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得能正照自叙伝「発明街道」

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第1章誕生から終戦まで

木阪海軍少将

得能正照(とくのう・まさてる)氏は、大正12年12月6日、父正親、母よしの長男として広島県三原市に生まれた。同世代の多くの人々と同じく、青春の時代を戦争で何度も死に直面しながら、戦後は一転して、板紙抄紙機及び段ボール生産技術の分野で、世界中をリードする数多くの発明を成し遂げ、いま現在も、更に新しい技術開発への設計を幾つも完成させ、国内・海外で技術指導を続けている輝くばかりの人生である。
幼少からの歩みを簡単に述べると、昭和4年4月、広島県立女子師範学校付属小学校に入学、同10年4月、広島県立福山誠之館中学校に入学、同15年3月卒業。昭和16年12月1日、江田島の海軍兵学校に入学したが、ちょうどその一週間後、太平洋戦争が勃発した。絵が好きで、幼い日に、絵描きになることを夢見た少年が、長じて数学に抜群の才能を発揮する青年に成長、海軍士官として国に殉ずる覚悟を固めていた。昭和19年3月、海軍兵学校卒業と同時に、北東方面艦隊第一駆逐隊駆逐艦「野風」乗り組み、20年2月、海軍潜水学校普通科に入校、同6月30日、潜水艦「波号二三〇潜」艤装員となり、8月15日の終戦を佐世保海軍ドックで迎えた。

−−お小さい頃は、どんな少年だったんですか。

私が生まれたころは、両親とも学校の先生でした。父の正親は、広島師範学校を出て小学校の先生をしていました。母の「よし」は、大昭和製紙の創業社長、斉藤知一郎さんの妹ですが、東京女子美術学校を出て、学校から先生になれとすすめられて広島の女学校に着任したんです。
それで広島で親父と出会ったんですが、瀬戸内海を航行する船の中で初めて会って、仲良くなって結婚したんだそうです。父は32才の若さで校長になって、三原市の糸崎小学校の校長を長くやっておりました。

この写真は、おふくろが勤務していた女学校の、たぶん学期末の記念写真ですが、小学校入学前のボクが、ご覧のようにおふくろのそばで、こどもはひとりだけ、女学校の先生方の中に写っているんです。私が小学校に上がる前は、こんな状況だったんです。小学校は広島県立女子師範学校の付属小学校というのが三原にあって、そこに入りました。両親とも先生ですから、学校から帰っても、家にいないんです。だから、近所の子どもたちと遊んでばかりで、勉強をしたことがないんです。それで怒られて、怒られて(笑)、これが、付属小学校の通信簿です。尋常一年、二年ですね。この三年のころも成績が悪くて、もう話にならんわけです。お袋にしぼられてばかりいました。

勉強はちっともしないで、絵だけ描いていたんです。絵を描くのが大好きで、担任の先生は井原先生といいましたが、井原先生は絵の先生なんです。だから、図画はみんな甲です。一年生から図画はずっと良かったんです。小学校五年のとき、全国児童の展覧会があって、それに出したら入賞しました。井原先生は、「得能くん、キミはこれだけうまいんだから、将来は絵描きになれ」というし、私も絵を描くのが本当に好きでしたから、そのつもりでした。「ようし、絵描きになるんだ」と、子供心にそう思っていました(笑)。図画のほかは、体操が良かったし、工作も良かったんです。ものを作るとか、絵を描くとかはすごく上手でした。だけど、読み方とか国語ですね、このあたりが全部ダメなんです。

−−丙がありますね(笑)。

私一人ですよ(笑)。読み方が丙で、国語も丙。これで怒られて、怒られて。だけど図画、工作、体操はみんな甲ですね、よかったんです。絵を描くのが大好きで、絵ばかり描いていました。それに背が一番小さくて、ちびだったんです。これが尋常小学校のときの六年間の通信簿です。担任の先生がこんなに色んなことを書いてくれているんです。ところが、高学年になって勉強をしだしたら、良くなって、賞状をもらっているんです。

−−「進歩顕著なり」ですね。

この写真が、小学校のころの私です。隣にいるのが、小学校を卒業後に伊勢神宮の学校に行って、神主になって、私が兵学校のころ厳島神社の宮司になって来ていました。厳島神社に行ったとき、彼とばったり会いました。懐かしくて、思わず二人で抱き合いましたね。そんなことがありました。
このあと、福山誠之館(せいしかん)中学に入りました。小学校のころは、絵描きになることしか頭になかったんですが、「こんな成績じゃ誠之館に通らんよ」といわれて、ほかの学科も一生懸命勉強し始めて、やっと入学できました(笑)。
こっちが誠之館のころの写真、これが通信簿です。一年から五年までずっと、通信簿から何から、全部あります。席次もみんな書いてありますから、いまさら隠しようがありません(笑)。

