特大


得能正照自叙伝「発明街道」

ホーム > 得能正照自叙伝「発明街道」 > 父 木阪義胤 五十年忌を迎えて

父 木阪義胤 五十年忌を迎えて

皆様、本日は本当に良くお出かけ下さいまして、ありがとうございます。
父が戦死して五十年も経ちましたのに、このようにお集まり下さいまして、さぞ父も喜んでいると存じます。

父が昭和十八年春、出征しました時、私が十三歳、続いて十歳、六歳、一歳と四人の女の子と母が残されました。私の記憶の父は、常にお国の為に休みなく忙しく働いていたことと、お酒をこよなく愛した事が印象的です。ただ例外として、父と二人だけで旅行したことがあります。アメリカ駐在武官補佐官としてアメリカへ出発する前の正月休みに、伊勢神宮の初詣を皮切りに熱田神宮、橿原神宮と廻り、広島へ墓参と大旅行でした。

次に戦地へ出かける直前の日曜日だったと思います。上の三人を連れて、上野動物園へ連れて行ってくれました。初めての事ですので、保子がぴょんぴょん跳ねて喜んでいたのが思い出されます。まだ小さかった和子は、行けなかった代わりに、父が家で食事の時は必ずあぐらの左足の上に乗せて貰っておりました。

けれど、私の中に強く残っている思い出は、三度の別れでございます。第一の別れは昭和十三年十二月に横浜より平安丸でアメリカへ出かけた時の事です。母の胸には二歳前の保子が抱かれておりました。ドラが鳴り、テープが投げられ、蛍の光の音楽の流れるなかを船が出港していきました。母は涙を流しながら、波止場の突端まで行って佇んでいたのが強烈な印象になっております。二年間の留守番でしたが、当時は電話をかける事もできず、手紙で相談しても返事がくるのが二カ月先の事ですから、さぞ淋しく心細い日々だったとおもいます。

第二の別れは、戦地に赴く父を、浜田山の駅で送った時のことです。ホームに並んで見送る私たちを、電車のドアの所に立ち、順番に見ておりました。おそらく見納めと思ったであろう父は、本当に食い入るような目で、ドアがしまっても、ガラス越しにじっと見てくれていました。その時の父の目と姿は、鮮明に脳裏に焼きついております。

第三の別れは、十九年十一月八日の戦死が知らされた時でございます。十月に郷里から届いた松茸がカラカラに乾くまで取ってありました。縁起をかついだ事のない母が、その時ばかりは縁起をかつぎ、丹前の仕上げをせずに待っておりました。
毎日、まだかしら、まだかしらと待っている折り、ある晩、榎尾様がお見えになり、戦死を知らされました。たしか三晩位は母も泣いておりましたが、四人の子供を育てるのに悲しんではいられないと、それ以来、本当に良く頑張ってくれました。

ここに飾ってあります写真は、出征する前に、皆で靖国神社に参拝し、近くの野々宮写真舘で写したものです。その時、父は、いずれ靖国神社に祭られる身だから上手に写してくれと申しているのです。私は心の中で、とんでもないと何度も何度もつぶやいたものです。父の願いが叶って、美青年とは言えませんが、立派に撮れていると思います。

それから五十年経ち、孫の何人かは父の年を越え、私達は皺が増え、旦那さま達は白髪が増えております。その中で、母の旦那様だけは三十九歳五カ月のまま年を取っていないのです。

そして、苦労の中で、母は父の思い出を大事に、大事に暮らしたようでございます。お友達の方々も、母も、どうぞ父の分も長生きしてください。本日は、娘の一人としての思い出をお聞き下さいまして、ありがとうございました。これからお食事ですが、昔の水交社を偲んで頂いたり、父の話でもして頂けたら幸いでございます。

平成五年十月十日
得能温子