウチも早いとこ入れてくれと来たわけ。それでね、オレは入れなかった(笑)、意地悪してね。入れるかア、お前ら、さっきまでイヤダと言いよったじゃないか、よその欲しいというところが最優先だから、お前んとこは一番あとや(笑)いうて。そうしたら、ヒデエとか言って、頼むから早く入れてくれとなりました。

要するに、どうしていやだと言ったかというと、給紙に二名ずつ付いていたでしょう。ところが、機械を入れたがために、給紙は一人にされて、あとはクビを切られちゃう、どこか配置転換でもされちゃうという不安があったわけです。しかも、その頃、レンゴーの労働組合の問題が真っ最中でしたからね。労務担当が長谷川さんで、彼も苦労していたんです。
その真っ最中でしたから、入れなければ、また腰痛がどうでこうでと、色んな問題が出るし、入れれば入れたで、クビを切られるんじゃないかという不安がある。そういう意味で、あのころは一つの過渡期でしたね。

入れたら、調子がいいものだから、あれもこれもどこかにすっ飛んでしまって、入れたい、入れたいとなったけれど、私は、こんどは入れんと言ってね(笑)、そういう問題がありました。まあ、どんな会社でも、新しい機械の場合には、そういうことは色々あると思います。オペレーターが納得しないと、なかなか入れられないものなんです。