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得能正照自叙伝「発明街道」

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第6章 海外との交流

TAPPI賞
TAPPI賞

世界初のオートスプライサー
世界初のオートスプライサー

海外交流記録ノート
海外交流記録ノート

−−これが得能さんが話しておられた海外旅行日誌ですね。誰も、実際に自分の目で見ないと信じられないでしょうね。写真に撮って、みんなにお見せしないといけませんね。

いや、いつもは倉庫にしまってあるのを、亘理さんにお見せしようと思って、今朝からみんな出して、整理して、こう並べてみたわけです。
これが、第1回から7回までのノートです。1回、2回、3回と、これが第5回でしょう。こういうように海外旅行のたびに、7回目までは、同じ種類のこんな大きいノートにまとめて書いていたのです。

−−こんなスゴイ記録が残っているなんて、信じられませんね。

第1回というのがこれです。

−−朝日製紙のときですね。帰ってきたら、クビになっていたという(笑)。

そうです(笑)。第1回目の渡航は昭和29年3月です。第1回は1と2の二冊あります。こっちは機械メーカーのことが書いてあって、これは製紙工場です。このように、会った人の名刺はそのまま貼ってあるし、古紙処理はどういう風にやっていたとか、こういう紙を作っているとか、研究所はどうだったとか、そういうのをみんな書いているんです。
その時の状況ですね、こういうフィルターを使っていたとか、そういうことを、みんな記録しているんです。こちらは機械メーカーです。こういう会社へ行ったんです。

これは製紙メーカーでもらってきた色んな資料です。どういう機械でやっていたとか、どういう所をどうやっていたとか、ワインダーはどうだったとか、そういうことが全部書いてあるんです。
これで私は、日本が如何に遅れているかということが分かりました。これはBKPですね。こうやった、ああやったというのを書いています。そのとき、初めてディンキング(脱墨)ですね、アワでこう浮かすやつを見ました。日本では誰も知らなかったんです。

それから、デンバーへ行きました。デンバー・イクイップメント・カンパニーです。そこへ行ったら、「クラウンゼラバックに、こういう機械を入れます。世界で最初の機械だから、それを見に行きなさい」というんです。
だから、そのあとクラウンゼラバックに見に行ったんです。その機械で、私も一緒に作業して、サンプルを作ったんです。オールド・ニュース・プリント(ONP=新聞古紙)で、マガジン(雑誌古紙)を10%入れて、ディンキングすると、こうなりますよという、これがその時の製品見本です。

その研究所で、みんなと一緒になって、第一回の実験結果を自分でまとめました。これが、そのときのディンキングのデータです。
この機械を、日本で初めて、大昭和がバッと入れたんです。クラウンゼラバックが一番最初です。大昭和は三番目でした。

−−昭和29年か30年ごろですか。

30年ごろです。私が実際に向こうで勉強したものですから、このクラウンゼラバックの機械は、ディンキングをどうやって、こうやってというフローを全部書いて、非常に大きな成果があったわけです。昭和29年ごろ、これを知っている人は、私を除いて、世界でも非常に少なかったと思うんです。クラウンゼラバックに行って、見て、初めて日本に持ってきたんです。当時の日本では、こういう古紙の脱墨の方法など、誰も知らなかったんです。

−−得能さんは、会社の命令で、会社で費用を出してやるから行けと言われて行ったのではないわけでしょう。外貨事情も今とはまるで違う昭和29年に、自分がこうだと思って、自分の費用で、まあ、お父さんに出してもらったにしても、一人で出掛けて行くというところがスゴイですね。信じられませんね(笑)。

そういうことを、この第1回目にやったんです。そのときのこれで、私は、もうすっかり感激しちゃったんです。7回目までは、こういう同じノートを使ったんですが、7回目のノートに、こういうことが書いてあるんです。つまり、第六回の準備の時に、手続き資料はこういうものが必要ですということで、海外への渡航歴を書き出しているんです。

これですね。読み上げますと、昭和29年3月6日から4月5日まで米国に行きました。同行者なしです。昭和31年6月9日から8月26日まで米国及び欧州へ、私自身は2回目で、大昭和の社長に労働組合の委員長に世界を見せて来いと言われて、渡邉という大昭和の労働組合の委員長を連れて、伊藤忠の秋山氏と一緒に、2カ月半もアメリカ・ヨーロッパを歩いたんです。長旅でうんざりしました(笑)。その資料も全部あります。
3回目は、昭和35年6月22日から8月18日まで、社長に言われて、知一郎さんの三男の斉藤孝さんと伊藤忠の西松さんと三人で、アメリカとヨーロッパを、ぐるっと回りました。ローマ・オリンピックの年のこの旅行の顛末は、前に述べた通りです。

−−例の瞥見視力も、この時ですか(笑)。

そうです(笑)。それから第4回目が二年後の昭和37年3月9日から4月14日まで。これは臼井というのを連れて、アルミ箔やなんかを板紙に貼るラミネーターを買いに行ったんです。それから、5番目に行ったのが昭和38年9月30日から11月4日まで米国と欧州で、伊藤忠の西松・関の両氏と、小林製作所の社長の弟の小林市郎、山田芳信の二人を連れてずーっと回ったのです。
6番目が昭和41年4月17日から5月20日までで、この時は、ウルトラフォーマーを開発したので、ウルトラフォーマーの資料を持って、伊藤忠の関氏とアメリカ・ヨーロッパを説明して歩いたんです。そのときは、まだアメリカ・欧州ではウルトラフォーマーに全然関心がなかったんです。