誠之館中学は広島県下では有名な進学校で、旧制高等学校への合格率も非常に高い優秀な学校でした。三年生になると、四年生も五年生も一緒になって、全校で模擬試験をやるんです。入学試験と同じ問題が出されて、それで順番がつけられるんです。学科ごとに答案も張り出されましたね。私は、中学三年のころから、数学だけはすごく良く出来たんです。自分ではそれをあまり意識していなかったんですが、これ、みんな10点でしょう。数学、幾何、三角ですね。そういう、今になってみると、技術開発なんかに必要なものが良かったんです。あとはダメです。国語、英語、漢文、みんなダメです。だから席次は悪いですよ、223人中で席次89番とか、こうですから(笑)。ですから、数学だけは良くて、模範答案として時々、張り出されたりしました。

ちょうどその頃、私が中学校三年生のとき、母の兄の斉藤知一郎さんが家に来て、私のおやじに、「オレの会社に来い」と言って引っ張り込んじゃったんです。お袋も行け、行けと大乗り気でした。それで、私とお袋の二人だけが三原に残って、おやじと姉は昭和13年に日本橋の蠣殼町に移ったんです。そこに移って、おやじは大昭和の総務に勤めたんですが、知一郎さんから「あんたも会社を持て」と言われて、カネも借りたりして、、「昭和紙製品」という会社を作ったわけです。蠣殼町の米穀取引所の真ん前に、三階建てのビルがありました。そこを買ってもらって、住んでいたんです。ですから、誠之館中学の三年生頃からは、おやじと姉はそこに住んでいて、冬休みとか夏休みというと、おふくろと一緒におやじのところに行って、家族で住んで、休みが終わると三原へ帰る、という生活だったわけです。

そのころ、学校には軍事教官が来ていて、教練がありました。それで、中学五年のとき、まあ将来の進路を決めなければならないんですが、夏休みに、軍事教練で福山の連隊に一週間入ったんです。ところが、南京虫やなんかがいっぱいで、もう陸軍はいやだ、海軍兵学校へ行こうと思いました。だけど、兵学校の試験はもう終わっていたし、高等学校の試験の時期には風邪を引いたり何やかやで、結局、卒業した昭和16年の夏、もう一度受けたわけです。
海軍兵学校の試験は、午前・午後とも一日目は数学なんです。それを通った人だけが、次の科目にも残るんですけど、夕方見に行くと、大半の受験番号が赤字で消してありました。数学が悪いと、それで落第で、次の日から来る必要がないんです。結局、三日間の試験を無事に終了して、合格したわけですが、兵学校はやはり数学を非常に重視していたんだと思うんです。私は国語や漢文なんかは、あまりやる気がなかったですから。それで、結局、誠之館から海軍兵学校に行ったわけです。海軍兵学校の入校式は、戦争直前の昭和16年12月1日、家内の父の木阪さんが保証人でした。それが、私の人生の大きな転機だったと思うんです。

その当時の中学の友だちが、東京にもいっぱいいますから、一六会というんですが、昭和16年の卒業生みんなが集まって、飲んだり食べたりしているんです。それにも結構、有名な人たちがおります。そういうことで、昔の連中がみんな声をかけてくれるし、三原の付属小学校の連中も、年に一回ぐらいは三原で集まるもんですから、連絡が来ると、喜んで飛んでいって、みんなとワアワア騒いでくるんです。だけど、みんなすっかり年寄りじみちゃって、よぼよぼしているのが多くて、どう仕様も無いから、「おい、みんな、しっかりせい」って言っているんです(笑)。中学の友だちも、もう随分死にましたけれどね。

