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得能正照自叙伝「発明街道」

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第2章 製紙への入門

−−得能さんは、ホンダの創業早々のころ、本田宗一郎さんにお会いになったことがあると以前にお話を聞いたことがありますが。

ええ、昭和22年だったと思うんです。

−−22年というと、得能さんが結婚された年ですか。

そうです。そのころ、本田さんが昔やっていた小さい発電用のエンジンを自転車に付けて、燃料タンクは細長い湯タンポみたいなものにして、後輪をベルトで回す式の自転車用のエンジンを売り出したんです。私は、それが欲しくて、リュックを背負って、どこだろうかと探しながら、浜松まで行ったんですが、それが、本田宗一郎さんのやっている工場でした。私は、知った人にも分けてやろうと思って、3台か4台、井出製紙の創業社長とか、家内のイトコにもあげたりしましたが、そんなつもりで、現金をリュックに背負って買いに行ったんです(笑)。

本田宗一郎さんと、ほかに4〜5人の作業員がいて、みんな作業服を着て、作業をしていました。私が、これが好きだから買いたいと言ったら、宗一郎さんが、「いやあ、もちろん売るけんど、あんた、そんなにエンジンが好きだったら、ウチの会社へ投資しないか」と言って、あれは20万円だったか、30万円だったか、ウチに投資しろよと言われたんです。私もホントに好きだから、それじゃ本田さんの会社に投資して、従業員になってやろうかと思って家に帰ってオヤジに話したら、ものスゴい勢いで怒られたんです。カネは、オヤジから借りようと思っていたんですが、とんだ思惑違いでした(笑)。そのとき、本田さんに初めて会って、もうビックリしたんです。その後、しばらくして、沼津市の原に新しい工場を作って、何とかいうサイクルをやりだしたんです。

−−ホンダの「カブ号」のことでしょうか。

なんか、最初はごく小さいオートバイでした。それは、その後なんです。だから、何10万円か払っていたら、私はホンダに行って、ずっと働いていたと思うんです。本田宗一郎さんは、初対面の私にも投資させようという、そういう型破りの人でしたが、新しいことを次から次にやって行きましたから、それからも、私はいつも、一番関心を持っていた人でした。

−−得能さんご自身は、その頃は朝日製紙に居られたんですか。

いや、まだ入っていません。その頃は、井出製紙です。井出製紙の入山瀬工場で、ちり紙を作っていたんです。私の姉がもう結婚して、姉の亭主の井出正則が専務かなにかでしたから、そこへ時々行っていました。そういう状況の時に、私が結婚したわけです。そして、結婚後に朝日製紙に移ったんです。

−−奥さん、大変失礼ですが、ご新婚の時代はどうだったんですか。

(奥様)大昭和の広い社宅に住んでいました。両親と4人です。

−−吉原の、あの大きいお家ですか。

そうじゃなくて、前の大昭和の社宅だったんです。戦時中に、オヤジが東京からそこへ疎開して来ていたんです。東京の蠣殼町から疎開して、そこに住んでいました。結婚式は富士宮の浅間神社でした。披露宴は、朝日製紙の社長の斉藤信吉さんの家です。それで、新婚旅行は伊豆の長岡温泉へ、米を持って行きました。あのころは、コメを持って行かないと、食事を出してくれなかったんです。そんな新婚旅行でした。二晩か三晩泊まって、帰ってきました。家に帰ったけど、すぐ名古屋に用事があって、出掛けて、それからはもう仕事ばっかりで、家内は家で掃除だ、食事だ、でしたが(笑)。

(奥様)その頃は、畑も作っていましたし、ニワトリもたくさん飼ってたし、結婚してすぐ、麦の収穫期で、脱穀機を家中で使ったり、それからサトウキビを植えて、砂糖を絞って作ったりもしました。サトウキビは、こうナイフで皮を取って、綺麗にするんです。そういうのをやったり、何でもしました。味噌、醤油も作ったし(笑)。

−−何もかも、初めてでしょう。

(奥様)ええ、それまでは全然、やったことが無かったですけど(笑)。

私の方は仕事専門で、あっちへ行ったり、こっちへ行ったり、それから、オートバイが好きになっちゃって、オートバイを買って(笑)。

(奥様)なんだか一人だけ楽しんでいて、こっちは、もう大変だったんです(笑)。

例の、エンジンの付いた自転車で、チャッチャカ、チャッチャカ走り回って、それが間もなく飽きちゃったから、こんどはAGSとかいう普通のオートバイの古いのを買ってきて、それも飽きちゃって、それで東京へ行って、ハーレイダビッドソンを買って(笑)。

−−もうその頃からハーレイですか。

5万円だったんです、その頃は。インフレで、何もかもどんどん値上がりするんです。そのとき、朝日製紙に入っていましたから、朝日の入山瀬工場で、ちり紙を作っていました。あれは平判で、こう這わしておいて、ワクをカラカラ、カラカラ回しながらカマで切るんです。私が工場長で、事務所は女の子が二人だけ、それに事務長が一人と、あとは全部現場でした。

それで、朝日製紙の社長が、吉原の何とかいう紙屋さんにちり紙を売るわけです。ところが売るのを見ていると、インフレで値段がどんどん、もの凄く上がるもんだから、どんどん高くなるんです。だから、その紙屋のおじさんが、トラックで受け取りに来たとき、「悪いけど、それをオレに売ってくれないか」と言ったんです。そしたら、「いいよ」と言うから、紙屋のおじさんが持って帰る値段で私が買って、それから一カ月、自分の工場の倉庫にそれを入れておいたんです。
一カ月経って売ると、またドーンと値上がりしているんです。それで、結構儲かったんです(笑)。そんな悪いこともしていました。

