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得能正照自叙伝「発明街道」

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第7章 「とくのう学園」 黒田幼稚園

——ところで、昨日は「とくのう学園」の行事で、静岡に行かれたということでしたが。

ええ、平成10年度の第三回目の理事会があって行ってきました。理事会は、年に四回ぐらいやっているんですが、この三月末で平成10年度が切れるわけです。それで四月から新入生が入ってきますから、そのための準備とか、いろいろ決めなければならないことがあるんです。 昨日の理事会は、午後三時から黒田幼稚園で開催しましたが、理事全員が出席してくれて、それから監事も、一人だけは病気のために来られないということでした。 出席された方の監事は、陸軍士官学校出の人で、高橋先生といいまして、私の二年後輩の七十五期と同年輩の人です。以前、よく国税庁の広報番組のテレビに出ていました。昔から、税務署長をしたり、税務の学校の先生をなさったり、私はずいぶん長い間、親しくさせていただいていて、非常にいい人です。前からずっと監事をお願いしておりますが、理事会には必ず出席されて、色んな意見を言って下さっているんです。

また、理事の時田君が事務長をしておりまして、彼が事務関係を見ています。時田君は、私が大昭和製紙を辞めたとき、彼も一緒に辞めて井出製紙に移って、立派な仕事をしました。そのあと、平成10年から「とくのう学園」に来てくれました。ほんとうに助かります。

——とくのう学園を始める一番最初のキッカケは、どういうことだったのですか。

最初、非常に色んなことがあったんです。というのは、いまの「とくのう学園」の敷地を、昭和42年に、私が買ってあったんです。

——得能さんが、ご自身でですか。

ええ、そうです。

——お父さんじゃなくて、ですか。

私が買っていたんです。二千坪を。

——そんな広い土地ですか。

ええ、買ってくれというんですが、私もカネがないんです。ところが、いい場所でね。

——それは、大昭和の時代ですか。

いいえ、レンゴーの時代です。レンゴーに入ったばかりの頃です。そこのお百姓さんが六人で、そこの田んぼを持っていたんです。ところが、富士宮の農協に借金していて、農協に全部押さえられていたんです。そのカネを返さなければならないし、それから、利息も払わなければならないんで、わしらはもう、バンザイしちゃうということでした。

それをまとめていた人が、誰に紹介されたのか、私のところにやって来て、買ってくれというんです。だから、一体どんなところだと見に行ったら、もう素晴らしいところでした。田んぼがこう、だーっとなっていて、眺めはいいし、それじゃ買いましょうと言ったけど、カネが無いから、おやじにちょっと借りて(笑)、それで全部買ったんです。お金は、農家の人たちに渡したら、みんなどっかへ行っちゃうから、その人たちと一緒に農協へ行って、この人の分はこれと言って、私がみんな払ったんです。それで買ったんです。

−−そういうことですか。

おやじは、そのころ、大昭和を辞めて井出製紙にいましたが、辞めるとき、いままでいた施設部の人たち六〜七人が、おやじが大昭和を辞めるならオレたちも辞めると言い出して、辞めて、おやじと一緒に井出製紙で仕事をしてきました。その後、どこかに鉄工場を作ろうということでしたが、ちょうどいいからと、私の買ったところに作ることになったんです。

もともと、彼らはおやじと一緒で、工事用の色んな道具を私の家の車庫のところに置いていて、よその製紙工場に修理に行ったりするのにも、その準備はみなウチでやっていたんです。