それから、これは私が中学一年の時に、二年生と大喧嘩して、坂からどんと落ちて眉間を切って、いまも傷あとが残ってますが、二年生の彼は脳天をかなり怪我して一年留年して、私と一緒になったんです。その時の写真がこれです。鉢巻きしているでしょう、かなり悪童でした(笑)。こっちの写真は、斉藤了英さんが広島に遊びに来て、一緒に鞆の浦に行ったときです。これは、みんな了英さんが撮ってくれた写真です。こちらは、斉藤知一郎社長の家に夏に遊びに行ったときの写真です。これが知一郎さんの若いころ、これは了英さん、うんと若いときです。これが喜久蔵、滋与志兄弟の少年時代、沼津中学のころです。これは朝日製紙の社長。叔父さんですけど、後に私が朝日製紙に入って、散々しぼられましたが、これがその息子です。これは、もっと小さいとき、鈴川の浜に行ったときの写真。みんな、従兄弟たちで、これが井出製紙に嫁にいった私の姉の恭子です。
これは、鈴川に行ったときに貰った会社の絵葉書です。昭和製紙鈴川工場ですから、大正製紙と合併する前で、まだ大昭和製紙になっていないんです。それで、富士五湖で遊んで来いといわれて、昭和製紙で車を出してくれて、車で連れて行ってくれたんです。こんなのが子供の頃から中学を卒業するまでの写真で、こうしてまとめて、とってあるわけです。

海軍兵学校の思い出

海軍兵学校は、一学年(三号生徒)は31分隊、二学年(二号生徒)は45分隊、三学年(一号生徒)は305分隊でした。私は兵学校第73期生徒で、毎年、分隊の編成替えがありました。兵学校に入って一番感心したのは「五省」です。これは、私は今でもこのように手帳に貼って、いつも持って歩いているんです。
五省というのは、「一つ、至誠に悖るなかりしか。一つ、言行に恥ずるなかりしか。一つ、気力に欠くるなかりしか。一つ、努力に憾みなかりしか。一つ、無精にわたるなかりしか」という五つの言葉ですね。これが分隊室の正面に大きく書いて出ているんです。そして各分隊で、一日の作業が終わると、自修時間の一番最後、就寝前に必ずそれをみんなで唱和して読むわけです。
この言葉がやがて、いつも響いて来るんですね。ただ読むだけです。暗記して、みんなで唱和するなんていうことではないんです。

私が手帳に持っているのは、浅草の仲見世の評判堂というところにあるんです。これぐらいのお菓子があって、私らが行くと売ってくれるんです。一般の人には売りません。その店に行って、「私は海軍の出ですけど」と言うと、ああと言って、売ってくれるんです。その袋に、この五省を書いたものが貼ってあるんです。それを、私はこうして手帳に貼って、ずっと持っているんです。
この五省が、いつも心にあって、身についている人間でないと、海軍兵学校出身とは言えないと思いますね。至誠にもとるなかりしか、言行に恥ずるなかりしか。これは時代を超えた、絶対の言葉でしょう。私は、それでずっとやってきました。それから、こういう自啓録というのがありました。これを、入学したときに呉れるんです。自己啓発のための書ですね。いま見ると誤字、脱字が多くて困るんですけれど(笑)、もう持っている人はあまりいないと思うんです。みんな船が沈んだり、色々してますから。前の方は、印刷したもので、軍人に賜りし勅語とか艦船服務規定、東郷元帥の訓示、沈没潜水艦の佐久間艇長の遺書とか、いろいろあります。

それから身体測定記録もあります。私は小さかったんですよ。体重五八キロ、身長一六六センチ。いま一七三センチありますから、その後もまだまだ伸びたんです。これは「昭和十七年元旦所感」です。それから、二号生徒のときの「一筆願い上げ候」、これは友だちみんなの寄せ書きです。この人は戦死しました。これもそう、たくさん戦死しています。これは「最上級生徒になるべきの所感」です。この書類袋のどこかに、戦争が終わって帰って来たとき書いた艦隊勤務回想録もあると思うんです。こっちは私が当時、おふくろに書いた手紙です。いままでずっと見ていなかったんですが、あなたが来られるというんで、この間、出してみたら、こんな古い手紙まで出てきました。

−−幼稚園から海軍兵学校、艦隊勤務まで、記録が何でも残っているんですね。驚きました。

これが「寄せ書」です。分隊が二学年から三学年、三学年から卒業のとき、部下や同期の友だちがいろいろ書いてくれたんです。私は絵が好きでしたから、こんな戦闘機の絵や、戦艦や友だちの顔を描いたりしています。三〇五分隊というのが私の最後の分隊でした。