そして、昭和42年の4月20日から6月9日まで、小林製作所の小林忠社長と、ウルトラフォーマーのカタログを作って全世界を回りましょうと言って、フィリピンからオーストラリア、ニュージーランド、アメリカ、ヨーロッパから南米まで、サンプルを持って、もう世界中を全部回ったんです。それが、7回目です。

ウルトラフォーマーを世界中に売り歩く

−−この時ですね、レンゴーのOKを取って、天下御免でウルトラフォーマーを売りまくったというのは。

そうです。1台売れば、小林がこれだけレンゴーに払うという契約で、私は、それに基づいて出張しました。こういう図面を書いたり、ウルトラフォーマーの品質特性はこうですよ、運転特性はこうです、それで、こういう風な機械ですというような説明書を、みんな、その当時にこのように作ってファイルしてあるわけです。

ヘッドボックスは、こういうスピードで、こうなりますというのを、みんな、向こうの技術屋さんに説明するんです。だから、ぜんぶ自分でこういうように書いて、それを持って説明して歩いて、一般用のやつはこうやりますとか、こういうのが、今でも私のところにいっぱい残っているんです。
裏の配管関係はこうやったらどうですかとか、みんな図面が書いてあって、こういう計算表なんかは、まだ全部利用できると思うんです。
こちらはウルトラフォーマーの運転要領です。マシンを入れたときに、こういう風に運転するんですよという運転要領を、細かく20何項目にもわたって、ずっと並べて書いたものです。これを英文にして、向こうの連中に教えるわけです。運転上の注意事項、こっちがその英文です。こういうことを教えなければならんわけです。

この綴じ込みは、アメリカの雑誌に載ったウルトラフォーマーについての記事です。こういう海外の新聞・雑誌の記事も、ある程度とってあるんです。
この切り抜きは、向こうの人が、自分の工場に入れたウルトラフォーマーの説明をしている記事です。みんな知った人ですけど、もうリタイヤして会社にはいません。だから、一番最初はどこに入れて、こうという資料が全部あるんです。どこに入れたときには、何月何日にどういうように試運転をして、どうだった、こうだった。それが全部、書いてあります。
これが7回目までの記録です。7回目までは、この同じ大きなノートに書いたんです。7回目までの資料は、まとめてこの中に入っています。昭和29年の最初の時のノートが、製紙工場と機械メーカーと二冊に分けて書いてあるので、合計では八冊になっているんです。

それで、8回目からは、もうこんな大きなノートではとても厄介だから、この三井物産の手帳に変えたんです。8回目から、ナンバー第186回目まで、こういうように、同じ大きさの三井物産の手帳に統一して書いています。
その時、その時のことが、この中に何でも全部書いてあります。ですから、いつ、どこで、どうしたかと言われたら、はい、南アフリカではこう、ヨーロッパでは何月何日にどこで誰とどういう話をしましたという具合です。まあ、アメリカ・ヨーロッパが多いですけれど、南アフリカに一番最初に行ったのはこれ、昭和55年です。ヨハネスブルクで、これこれこう、エネルギーコストがこうなるというような説明をしています。
昼飯は誰と食べて、ダチョウの卵のお土産を貰ったとか、もう全てにわたって出ています。それで抄紙機はどう、コルゲータはどうだったとか、ホテルで土産物をショッピングして、女房に何を買ったということまで書いてあります(笑)。

あとは、これに対して、写真がありますね。写真も、もの凄くあるんです。それも全部整理して、地下室に置いてあります。
ですから、私の海外との関わりはどうかと訊かれても、いますぐ、何からどう話したらいいのか、さっぱり分からんのです。

−−ポイントが絞りきれないわけですね。

まず何から話すかですが、まあ、質問していただいて、そういう中からだんだん思い出しては、適当に資料を持ち出して、お話しするほか無いでしょうね。
例えば、アメリカの連中と私がどうして親しくなったかという一番最初のキッカケは、先ほどお話した通り、小林忠さんとウルトラフォーマーの説明に行きましたね。その第7回目の海外渡航で行って帰ってきたら、ボックスボード・リサーチ・ディベロップメント・アソシエーション(BTDA)という業界団体があるんですが、伊藤忠が、そのBRDAに話をして、BRDAのメンバーであるCCAとか、クラウンゼラバックとか、色んな板紙会社の7社がまとまってウルトラフォーマーを見に来たんです。井出製紙に入れたのと、レンゴーに入れたのがもう回っていましたから、チームを組んで、それを見に来たんです。

これが、その時の写真ですけれど、歓迎パーティで、「ウェルカム・メンバー・オブ・BRDA」と書いてあるでしょう。

−−ええ、これは加藤さん(当時レンゴー副社長)ですね、長谷川さん(同専務)、山野さん(同社長)、それから得能さん(同常務)ですね。

そうです。このときBRDAの連中が大勢来たんです。見に来て、みんなビックリしたんです。「よし、それじゃオレたちは買う」と言って、小林からどんどん買い出したんです。これが一番最初のチームを組んで来たときの様子です。
この連中が来て、加藤さん主催のパーティをしました。そのときは、小林の社長をはじめ、みんな来て、にぎやかなパーティで、海外に船出して行く、そういう面白さがありました。