——それは、場所は富士ですか。

いや、吉原です。吉原に私の自宅があったんです。それで、私が富士宮に静岡興業の名義で二千坪の土地を買ったもんだから、おやじが、おい、あっちに移ろうやといって、そこに鉄工場を建てたんです。そのあと、何年も経たないうちに、おやじが亡くなったんで、仕様が無くて、その静岡興業という私の会社に、みんなを入社させました。 ところが、きれいな住宅地のど真ん中でしょう。やかましくて、まわり近所の人から、もの凄く文句を食ったんです。音が大きいとか、ああだ、こうだと言われて、居場所が無いわけですよ。それで「得能さん、どうしましょう」と言うから、とにかくどこかに移れと言っていたところが、富士に鉄工団地が出来たので、そこに申し込んで、その会社自体で金を借りて、1,500坪の土地を買ったのです。そこに鉄工場を建てたんです。

その少し前ごろ、レンゴーの私のところに、新日鉄の開発部長という人が来て、こんど新日鉄が非常に薄いスチールの製品を作ったから、段ボールの中芯のところにこれを貼ったらどうかと言うんです。それで、私がそれを作りました。新日鉄から、その人の紹介で、薄いスチールの板を入れて、段を作って、ホットメルトで貼り合わせたんです。強度はもの凄くあるし、さすがに鉄芯の段ボールでした。サンプルは、いまはもう、ありませんけど。 その人が、「得能さん、新日鉄は鉄骨もやりだしたんだが、建屋の標準タイプで、これはもの凄く安いけど、いまのところ売れてない」と言うんです。そして、「あんた買わないか」と言うから、それじゃ私の知っている鉄工場に入れようかと、その新日鉄の鉄骨の標準型をそのまま安い値段で、静岡興業の建屋を建てるのに入れたんです。値段は、半値以下でした。

私は、新日鉄がやるなら大丈夫だと言って、注文させたんですが、それで非常に良いものが出来ました。それが、静岡興業の始まりだったわけです。ところが、富士宮の方は、鉄工場が出て行ったあと、そこには何も無くなったわけです。ボロの鉄骨は残っているし、そこで何をしますかというわけです。弱ったなあと思ってね。

それで静岡に帰ってきたとき、友だちやなんか、みんなに、おい、何をしたらいいって聞いたら、スーパーマーケットをやったらという意見と、テニスコートを作って、テニスクラブにしたらいいという意見と、それと幼稚園と、この三つが出てきたんです。それで、私は瞬間的に、おやじが小学校の校長をしていましたから、おやじの記念のためにと思って、そこに幼稚園を作ってやろうと決心したんです。 ところが、幼稚園はダメなんです。ダメというか、右から左にはいかないんです。学校法人の県の認可を取らなければならないんです。ただ、その当時の静岡県議会の議長が海軍兵学校の七十五期で私の二期後輩なんです。

そのとき、村上という私の兵学校の同期生がいて、これは以前は岳南鉄道の組合長をしていたんですが、岳鉄は余りきついんで嫌気がさして、それで私のところに来て何とかしてくれと言うから、私が井出製紙に話して、井出製紙の総務課長で入れたんです。そのあと、総務部長になって、色んなことをやっていたんですが、井出製紙でも村上が余り気に入らないわけ。海軍兵学校ですから(笑)。それで、井出製紙も辞めさせられる寸前で、それを私に言うから、静岡興業の社長でもやれと言って引っこ抜いてきて、村上を富士の鉄工団地の方の社長にしていたんです。

そこへ、こんどの幼稚園でしょう。その幼稚園を作るのに、「おい、七十五期が県会議長になってるから、学校法人の設立方法を聞いて来い」というわけです(笑)。そんな具合で、村上が七十五期の市川議長のところに行って聞いたら、「先輩、それならすぐ申請して下さい」ということになって(笑)、申請書類をもらって、この通りに書きなさいと教わって、年度末ぎりぎりの昭和53年3月15日に学校法人の申請書を書いて、それを学事課へ出したら、学校法人の認可が下りたんです。

それで「いやー、下りた、下りた」というわけ(笑)。県議会の大変えらい海軍兵学校の下級生のお陰で、この幼稚園が出来たのです。ところが、私は表に出られないんです。

——レンゴーさんですからね(笑)。

そう(笑)。それで、「村上、お前が幼稚園の理事長もやれ」と言って、それから静岡県の色んな名士の方々に理事をお願いして始まったんです。市川県会議長も理事でした。それが平成10年でちょうど満25年になって、二月十五日に創立20周年記念式典を行いました。