それから、昭和19年3月22日に海軍兵学校を卒業、東京で天皇陛下に拝謁して、4月24日、青森県の大湊港で北東方面艦隊第一駆逐隊の駆逐艦「野風」に乗り組みました。大湊を出港して2日目に、いきなり米潜水艦の魚雷攻撃を受けました。魚雷の白い航跡が2本、真っすぐ野風に向かってきて、もうダメかと思った瞬間、艦底を通過して行って無事でした。駆逐艦は喫水線が浅いから、それで助かったんです。
第一駆逐隊は1番艦が野風、2番艦が波風、3番艦神風でしたが、千島列島・オホーツク海で作戦行動中、2番艦の波風が米潜水艦の雷撃で艦尾をもぎ取られる大破で、それを野風が母港の小樽まで曳航して帰りました。
2隻になった第一駆逐隊が南西方面艦隊に編成替えされ、基地のシンガポールに向けて呉から出撃する日に、私は呉市内の潜水学校への転属命令で昭和20年1月18日着任、同2月11日から6月30日まで潜水学校普通科学生として潜水艦乗組員の訓練を受け、その後、「波号二三〇潜水艦」艤装員として佐世保工廠に着任、8月15日の終戦で、9月20日に富士の自宅に復員しました。

復員のときは、戦後の混乱で、家族がどこに住んでいるのか、全然知りませんでした。それで、確か朝日製紙の叔父さんがいるはずだからと、富士駅前の交番で朝日製紙はどこかを教えてもらって、叔父さんに会って、それで無事家族と再会できたんです。

−−戦後の日本には、得能さんが青春の日々を過ごされた海軍兵学校のようなところも、もうありませんし、若い人たちは、海軍兵学校の名前も知らないということではないかと思うんですが。

そうですね。だけど、私にはもう忘れられませんよ。私の人生の根幹ですから。いまだに当時のみんなとつき合っています。やっぱり、兵学校や艦隊のこういうことが、今でも影響していると思うんです。いまも、五省ということが頭から抜けないんです。それで、これが最上級生徒になったときの私の対番の権守君です。私が二号先任、彼はひとクラス下の先任でいたんです。私には忘れられない兄弟分なんです。彼は、日立製作所の常務から日立工機に行って、ついこの間まで日立工機の社長をしていました。それで、彼が日立製作所の常務になったとき、彼に電話して、レンゴーの段ボールをお願いしたら、分かりました言うて、順次変えてくれました(笑)。生涯の友人なんです。彼のような友人が、私には沢山いるんですよ。

これが、兵学校のとき私が描いた絵なんです。こういう、その時の気持ちを、みんなが書いてくれて、私もみんなに書いて、この人も、この人もみんな戦死しているんですが、こんな、いろいろ書いてくれたのを整理して、残してあるんです。こういうものが、兵学校時代に私に残された貴重な財産なんです。「五省」を、いまでもきちっと頭に入れて、世間に対処して行くというのは、これはやはり日本人の特徴かなあとも思うんです。

だから私は、こういう感覚ですね、五省から始まって、ようしということで、学校法人「とくのう学園」を設立したんです。当然、そうなるんです。私はおやじの資産を受け継いだわけで、おやじの資産はなくなったって良いんですから、そういうことをきちんとやって、そういう感覚を、私の子ども、孫たちに受け継がせたいと思っているわけです。

木阪海軍少将

−−得能さんが海軍兵学校に入られたとき、奥様のお父さんが保証人だったとうかがいました。奥様のお父さんは、太平洋戦争で戦死されましたね。どういう方だったのですか。

家内の父の経歴書がありますから、お目にかけましょう。それから、死後50年経って、50年忌のときの家内の挨拶の下書きが、ワープロで打って、取ってあります。それをご覧になったら、お分かりいただけると思います。

これが、第八艦隊先任参謀だったときの、おやじさんの、戦死する直前の写真です。椰子の木があるでしょう、場所はラバウルです。ラバウルから飛行機でトラック島へ戻って、それから日本に帰る予定だったんです。それでラバウルからトラック島へ向かう途中で、乗っていた飛行機が撃墜されたんです。搭乗員のほかは、おやじさん一人だけでした。昭和19年11月ですけど、もう制空権も制海権も失っていて、後で分かったことですが、暗号も解読されていたそうですね。
これが、戦争中のおやじさん一家の写真です。これが家内、4人並んだ姉妹の長女です。

(奥様)まあ、お恥ずかしい。どうぞ、私のことは主じゃありませんから。

−−いや、得能さんというと、まず海軍兵学校があって、また、すごく影響を受けた人で、しかもそのお嬢さんと結婚することになったという歴史的事実があるわけですから(笑)。

