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得能正照自叙伝「発明街道」

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1992-12-25【連載第11回】(平成4年)

60才で辞めようと思ったが

−−このインタビューも、いよいよ終りに近づいて来ました。それにしても、得能さんの人生というのは、斉藤了英さんも、「いいなあ」と言っておられたそうですけど(笑)、なんといいますか、こう輝きに満ちた人生ですね。

いや、そんな、輝いてるとは思わないんですよ。私は、やっぱり、何といいますか、好きなんですね。好きなことを、死ぬまでやらしてもらえるというのは、非常に有難い人生だと思いますよ。これだけです。
好きなことを、死ぬまでやれるということは、本当に誰でも出来るものじゃないです。どんな大会社の社長にしても、死ぬまで社長をやるには、途中で死ぬしかないわけです。そうじゃないですか。だけど、私は、いまだに新しいことを追いかけていてね、それが、いまでもやれるというのは、自分でも本当に有難い人生だと思います。

−−ところで、得能さんにいままでおたずねしなかった質問が一つだけ残っております。この際、率直にお尋ねしますが、得能さんは、どうして、レンゴー専務という高い地位を中途でお辞めになられたのですか。

いまの立場を続けたかったからです。究極は、それです。

−−こうして色々お話をうかがったあとでは、何となく分かる気もしますが。

私が、いまでもレンゴーにいたら、たぶんおかしくなっていると思うんです。出来ない立場に追い込まれちゃうんです。

−−会議だとか、なんだとか。

いや、会議だとかなんかはいいんですけど、私がいつまでも自分で采配を振るって、開発なり何なりに没頭していると、若い連中が全然育たないんです。

−−それはあるでしょうね。

育ちませんよ。あとの連中が育つか、育たないかは別問題としても、私は個性が強いですから、気に入らないものは気に入らないですからね。若い連中がいても、気に入らなければダメと、こうはねつけちゃうと思うんです。そうすると、若い人たちが折角やったものが、出来ないですから。

−−得能さんからすると、みんな合格点にはならないんでしょうか。

仕様がない、それじゃあ私がやらなければとなってくると、勢い、若い連中が、どんどん、どんどん、ダメになっていってしまうんですよ。
私はやっぱり、自分で、自分の頭でいままで考えたことを、色んな経験を踏んで、新しいこと、独創的な問題、全くヒトが考えなかったような問題、色んな問題を考えて行くという一つの哲学といいますか、自分の人生観がありましたからね。それは会社じゃないですよ。会社の地位とか名誉とかではなくて、自分の哲学というか、人生観というか、それを貫いて行くということが、私にとって、私の人生にとって、一番の幸せだろうと私は思うんです。
だから、そうやっただけです。大昭和を辞めたのも、結局は、それでした。

−−いままでずっと、長くお話をうかがってきましたので、私には、そのおっしゃる意味がよくわかるのですが、ただ、なかなか世間は、それだけでは納得しないんじゃないか、とも思いますが。

私は、実は六十才のとき、既に辞めようと思っていたんです。辞められなかっただけですよ。だから、基本的には、もう自分があらゆることを考えて、自分に最も適した余生というか、最も適した人生を送るということは、これは却って私がレンゴーにいたら、おかしくなるということです。
私がおかしくなるばかりじゃなくて、会社の若い連中も、いままで一緒にやってきた連中までおかしくなるというように思いますね。

−−それが理由ですか。

それが理由です、ほかには何ものもないです。
世間では、長谷川社長と意見が合わないとか、どうとかいうけれど、そりゃあ、そうですよ。誰にでもありますよね、好き嫌いや、合う合わない、体質の違いとか、色んな言い方がありますけれど、それはどんな人にもあります、どんな人生にもね。それは仕様が無いでしょう。
だけど、そんなことで辞めるほど、私はこどもじゃあないです。好きであろうが、嫌いだろうが、会社というものをやって行く上においては、やはり、会社の開発なり、なんなりをやろうと思えば、勢い自分でシャシャリ出るようなことになるし、若い連中を育てるためには、やっぱり上が引いた方が若い連中が伸びるわけです。

−−まあ、大体、どういうお返事になるだろうかと思って、私なりにいろいろ思いをめぐらしておりました。やはり得能さんという方は、一つのワクの中に閉じ込められるというか、その中にじっとおさまっていられる方ではなくて、仮りに普通の人には、それが何も制約じゃないという具合に感じられて、安住していけても、得能さんには、それが耐えられないというようなことがあって、そういう例えば才能とか、色々なものをお持ちの方なんだというようなことが、結局、われわれにすれば晴天の霹靂のようだった得能さんの退任の原因ではなかったのかなあ、と考えていたのですが。