ですから、それが出来た背景というのは、第一にあの土地を買ったこと、それから、おやじがそこで鉄工場をやっていたこと、そして、おやじは途中で亡くなったけど、騒音問題でそこに居れなくて富士へ移って、空いた敷地になったこと、また、おやじが小学校の校長先生だったから、世のため、人のためになるようにと、幼稚園を思い立った結果だったわけです。

そのように、学校法人「とくのう学園」というのを作って、地名の黒田に因んで「黒田幼稚園」を始めたわけですが、施設としては150人も入れる幼稚園を作ったんです。ところが、最初に入ってきたのは27人かな、いや、この学園案内に書いてありますが、第一回の卒園児は四人(笑)ですね。先生も、たった二人でした。だから村上をはじめ、みな大変だあというわけです。これで幼稚園は大丈夫かと心配したんです。だけど私は、幼稚園なんていうものは、ずっと長く学校法人で続くんだから、そのまま放っておけ。その代わり、良い幼稚園に、良い幼稚園にするように、建物も直し、きれいにして、運動場も整備していけば、みんな必ず来るよと言っていたんです。

月謝なんか高くする必要ないんだからと言っていたら、そのうちに、どんどん、どんどん増えちゃったんです。これが二回生、三回生、四回生でしょう。こんな具合です。いま現在は、348人になっています。 最初の20年間、園長は塩川といいまして、長女の裕子の嫁ぎ先の母で、素晴らしい園長先生でした。その園長先生の息子、つまり裕子の主人は、東北大学金属研究所の教授です。

完成した総ガラス張りの職員室

黒田幼稚園の園児達

——園児の増え方がすごいですね、アッという間に。

そう、アッという間なんです。これがね、黒田幼稚園の歴史なんです。だから私は、世の中のために良いことをしてあげられたということで、しみじみ良かったと、そう思っています。もう忘れられませんね、最初に考えた以上に素晴らしいことですから。

写真のここは、大きな講堂になっているんですよ。鉄工場の跡を直してね。こういうプールを作ったり、いろいろしました。 この木は、昔の私の家にあった木です。こういう立派な木がいっぱいあるんです。吉原におやじと住んでいた時の家は、訴訟で大昭和に買わして、大昭和に渡しちゃいましたから、そこに植えてあった木をみんなここに持ってきました。むかし我々が見ていた木を全部移せと言って、こっちへ移動したんです。非常に立派な幼稚園になりました。 去年作ったこの創立20周年記念誌に書いてある通り、「世の為、人の為」ということで、みんなに、きちんとやって貰わなければということでやっています。園児は、こんなに沢山いるんです。敷地は広いですしね。まわりのこの辺の木が、みな移設した木です。

——素晴らしい幼稚園ですね。

ええ、県でも非常に褒めてくれましてね。学事課の人たちにも、みんな、良い幼稚園だといつも褒められるんで、私も本当に安心しているんです。これね、たまたまこっちに持って来ていたのでお見せしますが、資産内容もこんな風に、資金豊富です(笑)。銀行に借金なんか一銭もありませんし、県からは、こんな大きなおカネ、何に使うのと聞かれるんだけど、いや使うんじゃないよ、子どもたちに何かあったり、事故が起きたり、地震で子どもに災害が起こったりしたら、これを使います。そのためにとってあるんだと、ずっと言っているんです。