−−これが皮切りですね。

そう、これが皮切りだったんです。日本の初めての製紙機械をどんと海外に輸出した皮切りです。それで、第一回のマシンをオーナーウォルドルフという会社に入れたんです。その写真もいっぱいあるんですが、オーナーウォルドルフは、どうでもウチが先に入れたいというので、仕様がなくて、契約が一番先だったCCAより早く入れたんです。
これですね、セントポール・ミネアポリス、ミネソタ州です。ここに入れたんです。それで私がこの工場に出向いて、試運転をやったわけです。
3日間ほとんど寝ないでです。ところが、小林の連中はよう運転できないんです。みんな運転しないで、私にやれと言うもんだから、私は3日間、マシンのそばにソファーベッドを持ってこさせて、そこで寝ながら、試運転をしたんです(笑)。

その試運転をやる1日前、日本の団体が見に来たんです。みんな、何のために来たのか、よく分からないんですが、30人ばかりの日本人のチームを、オーナーウォルドルフの幹部が引き連れて、カメラを持ったりなんかして、前をとっとこ、とっとこ通って行くんですよ。私たちは、試運転の準備だとか、機械の整備をやっている真っ最中ですからね。そのとき、一言の挨拶もないんです、日本人たちが。
それで、ぞろぞろと行ったあと、私の通訳だった伊藤忠の係に、「オイ、あの団長を連れて来い」と言ったんです。彼がだっと走っていって、連れてきたんで、「私はレンゴーの得能という者だが、私が開発した初めての日本の機械を、アメリカに初めて入れて、初めて運転しようとしているんだ。それを、挨拶もなければ何にもないで通られるというのは、一体どういうことか」と言ったんです。「私は、最初はあなた達は日本人じゃないと思った」とバッチリ言ったら、団長が最敬礼して、「申し訳なかった、あなたが得能さんですか、お名前はよう存じ上げております」ということでした。

−−どういうチームだったんですか。

それがね、よく分からないんです。製紙関係のチームだったんだけど、九州か、どこかのチームだったようです。結局、分からんじまいでした。アタマに来て、怒鳴りつけたんです。それが、海外に出した第一号機でしたが、そのあと続けざまにCCAだ、ミシガンカートンだと、一斉にどーっと来たんです。
私は海外で勝負しているわけで、日本は、もう対象にならないですから。日本で勝負する気はさらさら無かったですね。

−−その頃は、日本ではレンゴーと井出製紙だけだったんですか。

いや、そうしたら日本でもばんばん入れ出したんです。それで、小林があれだけの大きさになったんです。どんどん大きくなったんです。
その頃のノートが、どこかにあるんですが、まだよく探してないので、すぐには出てきませんね。あんなに沢山あるから(笑)、見切れないんです。それでまあウルトラフォーマーのために向こうからどーんと団体で見に来て、それを契機にどんどんウルトラフォーマーが出て行ったのです。

−−その頃の2〜3年で、海外向けに、どれぐらい売れたんですか。

いや、もの凄いんです。間に合わないぐらいでしたから。それで、BRDAが来たでしょう、そして、みんなが「よし、買おう」となって、ほとんど全員が買いました。それからどんどん入れ出したら、さらにワアワアとブームみたいになって、例えばCCA自体では何台でしたか、最初に私が1台入れて、それから続けて4〜5台入りました。

−−その頃に入れた機械というのは、その後に更新されているんですか。

そりゃあ、新しいタイプにどんどん変わって行きました。
ただ、向こうに行ったとき、小林の連中なんかは、運転のやり方、この機械のオペレーションをどういう風にやるとかということを、向こうによう伝えないんです。言葉の問題もありますが、機械メーカーは、機械を作るだけなんだ、みたいなんですよ。

−−オペレーションは専門じゃないんですね。

全然ダメなんです、作る方だけで(笑)。私に言われて、こうやって、こうこういうように作るだけで。それで、運転はどうやるのか、試運転はどうやって行く、毛布はどうだとかということは全然知らないのです。だから、私が行かないと運転もできないんです。その上、レンゴーの作業員の連中も全然出来ないんです。
全然出来ないですから、私が行かなければならない。だけど、行くためには、レンゴーにロイヤリティを払って貰わないと困るんです。それで、小林さんにレンゴーとの間に実施契約を結んでもらって、それで、私は向こうのオペレータにどう運転するかとか、技術屋にどういうところに注意しろ、どういう風にやるんだ、ということを英語で教えこんだわけです。

−−現場の人たちに、ですね。

そういうときの英語は、私はある程度は分かりますけれど、やはり、きちっとやらなければならないから、そのとき「よし、出来るだけ良いノートを買おう」と思って、こういう皮表紙の、すごく立派なノートを二冊買って来て、記録することにしたんです。
これは昭和42年11月15日に、レンゴーと小林製作所がウルトラフォーマーについて、こういう契約を結んだという内容です。そうでないと、私は動けなかったんです。

「あの人は小林から適当にカネを取って、全部やっている」なんていうことを言う人もいましたけれどね。実際は、こういう契約を山野さんと小林さんが結んで、「有効期間は自動的に一年ずつ延長されます」ということで、こういうロイヤリティーを払うという契約を結んで貰って、それから私が行きだしたんです。

−−昭和41年に海外に説明に行って、反響が大きくて、7回目の42年からいよいよ本格的に輸出を始めたという経過ですね。レンゴーと小林の間に、この契約も出来たし。

そうです。それで、こういう様な図面を描いて、コピーを取ったり、ウルトラフォーマーの特性はこうだとか、いろいろ、そういうことをまとめて、向こうの人を教育しなければならないわけです。こういうのを、私が自分でみんな書いて、こういう風になりますよと、教育するんです。シリンダーの後のこっちは、こういうふうな形でやりましょうとか、こういうのは、みんな、あの当時に書いたものです。