おっしゃる通りなんです。上の立場になればなるほど、制約を受けるわけです。それはね、耐えられないです。若いときはいいですよ、自由闊達にやれるから。怒られようが、何しようが、よし、あれやろう、これやろうだけど、上になればなるほど、会社に制約されます。すると、それに対する反発がありますよね。すると、結局、ケンカになっちゃうし。
どんな会社でも、大昭和でもそうだと思うんですが、どんな会社でも保守的なんですよ。保守的にならざるを得ないんです。ソニーは闊達で、どうでと言ったところで、保守的な部分は保守的なんです、企業である限りは。

−−ならざるを得ないわけですね。

ええ。そういう中に生きている人間の中でも、やはり人生観の違う人というのは、耐えられないと思うんです。ソニーにしたって、アメリカのべル研に飛び出して、ノーベル賞を貰った有名な数学者の例があるわけでしょう(笑)。やはり、どこか体質的なものもあるんです。

−−それから、逆のことも言えるんじゃないでしょうか。例えば、得能さんのような方がいらっしゃると、まわりが辛くて、どうにもならなくなるとか(笑)。

まあ、それもね、そういう問題も出てくるわけです(笑)。立場が上になればなるほど、会社の中で地位が上がってくれば上がってくるほど。だから、私は六〇才ぐらいで辞めたかったわけです。耐えられなくなると思ったんです。

−−何才までおられましたか。

六五才です。

−−そうすると、いわゆる常識的には停年という年令ではあったのですね。すごいご発明の連続でしたから、誰もそんなことを考えなかっただけで。

そう、私が常務、専務当時でも、加藤さんは、やりたい放題にやらしてくれましたからね。彼は、私の性格もよく知っていたし、だから割と野放図にやってましたよ。

如何にいい友達をたくさん持つか

−−加藤さんが亡くなられたというのも、一つ大きい区切りになったんですね。

大きいね、人生としての、一つの区切りだったですね。私は、レンゴーという会社は好きだったです、そういう意味から言えば。

企業である以上は、レンゴーも保守的だし、どこも保守的なんですけれど、だけど、ワクに閉じ込められるというのは、私にはできません。
それよりも、一生かかって、自分が思った開発の仕事を、それはもう地位はなくても、何はなくても、自分が食べて行けるだけの稼ぎはやりながら、一つのその新しい開発の、方向づけなり何なりをやって行くということが一番大事で、私の人生にとって、それが、たとえ評価されようが、されまいが、ちっとも差し支えないことです。
私にとっては、全く違う次元のことですから。エンピツと、紙だけですから(笑)、要するに。

−−それがすごいですよね(笑)。私も、兄貴なんかにからかわれることがあるんです、「お前はすごいよ、エンピツと紙だけだから」って。得能さんとは、まるで意味が違いますけど(笑)。

同じこと(笑)、要するにエンピツと紙だけなんです。そうでしょう。それで、出来上がったような満足感をね、受けて、やっているわけです。これが非常にハッピーなんです。
そしてね、昔の兵学校の時からの友達とつきあい、色んな友達をこしらえて、自分の人生を出来るだけ楽しく過ごして行けるように、まあ、努力はしようと思っているんです。

−−何か最近も、海軍兵学校のグループで旅行とか。

山陰旅行に行って来ました、家内も一緒で。そうやって、みんなとこう、業種の違う連中、リタイヤした連中、まあ、ほとんどがそうですけど、そういうことをやることによって、自分の人生の豊かさといいますか、私は前からみんなにもよく言っていたのですけれど、地位や名誉やカネは、その人間の豊かさじゃないっていうんです。如何にいい友達をたくさん持つかというのが、その人の豊かさだとよく言うのです。本当の友だちを、ね。
だから、その人の評価というのは、その人が死んだときに、はじめて分かるんです。

−−棺を覆うて、ですね。

私は、まあ色んな人のために、これからも色んなことをやりながら、紙とエンピツだけですけれども(笑)、世間に発表し、あれをし、それが評価されようが、されまいが、どうしようが、やって行こうかなと思っているんです。