——経営的にも大変素晴らしいということですね。

それで昨日は、この議事録には一部修正個所がありますが、平成11年度の職員の給与、昇給を決めたのと、それから幼稚園の中をきれいにすることと、職員室や会議室を全部壊して、総ガラス張りの職員室を作ろうということで、それを決裁してきました。 私がデザインして、5,000万円ぐらいの予算ですけれど、それを全部自己資金でやります。理事にみな了解をとったり、それから、新年度用の新しい案内書を作ろうということで、写真だなんだと、その案がさっきファックスで来ましたけど、いい案内書の内容ですから、これで作ろうということを昨日決めたわけです。一千部印刷して、父兄みんなに配ります。

理事会のあとは新年会ということで、父母の会の幹部と評議員と、それから理事さんや、幼稚園の先生たちも全部入れて50数人ですけれど、みんな集まって、パーティをやりました。家内もそれで一緒に行きましたが、大変楽しい会でした。

——そうでしたか。

みんな私の主催でやるわけですから。

——そうですね。

ちゃんと、幼稚園の色んな挨拶をして(笑)、父母の会だとかなんかも、みんな顔をよく知っていますから、そんなやり方でね、非常に賑やかに新年会をやってきました。

——そうですか。

私が一番問題にしているのは、一般企業もそうでしょうけれど、園の先生がグループ化したら困るんです、20人もいるんですから。全員が一致団結するグループでないとね。いつも、みんな仲良くしろよと言っているんですが、幸いみんな仲がいいんです。誰か用事があって、今日は早びきしなければいけないとなると、ほかの先生がぱっと手伝ってあげている。そういうように、団結心が強いですからね、そういう点で、いいなと思っているんです。

私がカラオケを歌おうなんて言ったら、女の先生たちがみんな飛び込んできて、一緒に歌ってあげますよなんていって、もう大変なんです(笑)。ゆうべも、そんな風でした。今年は、ですから、夏休みを利用してガラス張りの建屋を作ります。素晴らしいですよ。

——得能さんは、幼稚園の経営も、「至誠にもとる、なかりしか」ですね(笑)。

そうなんです。「五省」みたいなもので、言行に恥ずるなかりしか(笑)。私のモットーですからね。いまはこれです、幼稚園です。よーし、行けってなもんで。

——すごいですね。五省がここまで来るなんて(笑)。

教員室にいて、外が見えないような教員室を作っちゃダメだ。総ガラス張りで、どこでも見えるようにせい。一面がガラスで、どこでも見えるようにせい(笑)。 ところが、みんなは、急にはそういう感覚にならないんですね。私らみたいなバカは、すぐそういうことを考えて、「よーし、行けっ」となるんだけど(笑)。

——やはり、世界を広く見ていらっしゃるからですよ。

そうでしょうかねえ。

——ええ、そうです。

幼稚園の話となると、とくに一番最初の、出来上がったときの話ですけど、まだまだいっぱいあるんですよ。

——得能さんは、その頃はレンゴーにおられてのことでしょう(笑)。

レンゴーにいて、です。村上やなんかには、理事会の書類とか、そういう公的な書類は全部送れと言ってあるんです。それで、私の自宅に送ってくるんです。見ると、理事会で決まったことに、どうもおかしいのがあるし、余分なカネがかかっているのに、そんな園児のためになるようなカネでもないし、変な使い方をするヤツについては、バッと電話をかけて、「ダメだ」と怒るわけ。なぜこんなことをするんだと怒ると、それはそうだなと、ぱっと止めたり、それから意見を聞いて、ああ分かったとOKを出したり、そういう報告だけは受けていました。

——その一方で、あれだけの発明をされていたんでしょう。

そうです。もう、忙しくて(笑)。

——誰もそんなこと、知りませんものね(笑)。

ヒトには言えないですし、夜しか時間がないし。

——幼稚園を経営しながら発明をした話は、ほかに聞いたことがありませんね(笑)。

これがね、幼稚園の入口の写真です。入口に絵を描かしたんです。

——これは可愛いですね。

この画を描くのに、園の先生たちみんなから募集したんです。それで、画を描くのはどうしてかというと、日本航空でも全日空でも、飛行機にみんな漫画を描いているじゃないか、だから同じじゃないか、幼稚園でも子どもが好きな絵を描こうということで(笑)、みんなから絵を募集して、それでこれを採用したんです。幼稚園の入口の絵と同じものを、学園案内の表紙にしているわけです。 それから、今度やろうというのが、この図面です。ここが総ガラスになります。