−−向こうの人たちは、なぜウルトラフォーマーに飛びついたんですか。

それまでと、逆だったからです。

−−発想の転換ですね。

ええ、いままでは毛布が上で、それに下から紙料をくっつけているんですから、ボタッと落ちることがよくありました。だから、マシンが止まったり、トラブって、どう仕様もないわけです、下が汚くて。それをいままでと逆にして、毛布の上から紙料を流したら、すーっと行っちゃうもんだから、アメリカに1台入れたら、みんなそれを見に来て、ビックリして、ウチも入れると、こうなったわけです。それまでは、毛布の下に紙料をくっつけていたわけです。それを、毛布の上に紙料を付けるように、逆にしちゃったんです。だから、落ちようがないでしょう、毛布が支えていますから。

−−前は、ボタボタしていたわけですね。

前は、毛布が上にあって、丸網が下を回っていて、紙料を毛布にくっつけるけど、時々ボタッと落っこちるわけです。すると、マシンを全部止めて、やり直さなければなりません。

−−しかし、なぜそんな、初めから毛布の上に紙料をのせればいいのに。

みんな毛布が上だったんです(笑)。だから、こういう、ウルトラフォーマーの運転要領ということで書いて、英文にして、それをみんなに教えて、注意事項はこうですよというのをコピーして、オペレーターに渡して、一つひとつ説明するわけです。毎日、それを自分でやってきたわけです。これは43年の8月ですね。もとの文案を日本語で書いて、それを伊藤忠に英文に直してもらって、こういうことを全部一人でやったんです。

そりゃあ、面白かったですよ。時間がないから、徹夜してやったと思うんです。
それで、これはBRDAのA.T.ルイという人が、向こうの雑誌に寄稿したウルトラフォーマーの視察報告です。「ジャパニーズ・ペーパーボード・ミル・ウルトラフォーマー」ですね。
1967年に来たとき、彼は、ミシガン州カラマズーにあったBRDAの親玉です。そのとき、彼がみんなを集めて連れてきたんです。このレポートは、BRDAのメンバーで日本に来なかった人たち、来た人たちもですけれど、彼らのメンバーに写真入りで、ウルトラフォーマーについてレポートしたものです。

その最初のレポートがこれです。非常に良いことが書いてあります。ハイスピード・ウルトラフォーマーはこうやっている。こういう当時の資料は、もうだれも持っていないと思うんです。こういうものも、私はいまでも全て保存しているんです。
これが、ウルトラフォーマーが世界に出ていったときの、一番最初の記事です。それで、途中で出なくなったのは、次のを出さなかったからです。私も、段ボール関係で忙しかったし、しかし、今度また製紙の方に切り替えて、「タイガーフォーマー」をやりだしたわけです。タイガーフォーマーはこれからですよ。

−−ウルトラフォーマーが、こう前に出て行っているから、その後継機として、いくらでも次の機械を出せたわけでしょう。

高度成長期だったら、ウルトラフォーマーで良かったんです。だけど、いまは、もうウルトラフォーマーの時代は過ぎたんです。こういうふうに何台も、何台も、これだと7台も上につけるようなタイプは、ですね。せいぜい5台、いや4台で充分というような、コンパクトで、一層当たりの付け量が200gといった多い付け量で、地合が良いということが可能になったのが、「タイガーフォーマー」なんです。こういうものでないと、もう時代遅れです。
だから私は、ウルトラフォーマーには、もう興味はありません。だけど、これだけの資料を作ったから、前へ進めたわけです。これが、いままでの全体の状況です。

−−とにかく、凄いですね。

全部取ってあります。最初のころの写真も、何もかも全部です。

−−やはり、こういうことは、実際にご自分でやった方でないと、本当の醍醐味というんですか、それが分からないでしょうね。

そう、機械を作るだけじゃ、ダメなんです。運転も教えないとダメです。運転はこうやるんですよというところまで、セットでやらないと、機械は伸びて行きません。

−−朝日製紙以来、現場もおやりになったからですね。

2年間、昼夜運転の、職工をやっていたんです。若いときのそういうことが、もの凄く大事なんです。誰だって、若いときに下積みの一番大事なことをやって、身に付いているから、いまの仕事が出来るんです。みんなそうですよ。
それで、ウルトラフォーマーはもう終わったけれど、次のを、ここに書こうと思って、こうして、前の資料の後ろのスペースを空けてあるんです。これ、すごく良いノートでしょう。

−−豪勢なノートですね。だから、これからは、「タイガーフォーマー」なんですね。

そうです。まあ、海外はBRDAを中心に製紙の関係をだーっと進めましたね。それと、もう一つは、タッピー(TAPPI=テクニカル・アソシエーション・オブ・ザ・パルプ&ペーパー・インダストリー)です。私が、段ボール関係のTAPPIに初めて出だしたんです。
TAPPIで、欧米のみんなと知り合いになって。ですから、前に話したミードへは、最初は製紙の関係で行ったんです。当時は、ウルトラフォーマーの問題もあるし、製紙の関係で、来てくれ、来てくれと言うもんだからね。

それで、加藤社長と一緒にミードに行ったところが、製紙を見てくれというから、製紙をちょっと見て、製紙のシャワーの位置とか毛布の取り方とか、悪いところがいっぱいあるから、みんなに図を描いて教えてやったら、お前、スゴイっていうわけ。その時です、ミードの社長にも、「ウチへ来ないか」と誘われたのは。
その時、スチブンソンがミードの段ボール関係にいたんです。そこで、初めてスチブンソンと会って、知り合ったわけです。スチブンソンが、「トクノー、お前は凄いなあ」というんです。そして、スチブンソンが、自分の段ボール工場に連れていってくれたんです。

