特大


得能正照自叙伝「発明街道」

ホーム > 得能正照自叙伝「発明街道」 > 第8章 温子夫人のお話から

第8章 温子夫人のお話から

インタビューの最後に、温子夫人にお話をうかがった。

奥様は、終戦の年の昭和20年は広島県立第一高等女学校の4年生だった。
同年代の男女生徒全てと同じように、奥様も、勤労動員で学校から飛行機工場に動員されていた。たまたま8月7日からクラスメートとともに陸軍第二総軍司令部の暗号班員に選ばれ、軍属として勤務することになり、運命の日の8月6日は、そのため臨時休暇をもらって、爆心から約40キロ離れた自宅で休んでいた。
原爆がもう1日遅く、8月7日以降だったなら、この世にいなかった人である。

冒頭に述べた駆逐艦「野風」からの得能さんの転属命令といい、奥様の8月6日の休日といい、お二人とも終戦の年、1日違いで九死に一生を得て、2年後に結ばれたご夫妻である。

−−奥様から見て、得能さんは、どんな方ですか。

結婚したとき、初めから工場長でした。最初は小さな工場でしたが、それからも、ずっと工場長なんです。それで、無類の仕事熱心で、自分の家族だけではなくて、工場の何10人かの方の責任を負っている立場でしょう。ですから、私も、やはり仕事がし易いようにということはいつも思っていました。
私の父や母は、そういう教育をしてくれたと思うんです。逆境にも耐えられる人間にといって育ててくれましたし、ですから、やはり一生懸命、主人が仕事がし易いようにということを考えてきたと思います。

−−得能さんが色々な発明に取り掛かられたとき、奥様はどういうように気が付かれましたか。やはり、仕事熱心の延長線上の感じでしたか。

そうですね。いまほど色々詳しくは聞いておりませんでしたでしょう。両親がいて、子供が4人いて、忙しくしているし、彼は朝早く家を出て、夜遅く帰って来るんですから(笑)。ただ、ウルトラフォーマーごろから、立派な機械を考えるんだなということは分かってきました。

−−そういういい仕事を色々されながら、大昭和さんの問題があって、レンゴーさんも中途でお辞めになって、得能さんご自身、少なくとも2度、挫折された感じを持たれたんじゃないかと、世間では思われているようですが、そのころ、得能さんはどんなご様子でしたか。

挫折の無い人なんです(笑)。挫折じゃなくて、大昭和の時も、もうすぐスカウトのお話が次から次に始まりまして、私は電話の受け係でしたから、家を空けられない状態でした。次の話がどんどん来ましたから、私も全然心配しませんでしたし、本人はかえって楽しんでいたんじゃないでしょうか(笑)。大昭和製紙では、気学の話とか、それまでに思わしくない話も色々聞いていましたから、そんなところに、何時までもいるよりはと、私もそう思っていました。

レンゴーさんのときは、65才になって、本人が、もう時間にしばられるのはイヤだ、あとは勝手気ままにやりたいから辞める、と言って辞めたんです。

−−そうですか。ところで、率直にお訊ねしますが、ご主人がこれほど偉い方だと、奥様も気を使われて、さぞ大変じゃないかと思うんですが(笑)。

それはやはり、相当気を使っていますし(笑)、努力しているとは思いますね、普通の人以上に。ですけど、本人が自分にも厳しくて、最大努力しておりますし、だから私も同じようについて行こうかなと思って、ずっと努力して来ました。でも、親戚の人が以前に、「あなたでないと、つとまらないわ」と言って下さったことがありましたけど(笑)。

その反面、主人は表現が下手ですから、みんなにも分かりにくいし、理解しにくいところがあるので、誤解を受けやすいんですけれど、みんなに対する愛情はすごくあると思うんです。表現が下手なんです。まあ、昔の人間ですから、上手なことが、うまく言えないんですね。

−−それにしても、なんとも素晴らしい人生ですね。

本人も満足の一生じゃないでしょうか。

−−奥様は。

はい、私も、いまとなっては(笑)。一緒に海外に行きましてもね、「タイガー、タイガー」といって、みなさんが大喜びで歓待して下さって、大変なんです。私など、何のお役にも立ったことがないのに、私まで、ものすごく歓待されて、こんなに良くしていただいて、本当にいいのかしらと思うほどなんです。
海軍兵学校以来の、素晴らしいお友達も大勢ですし、あれもこれも、本当に幸せだと思っております。

それにはまた、両親と22年間、一緒に過ごして、晩年には、介護をする歳月が長かったですから、他山の石といいますか、それを見て、主人も健康の維持に非常に努力していますし、そのお陰でいまの幸せがあるとも思っております。
父は偉い人でした。母も偉い人でしたが、病気で、何度も危篤状態になったりして、とても大変でした。しかし、それがプラスに作用して、いま現在があると思うことが多いのです。

父は、母が亡くなってから7年間ご存命だったんです。そのとき、仕事がなくなったりして、高齢ですから、当然といえば当然なんですが、男の人は、仕事がないと、とても辛いらしいんです。だから、男の人は、最後まで仕事ができれば一番幸せだということが、私も主人も、骨身にしみているわけです。

ですから幼稚園も、あれなら最後まで出来ますし、技術の面でも、まだまだお役に立てれば、ボランティアで、人のために役立つようにと言っております。やはり、それも両親を見てきたからだと思います。

両親の世代の方は、おカネがあっても、旅行もしませんでした。まあ、病気でしたから、出来なかった面もありますけど、主人は、国内でも海外でも、旅行はもう年中です。

−−それにしても、得能さんのような方は、他にはいらっしゃらないですね。どうすれば、こういう方が出来るのでしょうか。結局、帝国海軍や、知一郎さんを筆頭に、いろんな人が寄ってたかって(笑)、一人の選ばれた人を育て上げたようにも見えると思うのですが。

それは幸せだったでしょうね(笑)。ただ、戦後の時期だったから出来たことで、これからの若い人に、同じようなチャンスは、ありませんでしょう。
世界中でも無いでしょうし。何もないところから発展するような、そういう時代に乗ったから出来たことも多いのでしょう。時代が、もう、すっかり変わりました。このごろ、しみじみ、そう感じております。