——得能さんは、設計図を書かせたら、それこそ本職ですから(笑)。

ここが総ガラスで、これが先生の部屋。ここからこう上がって、ここがトイレ。それで、ここからずーっとこう見渡せるんです(笑)。

——理事長先生自ら、幼稚園の建物の図面を引いているんですね(笑)。

いままでのここを、こうやり直して作ろうということで、まあ、大体終わりました。こういうのをやるのが、また、楽しみでね(笑)。

——そうでしょうね、出来る人は(笑)、楽しみなんでしょう。

楽しみですよ。こういうのは(笑)。なに屋かと思われかもしれんけど、そういうのでいいんじゃないですか。みんなが興味を持って、これに対応してくれさえすればですね。この写真は、毎年、セスナが飛んできて、こうやって航空写真を撮るんです。

——グラウンドの、園児たちの人文字がそうですか。

勝手に飛んできてね、それでカネを払わされるんです(笑)。

——そういう仕掛けになっているんですか(笑)。お値段もちゃんと書いてありますね。

これ全部が鉄工場だったんです。ここをテニスコートにしようとか、どうとか、そんな話もありました。しかし、私がダメといって、幼稚園に決めたんです。それが良かったですね。

——とにかく素晴らしい、いい幼稚園ですね。もう最初の頃の幼稚園児の中には、 結婚してお母さんになっている人もいるでしょう。

いやいや、うちの園の先生がいますね、20人ほどですが、その中の三人が、三回生ぐらいの卒業生です。こんどは生徒じゃなく、先生で、また入ってきているんです(笑)。

——そうですか。

みんな仲がいいですよ。みんな仲がいいですから、助かります。 これは、私の人生の一環なんですが、学校法人「とくのう学園」という名前で、これは永久に続きますからね。いま、私が理事長で、家内も理事になっているんですが、学校法人では親族は二人までしか理事になれません。 それで、将来はどうなるかというと、これは分かりませんけれど、私の息子には、お前が理事長をやれと言ってあるんです。お前のお祖父さんが教育者だったことが元なんだから、幼稚園の運営については、私の意志、私の考え方をそのまま受け継いでくれよ、と言っているんです。

孫にも言いました。お前はまだ、相当先だけど、理事長をやるんだぞって(笑)。まあ、そういうように、子どもたち、子孫に、やっぱりそういう社会に尽くすという思想、感覚を頭の中に叩き込んでおきませんとね。

——すばらしいことですね。

得能家のためにやっていることではないんです。それで、われわれがおカネを儲けて、遊んで歩こうとか、どうとかいうことは、もう一切無いですから。

——そうですか。レンゴーさんにおられた当時からですね。

レンゴーを辞めてから、私が理事長になりました。村上は辞めて、もう亡くなりましたけれど、それからです。毎年、新年宴会をやりだしたんです。 おい、新年会をやろうやと言って、みんなを集めて、ワーっと(笑)。新年会は、ちょうど私が理事長をやりだしてからです。それまでは、まだやっていなかったんです。大勢で、みんな来ますよ、父母の会だとか、みんなね。

(奥様)でも、すごくいいなと思うのは、やっぱり世代が変わってきていますんでね。父母の会の会長さんを去年、一昨年やった方が、山崎パンの運転手をしている人なんです。昔だと、その辺の有力者だとか、お金持ちだとかということだったかも知れませんけれど、その方は、ご自分のお子さんはもう幼稚園を卒業して、今は実際には父母の会と関係が無くなっているのに、いまでも色々お世話をして下さっているんです。もう、楽しくてしょうがないから、縁が切れるといやだっておっしゃるんです(笑)。