ずっと後の話になりますが、1978年に私がTAPPI段ボール部門賞(ベッテンドルフ賞)を受賞しましたね。その翌年、79年の受賞者が彼、ジェームス・F・スチブンソンなんです。初めて会ったその時、「お前のところでは、これからどんなことをやろうとしているんだ」と訊いたら、「スプライサーをやりたい」というんです。「段ボール工場には、もうスプライサーが入っているところがあるのと違うか」と言ったら、スプライサーのカタログ、これはターンオーバーのミルロールスタンドのスプライサーですが、その当時のカタログを私に見せてくれたわけです。
それで、私は、「ちょっと待て、ターンオーバーのミルロールスタンドだけじゃダメだ」ということで、それから開発を始めたわけです。

これです。これが、ターンオーバーのミルロールスタンドのカタログです。そのとき、ビックリしたのは、これは原紙の先端みたいに、こう斜めに切ってあるんです。これが世界で最初のスプライサーなんです。このカタログを、私はいまでもこうして持っているんです。これはかなり古い、昔のものなんです。
それで、ターンオーバーのミルロールスタンドだけじゃダメだから、私が帰ってすぐ新しい普通のやつをやるとスチブンソンに約束して、始めたわけです。これの開発過程というのは、もの凄く沢山あるんですけれども、それをいうと、まあ、非常に面白い話なんですけど、話が長くなり過ぎちゃうと思うんですよ。

それまで、スプライス(紙継ぎ)というのは、みんな手で糊をつけて、巻取原紙の端をこうして手作業でつないでいましたから、それを自動化したというのは、もの凄い新技術だったんです。
そして、出来たから、スチブンソンに教えたんです。スチブンソンが日本に飛んできました。レンゴーのスプライサーを見せたら、ビックリしちゃって「これはスゴイ、オレもやりたい」というわけです。「いや、これはもうやるな。まだ新しいものが次から次に出てくるから、もうちょっと待て」というようなことがあって、スチブンソンと非常に親しくなったんです。

それで、スプライサーから始まって、フィンガレスシングルフェーサ、カットオフとか、ああいう新しい機械の開発をやりだしたら、スチブンソンが、アメリカの彼の友だちを全部連れて、ドカーンと日本に来たわけです。それがね、これまたいっぱい写真があります。
スチブンソンは、CID視察団の主催者ですね。あれから間もなくミードを辞めて、昭和47年2月に、最初は一人で日本に来ました。これは、その時、彼を大阪のてんぷら屋に連れていったときの写真です。新しい機械の考え方なんかを二人で話したんです。これが彼が日本に来た最初ですよ。

そのあと、副社長だった加藤さんの関係でコンチネンタル・キャン、東洋製罐の提携会社ですね、それの段ボール部門の連中が来ました。アメリカで、スプライサーだ、フィンガレスだなんだと、日本での色んな技術開発の話題が盛んに伝えられて、すっかり有名になっちゃったから、伝手を頼って大勢で見学に来たわけです。
それから、ACBMという名前で47年12月7日に豊橋工場に来たんです。この時は、スプライサーから、スリッタースコアラから、カットオフまで、全部出来ていましたから、ACBMチームがワッと見に来たわけです。

−−ACBMが来た最初ですか。

そうです。それで、みんな仲良くなって、お互いにあだ名を付けっこをしたんです。そのとき、ACBMの連中の誰かが、写真を撮ったんですが、私はタバコをのんでいて、手をこう上に突き出していたんです。それをジョークで、「お前はタイガーだ」というあだ名を付けられたんです(笑)。

−−「ミスター・タイガー」は、このとき以来ですか。

そうです。昭和47年12月7日、豊橋工場にみんな来て、スリッタースコアラから何から全部見せたんです。ここにみんないるでしょう。これは、12月12日にレンゴーが開いたACBMの歓迎パーティの写真です。これが、みんな友だちです。これがスチブンソンです。ACBMの第1回目の時です。このとき、みんなであだ名を付けたんです。こういうように、47年ごろから外人がバンバン見学に来ていました。

そういうような、面白いことをやったわけです。第2回目のも、どこかにあると思います。これはイギリスの連中が来たときですね。もう、年がら年中、世界中から来るんですよ。これはサイモンです、サイモンが提携するといってきたときです。

−−日の出の勢いでしたね。

それで、みんなとますます仲良くなりました。また、アメリカの連中が来るたびに、TAPPIへ来いと誘うから、それから毎年、TAPPIへ行きだしたんです。
ちょうどそのころ、ダイレクトカットオフのDDSRを開発して、レンゴーの工場に入れて非常にうまく行きました。そのDDSRについて講演しろと言うから、TAPPIで講演しましたが、そのとき、私の話はウソだと言うんです。「お前、ウソを言うな」というから、私もアタマに来て、「ウソだと思うなら、日本に来て自分で見てみい」と言ったら、また大勢で集まって来ました。

DDSRを見てみんな本当にビックリして、それもすぐ買いだしたんです。それで、また世界全体に輸出が大きく伸びたんです。ところが、日本リライアンスのパテントの取り方が悪かったんですね。だから、相当後になってからですが、日本リライアンスのパテントを外れて、真似をするのがボンボン出てきたんです。そういう歴史があります。

−−パテントの取り方が悪かったんですか。

そう、悪かったんです。

−−ということは、海外では確立していなかったんですか。

いや、海外にも出したんです。ところが、みんなパテントの取り方、押さえ方が悪かったんです。というのは、それに類するものに、製鉄関係でパイプの切断だとか、色々ありました。それをリライアンスの場合は、回転の方向に変えただけですから、だから、結果的には、パテントの取り方が悪かったんだと思います。そのころ、色んなところから講演を頼まれて、新しい開発機械の話をしました。