−−得能さんは、本当に不思議な方で、もともと技術屋さんじゃなかったんですよね。

潜水艦乗りです。

−−そうですね。それが技術を心掛けられて、普通は技術を心掛けても、そんなのが出来るはずがないんですけれど。

だから、私は、よくみんなに言われましたよ。TAPPIで表彰を受けたときも、お前はネーヴァル・アカデミー(海軍兵学校)を出て、これこれこうで、工科大学を出たわけでもないのに、こんなにパテントを申請したりして、ホントにお前のパテントかと、私を怒らせるような質問をするわけです。それと同じように、私に対する評価というのは、あれは技術者じゃないと、そういう評価は大きいですよね。
いや、それはその通りだと思うんです。私も自分で技術屋だとは思っていないんです。だけど、いまの技術屋とか技術というのは、意味が違うと思うんです。

−−エジソンも、別にマサチューセッツ工大を出たわけじゃないんで(笑)。<

いや、だから私は、いまの技術屋は、いかに知識があるか、色んな機械のことを知っているかというようなもんで、そりゃあもう難しい方程式を解いて、こうやっているのも技術屋かも知れんけど、それは技術屋の職人ですよ。本当の技術屋っていうのは、そうじゃないと思うんです。世の中の流れや、色んなことを頭に入れながら、どういう機械が一番扱いやすいかとか、どうとかというのがね、それが技術屋だと思うんです。
だから、私は決して自分が技術屋だとは思っていないし、私は趣味の部類ですから(笑)、こうやったら、もっと簡単になるなというような問題とかね。
それが評価されようがされまいが、どうということはないんですが、たまたまウルトラフォーマーにしても、誰もやっていなかった初期の第二世代の段ボール機械にしても、スリッタースコアラだ、フィンガレスだ、スプライサーだ、ナイヤガラスタッカーだ、あれだ、これだいうて、ダーッとやったもんだから、いやあ凄いと思われているだけです。ひとがやる前に駆け抜けただけでね(笑)。

−−だけど、まだ駆けていらっしゃるわけでしょう(笑)。

まだ、駆けているんです(笑)。

−−駆け抜けて、それでまだ駆けているんだから、すごいですね(笑)。

そういうことが、やっぱり自分の人生観だと思っていましたからね。

人生観を表に出し、仕事に反映して

−−段ボール業界関係でも、よその世界でも同じだと思いますが、得能さんのように、「発明者」という言葉を使える人というのは、そう滅多におりませんですね。

みんな勉強しないからです。

−−発明も、ある程度は量的な、たとえば一つぐらい発明しただけじゃダメでしょうし(笑)。

いまの会社というのは、ぜんぶ画一的に、サラリーマン化しちゃっているんです。だから、発明家が育つような、そういう雰囲気にはないと思いますね、社長以下、全部です。

−−しかし、産業の発展のためには、どんどん発明家が出て来なくちゃいけませんが。

あらゆる分野でね。これは、どっちにしても仕様がないと思うんです。
まあ、どこの機械メーカーでも、そういう人が幾らでもいて、また会社の方もなんぼでもやらせようとしていると思うんですが、ただ、そういう人も、悲しいかな、原材料の紙のことを知らない、段ボールの製造を知らない、機械のことだけはわかっている、だから時間かかるんです。
また、私らみたいなバカはいないから、こうと思ったら、よし、やろうという、そういう環境にはないでしょう、いまは。そういう環境は、段ボール会社にもないし、機械メーカーにもないです。

−−それを考えると、悲観的にならざるを得ませんね。海軍兵学校がなくなって、瞥見視力を教えてくれるところがないし、いけいけどんどんの斉藤知一郎さんもおられないし(笑)。

そういうカネを使わしてくれる人がいないです。どこだってそうでしょう、開発のカネをしぼられますもの。それに、失敗したら怒られるから、失敗できないとなると、勢い、ドーンと行こうなんてことが出来ないでしょう。
段ボールメーカーにしても、うちでヨソのやらないやつを考えろなんてことにはならないです。たまたま、私はいい星の下に生まれたといいますか、いい社長に仕えたわけですよ。その昔の創業者のような、ですね。

−−コートボールでも、しくじっても、しくじっても、やらしてくれる人がいないと、ですね。

そう、いないですよ。それをやらしてくれたのは、知一郎社長であり、レンゴーの加藤社長だったと思うんです。あれは、加藤社長が来ていなかったら、私は全く出来なかったと思うんですよ。いまでも、そう思います。
長谷川社長も、陰になり日向になり、バックアップしてくれましたが、それ以上に加藤社長のバックアップはすごかったんです。まあ、加藤さんがレンゴーに来られなかったら、私は全然何も出来なかったと思うし、みんなの予想通り(笑)、三年か四年でサヨナラして、辞めていたと思うんです。100%そうだ、と私は思いますね。