——実際には関係がなくなっているんですね(笑)。

(奥様)そうです。そういう方が結構います。昨日も、何人もそういう方が来ていました。

みんな来るんです。一年に一回ぐらい会うわけで、得能さんが来るんなら、おれ絶対行くいうて、みんな来るんです。園児はいなくなったのに、評議員に残っているんです(笑)。

(奥様)それと、主人の年代なんて、幼稚園の父兄会に来たことなんて、ありませんでしょう。

——そうですね、大体は。

(奥様)それが、昨日はすごいんですよ。もう、いっぱい(笑)。

そう、ものすごいんです。いまの父母の会の会長はテント屋さんでね。幼稚園のテントを寄贈してくれたり、すごくいい人なんです。得能さん、今夜泊まってもう一軒バーへ行こうなんて誘われたけど、ダメだ、おれは帰るんだからって、帰ってきました。ニュージーランドから帰って、二月の終わり頃に電話するから、そのころに行こうかといったら、頼みますわ、いうて(笑)。みんな、そんなです。

私にすれば、みんな若い人たちだけれど、そういう人たちと、彼らが好きなようなところに行って付き合うこと自体、こっちが若さを感じるんです。年寄りで、地位の高い、名誉の高い人たちばかりと、調子のいいことを言っていたって、何にも面白いもんじゃないんです。そうするとね、若い人たちの感覚というのが、私は身につくと思いますね。そういうものだろうと思うんです。

——そうですか。それが「とくのう学園」ですか。

みんな喜んでくれますからねえ。「とくのう学園」で、あれが悪い、ここが悪いと言われたことなんて、一度も無いです。まあ、悪いところがあれば、すぐ直しますし、ね。 今日は休みなんです。348人の園児のうち、昨日は50人が風邪で休みました。それで急きょ、臨時休園にしました。きのう、すぐに、父兄に全部通知して、今日は休みにしました。あまり無理なことをしてもね。園の先生は、みんな出ているんです。整理やら、色んなことがありますから。

——以前にうかがいましたが、富士の鉄工団地に移った静岡興業から、いまのエス・ケイエンジニアリングに社名を変更されたんですね。

そうです。「静岡興業」というと、そのスジの会社みたいで、イメージがわるいですから、イニシアルだけを取って変えました(笑)。

——その鉄工団地の工場は、いまはどうなっているんですか。

あれは、伊藤忠産機と賃貸契約を結んで、貸し工場にしています。 バブルがはじけて、こんな大不況になる前ですが、伊藤忠から、あの工場を借りたいという話がありました。というのは、伊藤忠が海外から輸入している食品機械などのメンテナンス工場が欲しいので、いろいろ物色しているんだが、どうも適当なところが見つからない。それで、あの工場なら場所もいいし、広さなども手頃でちょうどいいから、ぜひ貸してほしいという内容でした。

そのころ、まだ相応の利益は出していたのですが、私は伊藤忠から話があったのを機会に、一大決心して工場を閉めることにして、従業員は退職金を払って全員解雇する、但し、その全員をそっくり伊藤忠に工場ごと引き継いでもらうという条件で賃貸契約を結んだのです。息子も一時手伝ってくれていましたけれど、息子には、お前はまだ若いんだから、お前がやってきた技術を生かして、もとの医療機器関係へすぐ戻れと言って、全部片づけたんです。

従業員を解雇して、工場を閉めたということで、地元での私の評判は地に落ちました。ところが、いまになると、世間の評価がまるで変わって、「得能さんは、どうしてあのころ、こんな不景気の時代が来ると分かったのか」などと言われて、褒められています(笑)。私は、世の中の動きを見ていて、あの工場の将来はどうか、立ち行かないことになるのではないかと考えていました。だから、思い切りよく決断できたんです。