これが、TAPPIやICCAなどで講演したときの日本語の原稿や、英語に翻訳した元々の資料です。大体全部残っていると思うんですが、これはICCAの第一回目のアテネの会議、1979年の最初の会議で講演したときの講演内容です。いまから20年前です。その頃に話したことですが、いまと余り変わらないんじゃないですか。みんなが「やれ」と言うから、仕様がなくて話をしたんですが、みんな話を聞いてびっくりしちゃったんです。

こんな資料が、いっぱいあるんですよ。一番最初にスマーフィットに教えた資料も、この中にまとめて、随分あります。
そういう、むかし海外で対外的に発表した文章だとか何とかというのは、全部、このファイルに揃っています。良かったか、悪かったか、どうかは知りませんけれど、もうどこへ行っても説明せい、説明せいといわれましたね(笑)。
これは、スマーフィットのいまの会長です。教えたわけです。運転のやり方だとか、みんな教えたんです。昭和49年ですね。これはインターナショナルペーパーの社長です。こちらは加藤社長のお嬢さん、こっちが家内です。京都で一緒に行って食事をしたんです。

−−世界中の重要人物が来ているんですね。

第2回目のACBMのころは、年がら年中、世界中から人が来ていましたから、こういうように、写真で見て、確かめていかないと、ハッキリは思い出さないんです。
これは南アフリカの会長です。みんな南アの連中です。みんな製紙を見に来たり、段ボールを見に来たりして、非常に親しくなってね、いまでもこの人とは付き合っています。南アに行ったら、彼の家へ行ったりします。こんな、ヒゲを生やしたりして、よく遊びました。こういうことが、随分、彼らと親しくなるキッカケになりました。
この人は、ラングストンの社長です。

−−ミスター・ラングストンですか。

いや、その次の社長です。この人は非常にいい人でしたが、彼が辞めたあと、経営者がダメになってしまって、それで関係を打ち切りました。この人は、ものすごくいい人でしたね。
これは大坪さん。いまは、住友商事のヨーロッパ総支配人です(※現レンゴー社長)。

それから、これは台湾の正隆の人たち。台湾の正隆は、本当に立派な会社になりました。いまでも兄弟のように付き合っています。
正隆は、今年の6月が創立40周年なんです。記念に何か書いてくれというので、この間、正隆との交流の歴史はこうだったということを書いて、郵送しました。これがそうです。

−−何月何日にどうした、こうだったというデータが、全部残っているんですね(笑)。

全部残っています。日記帳を見たら、全部書いてあるんです。それだけのことをやってきているんです。台湾の正隆には50何回も行っているんです。

−−土曜・日曜によくお出かけになった話ですね。

そうです。これが全部、台湾関係の資料です。何でも揃っています。そういうことが一つの契機になって、いまでもずっと付き合っています。だから、6月に創立記念をやるときは、奥さんと二人で台湾に来てくれと言うから、まあ、行かなければならんですね(笑)。

−−正隆は、昔はほんの小さなメーカーだったと思うんですが。

そうですよ、始めて行った頃は。台湾へは、最初は遊びに行ったんです。その後、郭さんほか三人がレンゴーの本社に来て、私はその時初めて会ったんですが、何ですかと言ったら、工場を見てくれと言うんです。私は前に台湾に行って、面白かったから、「おう、やろうじゃないですか」と加藤さんに言ったら、「よし、やろう」ということで、始まったんです。

最初は、段ボールをということで、加藤社長に言われて、1981年に初めて行って、段ボール工場の方をやりだしたんです。そして、段ボールの方はある程度、軌道に乗り始めたんですが、製紙の方がどうもダメだというんです。まだ、小さい古い機械が3台か4台しかなかったでしょう。それで「得能さん、製紙の方も面倒を見てくれないか」と、レンゴーに正式にその話が来たわけです。
ところが、加藤さんがダメだと断ったんです。「段ボールは良いけど、製紙を見るわけには行かない、製紙はダメだ」となったんです。
それで、正隆が困っちゃって、「得能さんにどうしてもやって貰わなければならない」という依頼でした。あの時は、私も板挟みで困り果てました。正隆の事情は承知しています。かといって、加藤社長がダメだというものを、引き受けるわけにも行きません。

ただ、正隆にとっては存亡にかかわるような重大問題でしたから、断りきれないなという思いでした。それで、「なんとか考えましょう」と返事しました。
すると、正隆の鄭董事長が来日して、新宿の京王プラザホテルで、直接会って話をすることになりました。私は、小林の今の社長に「正隆からこういう話があるが、小林としても対応を考えてもらえないか」と言って、小林の社長と私が鄭董事長に会って、話したわけです。
鄭董事長の前で、小林さんに「私はレンゴーにいるんで、どうにもこうにもならないから、小林さん、あんたが正隆とちゃんとやって下さい」と頼み、小林さんが「分かりました、やりましょう」ということで、製紙機械のことは小林さんがやり出したんです。そこへ、私がアイディアを出しながら参加したわけです。

ところが土曜、日曜にちょこっとでも行って見ないと、どういう風に進んでどうなのか、悪いところは直さなければならないわけです。ですから、私は金曜日の夜、飛行機で台湾へ飛んで行って、土曜、日曜をほとんど向こうの連中と一緒に仕事をして、それで日曜の夕方帰ってくる。それから、忙しいときは、次の週もドンと行って、バッと帰るという忙しい生活でした。
そうやって、バンバン、バンバン片づけて、だから、正隆はそのうちに、もの凄く良くなってきたんです。