−−やっぱりそうだった(笑)、なんて言われてですか。

みんな、そう言っていたんです。お前はせいぜい三年か、四年や(笑)。だけど、加藤さんに会えたということで、二十五年もいられたし、これだけのことが出来たというのは、私は一生忘れませんし、恩義に感じています。

−−加藤さんは、人物の見抜き方というか、どういうんでしょう、やはりウマが合ったんでしょうか。

ウマが合ったんです。人間というのは、そういうもんですよ。どういう人でも、そういうめぐり合わせというのがあると思うんです。それが、たまたま、私の場合は加藤さんだったということでね。そういうめぐり合わせに生まれた人というのは、ずいぶんありますよ。

−−加藤さんは、大昭和時代の得能さんの仕事ぶりやなんか、ご存じだったんでしょうね。

全く知らないと思うんです。ところが、こっちに来るについて、加藤さんがヒョコッと言ったことがあるんですが、十条の金子さんとは知っていたらしいんですね、面識はあったらしいんです。ですから、そういう人に私の話を聞いた、いや、得能君はすごいよという話を聞いたということを、ちょっと言ってましたが。

−−そうですか。

「お前のことは、十条の金子さんによう聞いているよ」と言ってましたから。

−−その程度の知識だったわけですか。

そう、だから、「お前、レンゴーの将来について論文を書け」と、こう来たわけです。私は一生懸命書いたんです。だから、そういう人生観と言いますか、そういうことを、きちっと考えていませんと出来なかったでしょうね。加藤さんも、よほどフンドシを締めてやれいと、こう言ったと思うんです。有難かったです。
「お前はいい」というんです。「普通の技術屋は、説明に来ても、オレに分かるようには説明しない」と。東洋製罐の時も、優秀な技術屋でも、いざ説明してくれというと、わけの分からない難かしいことしか言わないけど、お前の話を聞いていると、全くよう分かるというわけ。

私は、まわりくどい話は嫌いなんです。こうやって、こうやってこうと卑近な例を挙げて、だからこうでしょうと言うと、ああ、そうだなと、パッと許可を出したという具合で、「お前の話を聞くとものすごく簡単だ。どんな新しいことでもよく分かる」と言ってましたね。
だから、時々、ややこしい問題があって、機械の間題でヨソの会社で聞いて来て、「おい、得能、ヨソの会社でこういいよったけれど、どういう意味や」いうて私に聞くんですが、いや、社長、それはこれこれこうでと言うと、ああそうか、そんな簡単なことか、なんてね。
やはり人に説明する時は、分かり易く説明しませんとね。ですから、こんどのインタビューでも、わかり易かったでしょう(笑)。

−−ええ、みんなよく分かりました。技術の問題が主要なテーマのはずなんですが、もちろんその面白さは別にして、より以上に人生とか、生き方というものを考えたというような、そんな感じがあります。

だと思いますよ。私は、それを表に出して話をしていたんです、自分の人生をさらけ出してね。人生観即仕事ですもの。人生観が仕事に反映されないと、その人は不幸だと思います。
ということは、自分を殺して生きているということですから、それでストレスがたまるわけです。途中で病気になっちゃったりもするんです。ストレスがたまらないように、銀座だ、新地あたりで飲むから、なおさら肝臓やら、胃をこわして色々するわけです。

だから、自分の人生観を表に出して、人生に合った仕事をして行くということは、本人のためでもあるし、そういう風に持って行くというのは、会社のためにもなることでね。私はそう思います。

−−だけど、どなたにも出来ることではないんで、とにかくすごいなあと、自分の及ばなさを改めて考えさせられたような(笑)。

いや、そうじゃなくてね、私はいま段ボール会社に勤めている技術屋さんにしても、みなさんに、自分の人生観を表に出して仕事をして貰いたいと思うんです。それが、会社のためにもなるし、自分のためにもなると思うからです。
誰でも、いずれは死んで行くとか、定年で去って行くかするわけです。人間ですから、所詮は終りのあることですね。それを精一ぱい生きる、その努力をすることが、誰にとっても一番大事なことではないでしょうか。(「連載編」おわり)