それに、この「とくのう学園」の幼稚園で、やらなければならないことが、まだまだ、たくさんありましたからね(笑)。

——敏正(としまさ)さんのことは、初めてうかがいましたが。

いま、息子がマーケティングの部長で、部下をいっぱい持って頑張っています。息子も、私が全部やるわけに行かないからとか、なんとか言いながら、やっています。

——そうですか。

いや、彼に聞かなければ、よくは分かりませんけれどね、凄いことをやっているんです。敏正は、日本の会社と、アメリカの会社のいまの組織は全く違うというんです。ハイテク医療機器の会社ですが、ものすごいことをやっているんです。心臓のペースメーカーが主力商品です。社内の打ち合わせやなんかも、全部、英語だっていうんです。

——ぜんぶ英語ですか。ストレスがたまりそうな会社ですね(笑)。しかし、親が優秀だと息子さんも優秀になるんですね。これは、間違いなくDNAの関係でしょう(笑)。

それは分かんないけど(笑)、敏正は高校の時、良く出来たんです、富士の高校で。ところが、ちょうど安保世代で、安田講堂事件があって、東大には受験できなかったんです。それで慶応や早稲田を受けたら両方とも合格したんですが、私立は高いからいやだと言って、私がレンゴーで大阪に住んでいましたから、阪大を受けたら阪大も通って、阪大の基礎工学部に入ったんです。

そのころ、家内は東京に住み、私は大阪に一人で住んでいました。そこへ敏正が入り込んできたわけです。それで敏正と二人で住んでいました。二人で夕飯を作ったりして(笑)。そのあと、家内も来ました。

それで敏正が、阪大を出て、アメリカへ行きたいというから、知人に頼んだら、ヒューストンのライス・ユニバーシティというのがあって、その理事長を知っている私の友人がいて、その人を通じて頼んだら、無試験で入れてやるからと言って、ライス・ユニバーシティに入ったんです。米国では有名な学校です。

——ライス財団の大学ですね。

そうです。そこの大学院で、すぐ博士課程へ行って、三年でドクターになったんです。ヒューストンには、心臓外科の有名な病院があるでしょう、そこと関連のある大学なんです。そのころ、日本で心臓関係の国際学会があったんですが、たまたま、教授が講演に来られなくなって、教授の代わりに、敏正がアメリカから日本に講演に来ました。英語で講演をしたんです(笑)。

そうしたら、京大の教授がビックリして、あんた、日本人だろう、そうです、あんた学生だろう、そうです、だけど教授が来られないから、代理で私が来ました(笑)、といったような会話もあったそうです。 そのとき、京大教授から京大に来いと言われたんですが、断りました。ヒューストンの教授にも、自分の後任で大学に残れと言われたんです。私がヒューストンに行ったとき、その教授から、父親の私にも、自分の後任で大学に残らしてくれと頼まれたんですが、本人がいやだと言うんで、ダメでした。彼は最初、武田薬品に入りましたが、結局、日本の会社はいやだと言って辞めて、今度はアメリカの会社に行っちゃったんです。

——アメリカの自由の空気を一度吸うと、日本の会社はダメなんでしょうか(笑)。

そうだと思います。だけど、アメリカ人でも何でも同じです。開発の場合は右脳ですよ、左脳じゃないんです。記憶力だとか何とかではなくて、瞬間的なひらめきというか、そういうものだと思います。

私も、そうです。先ほどの話の、メカとエレクトロニクスと、こうやっていて、ああもう一本、ケミカルだなと、パッと浮かぶわけです。それならフィンガーの場合はこうでと、考えが広がってくるんです。製紙の場合はこうという具合ですね。いまの機械にそれを入れれば、この装置も要らなくなるな、あれはこうだなと、どんどん、どんどん浮かんでくるわけです。

——そうですか。左脳の素晴らしい人は世の中にも非常に多いと思うんですけど、

一番肝心なのは右脳なんですか(笑)。