−−正隆は、いまはもう台湾というより、アジアで指折りの、抜きんでた存在でしょう。

ええ、もの凄いです。

−−この裕力というのは、正隆の子会社ですね。

正隆の子会社です。自分の会社の機械部門を分離して、裕力を作ったわけです。そのとき正隆は、自分が株を全部持つわけにいかんから、裕力の株式をみんなに売って分けたんです。それでも正隆は大株主ですよ、筆頭株主ですから。
そのとき、正隆の董事長が、いまの董事長ですけれど、私に株券をぽっと呉れたんです。私は要らんと言ったんですが、いや、そんなことを言われちゃ困る、いや、要らん、いやどうしても受け取ってくれ、要らんで、結局、私はおっぽり出したんですが、そうしたら、ちゃんとした書面で書いて寄越したんです。それを、いまでも持っています。

−−日本では大概、社長が一番偉いんですが、台湾は董事長と社長とどう違うんですか。

董事長はオーナーですから、会社そのものの所有者で、社長は董事長に任命される社長なんです。そのあたりは日本とはちょっと違いますね。鄭董事長は、正隆のオーナーなんです。
それでね、実は、私の兵学校の同期生6家族が、12名か13名になりそうなんですけれど、6月に台湾にみんなで行こうという話があるんです。

−−前に、うかがったことがありますね。向こうの奥さん方が、得能さんには、ぜひ奥さんとご一緒に来て欲しいと言っているという話を(笑)。

そうなんです、家内が行くと、向こうの奥さん方もみんな招かれて、一緒になって大騒ぎするんです。だから、また来い、また来い、早く来い、といって(笑)。

−−台湾には、正隆のほかにもメーカーがありますが、得能さんは。

一社もありません。話はありましたけど、全部断りました。正隆以外はやりません。

−−それじゃあ、尚更ですね。

よそとは、やりません。それは、やれませんよ。商売じみたようなことは。だから、一切やりません。正隆とだけです。そりゃあ、三菱さんやなんか、よそへも行ってくれというけど、全部断わりました。

−−ビジネスを超えたものなんですね。

だから、この正隆の鄭董事長にしても、裕力の董事長にしても、みんな私を兄弟だ、兄貴だと言うんですよ。私も、そうだ、そうだと言っているんです(笑)。

−−年齢のぐあいはどうなんですか。

まだ若いですよ。50代です。そういうつきあいです。郭さんとも、そういうつきあいです。郭さんは、ずっと総経理、つまり社長をやってきて、いまは総経理は若い人に変わって、郭さんは副董事長になって鄭董事長を補佐しています。ですから、正隆の実務は郭さんが切り盛りしているんです。
今朝も7時ごろ郭さんの自宅に電話したんです。時差があるから、こっちは8時頃ですが、「郭さん、もう起きてるのかい」と言ったら、「もう起きてるよ」と言ってました。日本語もペラペラで、郭さんとは何でも日本語です。

−−そうですか。

その頃に、シンガポールの問題もありました。シンガポールに製紙工場を作ってくれ、というんです。ピータースという会社です。段ボール工場をやっていたんですが、私の顔を見て、「得能さん、ウチもぜひ製紙をやりたい」というんです。
「こんな、シンガポールの島でかい。水も無けりゃあ、なんにも無いのに」と言うと、「いや大丈夫、出来ます」と言うんです。それで、「本当にやるのかい」と訊いたら、やると言うので、それじゃあと、レンゴーと正式に提携してもらって、製紙工場を作ったんです。

−−シンガポールの製紙工場ですか。

そう。小林の機械を入れて、回しだしたんです。もう、色んなところから、いっぱい見に来てね、みんな、スゴイというわけ。水はほとんど使わなくてもいいし。

−−それはウルトラフォーマーですか。

ウルトラフォーマーです。その仕事で、シンガポールに行くでしょう。向こうで一週間ぐらいやるでしょう。週末に日本に帰りますね。それで、帰りに台湾にちょっと寄って、バッと片づけて帰ってくるということが多かったんです。
私はどうも、色んなところから頼まれたら、絶対ダメいうて、断れない性格ですからね。逆に、「よし、やってやろう」と、ついやってしまうんです。

−−何もかも出来ちゃうから、やれるんですね。

まあ、気楽なもんです。だから、正隆ともこういう間柄なんです。

−−得能さんの海外との関わりは、正隆に限らず、いっぱいあるわけですから、それだけでも長い長い物語になりますね。

そういう友だちが、私にはもの凄く多いんです。それはもう、この間のロングビューファイバーのワルトハイマー副社長も、喜んで、抱きついて歓迎してくれました。全く、あんたが来てくれて良かった言うて。よし、それじゃあ機械一台注文しようと言ってくれました。
そして、ワルトハイマーが、「三菱さん、5月20日までに見積書を出せ、6月中に決めるから」と言うんです。11月の半ばに新しい大きな機械が出来るもんですから、それを三原に据え付けて、回すんです。それの原紙は、ロングビューファイバーから200t輸入すると言っていました。それを、世界中の人たち、みんなに見せるんです。