この履歴書を見て下さい。すごいです。立派な人だったと思いますね。

−−恩賜の短剣ですね。海軍兵学校でも、最優等生ですね。

そうです。すごいでしょう。兵学校を二番か何かで卒業しているんです。
当時のアメリカ大使館付武官補佐官にもなっています。

−−よくよく優秀な方だったんですね。

五・一五事件の判事をやっているんです。

−−海軍軍法会議の判事ですか。すごいですね。

(奥様)考えてみれば、ずいぶん早く亡くなったんです。40才でしたから。

−−40才ですか。以前に、得能さんから、未来の海軍大臣と言われた人だったとうかがっていましたが、そうでしたか。

そのおやじさんに似た孫が沢山出来ると、大変だけど(笑)。

−−いや、みんな素晴らしく優秀なお孫さんばかり、9人もいらっしゃるというのは、得能さんのDNAもさることながら、このひいおじいさんのDNAが、また相当すごいんですね、掛け算されていますね(笑)。そうですか、金鵄勲章を授与されて。

それが、おやじです。

−−兵科は砲術ですか。

そうです。あのころは、砲術科にみんな優秀な人が行きました。

−−タマを当てるのが、非常にむずかしい時代だったんでしょうね(笑)。

適当に撃つわけにはいかんですから(笑)。これが、恩賜の短剣です。

−−話には聞いていましたが、これがそうですか。菊の御紋付きですね。

これが鞘(さや)ですけど、鞘に入れると錆びるから、こうして別に保存しているんです。それで東京都庁に行きましてね、短剣の所持許可書をもらって、ちゃんとしているんです。

こっちは、広島県人ですから浅野侯爵家ですか、恩賜の短剣をいただいたときに、浅野家からのお祝いにいただいた短剣です。

−−忠臣蔵の四十七士、浅野内匠頭のご本家ですか。すると、栄誉の短剣が二本あるんですね。

この恩賜の短剣は、私が貰ったわけじゃないですけど、家内が木阪家の長女ですから、私の家で保管しているわけです。

−−得能さんの保証人になられたということは、やはり広島のご出身だったからですか。

そうです。だけど、保証人になってもらうのに、どうしておやじさんに頼んだのかなあ。

(奥様)あなたのお父さまが、付属小学校の校長をしていらして、私の母の兄弟姉妹が10人もいて、みんなその小学校に通っていましたから、10人の父親だった祖父が父兄会の会長をしていたんです。
それで、毎年、秋の松茸の頃になると、会長さんの家に先生方を全部お呼びして、ご馳走するということになっていたらしいんです。
ですから、父兄会長の娘だった母の旦那で、海軍で恩賜をもらったような人がいるということを、校長先生だったお父さんがそこで聞いて知っていて、自分の息子が兵学校に入ったというので、ああそうだ、あの人に保証人を頼もうということになったらしいんです。

−−そうですか。

(奥様)母の実家と、この人が住んでいたところが、すぐそばだったんです。500メートルも離れていなかったんです。

その家の前を通って、いつも小学校に通っていました。

(奥様)私のおじいちゃん、おばあちゃんの家です。

−−やはり、ご縁があったんですね。

そこは、「みつき井」という造り酒屋で、その真ん前が「酔心」なんです。

−−広島の有名なお酒の「酔心」ですか。

そうです。「酔心」の真ん前が、定森という苗字で、屋号が「みつき井」ですね。家内のお母さんの実家なんです。

(奥様)江戸時代から続いた造り酒屋だったんですけど、いまはもう止めちゃっています。

家内は、お母さんの兄弟姉妹が10人もいるんですから、従兄弟が30人くらい、もう大勢いるんですよ(笑)。この間、サッカーの会長を辞めた長沼さんもいとこなんです。いとこ会をやると、長沼さんがいつも出てきます。ほかにもいっぱい、いろんな従兄弟がいます。

−−なんか、もう感心することばかりで(笑)。

そりゃあもう、おやじさんはすごいです。すごいと思いますよ。履歴を見てもそうだし、きれいにパッと散ってしまいましたが。
私が兵学校の夏の休暇で、おやじのいる東京に帰ったときは、保証人ですから、必ず挨拶に行くんです。そのころ、海軍省の軍務局二課長で、当時は中佐でした。
海軍省に行くと、まわりの人みんなが、「おお、来た、来た」と言うんです。みんなベタ金の参謀肩章を付けていて、私を見て「兵学校の何期生か」なんて聞くんです(笑)。それから、みんなで水交社に連れて行ってくれて、「おい、酒を飲め」と言うんです。だから、「兵学校生徒は飲めません」というと、「いいから飲め」といって飲まされて(笑)。いや、何回かそういうことがありました。