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得能正照自叙伝「発明街道」

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序章帝国海軍駆逐艦「野風」

以下の記述は、昭和40年代、毎日新聞社から刊行された「別冊1億人の昭和史/江田島・日本海軍の軌跡」からの抜粋(筆者・海軍兵学校第73期深田秀明氏)である。

『昭和20年1月17日、北方作戦を終えて母港の呉に帰港した駆逐艦「野風」に、航海士として得能正照少尉が乗り組んでいた。休む間もなく、今度は南方への出撃命令が出て、翌朝7時30分出港と決まった。大わらわで出撃準備を終え、ひと息つきに得能少尉がデッキに上がったのは午後4時過ぎだった。「アッ、得能じゃないか」。いつの間にか隣りに駆逐艦「敷波」(しきなみ)が横づけしており、そのデッキからの声だった。「五味、生きていたか」「得能、お前まだ野風にいるのか。貴様には確か、転属命令が出ていた、我が艦で傍受した」。艦長に確かめると、同期の五味少尉が教えてくれた通りだった。しかも、後任は都合よく二番艦神風の航海士で、同クラスの岩月順也だった。

同夜退艦した得能少尉は、翌朝、岩月の乗った「野風」の出港を呉の駆逐艦桟橋から「帽振れ」の礼で見送った。三日後の早朝、「野風」はサイゴン沖で米潜水艦の雷撃を受け轟沈した』。

海軍潜水学校への転属命令を受けた得能少尉は、その夜7時頃、慌ただしく荷物をまとめ、手漕ぎのボートで退艦した。翌日、「野風」を見送ったあと、荷物を整理していると、中から極秘の暗号書が出てきた。大急ぎで詰め込んだため、うっかり持ち出してしまったらしい。重大な軍紀違反であったが、三日後「野風」が爆沈してしまったため、「結局、誰にも知られず、潜水学校の焼却炉で自分の手で全て焼却した」。

たった1日での入れ替わりが、得能・岩月両少尉の生死を分けた。

偶然の再会で転属の情報を得能少尉に知らせた五味少尉は、後年、米国留学を経て、カーボンファイバー(炭素繊維)を世界で初めて開発した化学界の権威、呉羽化学工業の五味真平氏の若き日である。カーボンファイバーの発明者が、海軍兵学校同期のもう一人の発明家である得能さんに、カーボンファイバーを紙抄きの要領で抄造することを依頼して、協力し合った後日談もある。

排水量一千八百トンの駆逐艦「野風」の乗組員は185名。生存者は、雷撃時に甲板上から海に投げ出されたわずか4〜5名だけだった。戦後の「野風」戦没者慰霊祭には、軍医長を含むその生存者全員が出席した。得能さんは折柄、海外出張中で、温子夫人が代理出席した。『散る桜、残る桜も散る桜−−互いにこう誓って戦っていればこそ、前述のような別れも、日常茶飯のこととして許された。戦争が終わった。生者と死者に分かれた』。(同上資料から)

昭和20年1月17日のこの転属命令がなければ、以下の物語は、何も無かったわけである。