−−さすが、アメリカの製紙会社のオーナーですね、やることがデカいし(笑)。

私には、まだいっぱい新しい開発のプランがあるんです。それで、色んな機械の開発を、ワルトハイマーに説明して来ました。非常に熱心に聞いてくれましたね。
それにつけても、私は、もうビックリすることが多いんですよ。まあ、海外との交渉を通じてのことですが、日本人というのは、海外の連中の常識とはかけ離れた、日本の国内でしか通用しないような感覚を後生大事に抱え込んでいて、それが世界の常識だと思っているところがあるんです。海外へ行くと、そういうズレを感じる機会が非常に多いんですね。

−−やはり、豊かさも足りないんでしょうか。日本人は、善良で謙虚なのが良いところですけど、そのお陰で、いつも貧乏しているんですね(笑)。

そうだと思いますね。だから、私は良かったと思います。こうして百八十何回も海外に出掛けて行って、いろんな長い歴史を繰り返して来て、外国人とのつきあいを重ねて、こんなに何もかも書いてあって、誰とどういう話をしたかとか、もう全部分かっていますからね。
これは、1975年にスマーフィットへ段ボール工場の製造技術全般の立て直しを頼まれて行ったときの記録です。これなんか、もの凄く面白いですよ。そのころ、スマーフィットは大赤字で、大変だったんです。それを、私が行って立て直したんです。それから、これはメキシコのチタン社です。こんなところへも、技術指導を頼まれて、いっぱい行っているんです。

−−いまをときめく世界第1位のスマーフィットも、大変な時代があったんですね。

そう、これはマル秘だったんです。あのころ、工場がこの写真のような具合でしたから。

−−なるほど、これじゃあダメですね(笑)。

そうでしょう、こんなことじゃね(笑)。これが、その当時のスマーフィットのコルゲータなんです。こういうように、全部、写真も撮ってあるんです。いかにレベルの低い工場だったか、一目瞭然でしょう。これに対する対策をいっぱい書いてあるんです。スプライサーなんか無いですから。

これは、レンゴーの工場の写真と説明です。こういうようにやりなさいと教えたんです。これは京都工場の、あの頃のスプライサーです。こういうやつを全部撮って、説明書を書いて、ここはこうしなければダメだ、ああしなければとか、京都プラントではこうやっているよ、あんたのところは何をやっているんだと。そして、こういう風なやり方を書いて、パレットは、レンゴーではこういうようにしているんだ、デリベリーはこうやっているよ、というように全部説明して、なにもかも直させたんです。
そうしたら、猛烈に利益が出るようになったんです。これが第一回目のスマーフィットの対策のファイルです。

−−1975年というと、昭和50年ですか。

そのころから、スマーフィットの経営の立て直しが始まったんです。

−−海外の人とのおつきあいが色々あった中で、得能さんが一番印象に残る人というか、まあ、沢山いらしゃると思うんですが、どんな人たちですか。

スチブンソンもそうですけれど、大体ね、CCAにしても何にしても、色んな会社の段ボール部門のボスたちとはみんな親しかったんです。ほとんどが大会社でね、クラウンゼラバックとか、インターナショナルペーパーとか、いっぱいありますね。そういう連中と、いまでも手紙をやりとりしています。クリスマスカードも全部出してますし、私がレンゴーを辞めたときには、何で辞めたんだと言って、ワーッと手紙がいっぱい来ました。それも全部、大事にしまってあるんです。ですから、特に何人とかというようなことじゃないんです。

いまでも、どうだこうだといって、手紙を出したり、向こうから手紙を寄越す連中が結構あるんですが、みんなリタイヤして、いまは段ボールから離れています。ですから、私も、もう段ボールのことは一切言わないで、付き合っています。ほら、こんな具合なんですよ。

−−こんなに沢山、手紙が来るんですか。

こうやって、いっぱい出しているんです。これが昔から出していたリストですけど、この人たちは私と同じぐらいの年齢ですから、ほとんど辞めてしまいました。それで、ずっと出しているのは、いまでも元気な人たちの何人ですか、ワルトハイマーとか、CCAの親方だったタムキンだとか、マクドナルド、ポールソン、それからBHSとか、もういっぱいあるんですけど、その連中から、みんなこうやってワンワン、ワンワン寄越すものだから、往生しているんです(笑)。
まあ、楽しいですよ。いろいろ、写真を送ってくれたり、こういう連中との、そういう付き合いが引きつづいているんです。

それで、もし私がなにか聞きたいことがあって、ああ、こいつに聞かなければと思ったときには、手紙を出して、聞きますけどね。このファンナスなんか、すごいですから。

−−どなたですか。

南アのサッピーの、いまの会長です。この間、新聞に出ていたでしょう。彼とは本当に親しいですから。ですけど、こういう海外との手紙のやりとりも、実は大変なんです。言葉の問題がありますしね、年をとると厄介です(笑)。
海外は、製紙の関係と、段ボールの関係と、ほとんど並行して進みました。製紙の方が先だったですけど、ヨーロッパは段ボールが主ですね、製紙はあまり無かったんです。

アメリカの場合は、製紙が先でした。これは、ウルトラフォーマーを開発して、その技術資料を持って、アメリカ中を回り歩きましたからね。そのときのウルトラフォーマーの説明資料が、このファイルです。全部取ってあります。こういうのが全部あるんです。
だけど、いまはあんまり見ていません、関係のあった皆さんが来られたときに、こういうことがあったんですよというようにして、お目に掛けているんです。
その頃は、向こうの新聞・雑誌が、なんだか知らんけど私のことをいっぱい書いているんです。それを友人たちが、コピーを取って送ってくれたり、何かしているんで、残っているんです。
まあ、昔のことですけど、こういうのも、いっぱいとってあるんですが、もう、よく覚えてないのもありますね。(注・巻末資料参照)