(奥様)それは知りませんでした(笑)。

オートバイは、物品税がかかるでしょう。だから、物品税がかかると厄介だから、ハーレイを買ったときは、税務署の課長やなんかと一緒に、オートバイに彼を乗っけて長岡へ遊びに行って、物品税負けてくれなんて(笑)、そんなことをやっていました。面白かったですよ。いまでも、そこを通ると思い出します。あの工場は、ビーターを水車で回していたんです。

−−朝日製紙の入山瀬工場ですね。

そう、大きな水車を回して、ラインシャフトを通して、ビーターをパタパタ、パタパタ、回していたんです。

−−それは、今でもあるんですか。

工場は今でもあります。水車はないですよ。あの工場は、朝日製紙の社長が、駿河銀行の頭取の息子さんに売ったんです。その息子さんが、あとで頭取になりましたけれどね。駿河銀行の頭取はゴルフが好きでした。私も、後にゴルフを一緒にしたことがあります。

−−日本も一番活力のある、素晴らしい時代でしたね。

戦後の面白さというのは、こたえられなかったですよ。

(奥様)それは、男性はね(笑)

遊びから仕事から、やり抜きましたから(笑)。

戦争に負けて帰ってきて、アメリカには負けちゃおれないと思っていたでしょう。それで朝日製紙のときに、自費でアメリカに行ってみて、もうあまりの凄さにビックリして帰ってきたら、朝日製紙をクビになっていたんです。

−−2〜3日後に知一郎さんが来られたということでしたね。

いや、実際は、私がアメリカに行ったときは、もう朝日製紙をクビになっていたんです。親父やおふくろはそれを知っていて、知一郎さんに話したんです。それで、帰ったらウチにすぐ入れろという話で、みんな出来上がっていたわけです。
本人の私だけが全然知らなかったんです(笑)。帰ってきて、朝日製紙に行ったら、みんなそっぽを向いているでしょう、あんたはクビだというわけ。それでも、家の連中は、何にも話してくれていなかったんです。
自分で車を運転して行ったんです。クビだと言うんで、ああそうですかと、荷物をまとめて家に帰ったら、次の日の朝、大昭和の知一郎社長がポッと来て、親父と私と三人で、「マサテル、お前は大昭和に来い」というわけ。

私は、「製紙はもういやだ。こんな世界から遅れた産業ではいやだから、ほかの仕事をやりたい」と言ったら、「ダメだ、いまオレはパルプ工場の建設をやっていて忙しいから、その手伝いをやれ」というので、結局、パルプ工場の建設に行ったんです。クラフトパルプですが、そこに一年いました。

−−そのパルプ工場はどこですか。

鈴川です。それで、一年ぐらいやった頃、「社長室に来いというてます」と言うんで行ったら、知一郎社長が辞令をパッと出して、「お前は吉永工場だ」(笑)。
それまでは、長網しか知らなかったんです。それで、パルプが面白かったから、パルプをずっとやりながら、途中で昼飯交代だとか何かがあるときは、工場の方に行って、鈴川の運転員やなんかとダベって、お前んとこの機械、こうやった方がいいんじゃないかとか、そうだとか言って、みんなと紙抄きの話をしていたんです。ところが、吉永に行ったら、ぜんぶ板紙でしょう。まるで違う世界で、がっかりしました。

「板紙」との運命的な出合い

−−しかし、すごい出合いでしたね、板紙との。

板紙を見て、もうビックリして、これじゃダメだと思いました。それからですよ、ダーッとやりだしたんです。次から次にやらしてくれますから(笑)。
板紙というのは、折りたたんだりすると、クラックが入るんです。丸網というのは、タテに対してヨコの強度が3分の1ですから。だから、表面は1対1ぐらいの長網でなければダメだと、上に長網を流すことを考えたわけです。

−−タテ・ヨコの強度が1対3分の1ですか。

そうです、タテが100に対して、ヨコの強度が30ぐらいしかないです。ところが、紙紐がありますね、あれは丸網でないとダメなんです。タテの強度が必要ですから。

−−タテの引っ張りが強いんですね。

そうなんです、紙紐は。いまはもう無いですけど、びゅーっと撚っていましたね、あれはみんな丸網だったんです。

−−それが、長網は1対1ですか。

1対1か、1対2分の1程度です。

−−それを丸網の上に乗せると、タテ・ヨコの強度はどうなるんですか。

表面のタテ・ヨコの比がよくなるから、割れないわけです。

−−タテ・ヨコの強度差の少ない紙が出来てくるということですね。

そうです。それと、もう一つは、箱にした場合に、こうタテが、積圧が強いようにするためには、こっちの方へ繊維が流れている方が良いということです。
だから、キャラメルの箱でも何でも、そういう箱のデザイン、形式の取り方をしていますし、段ボールも、段がタテに入るようにしているわけです。これが逆だと、くしゃっとなりますから。ですから、紙の場合だと、タテに対して、ヨコはどのぐらいの強度があるかということが、一番大切なのです。

−−そうですか、長網の場合は1対1か、1対2分の1ぐらいですね。

そうです。これは、どうしてかというと、長網の場合はワイヤーから出てきたときは、1対1ぐらいなんですが、プレスを通って、ドライヤーを通って、ずーっと行きますと、少しずつ繊維がタテに並んでくるでしょう。だから、こういう風に1対1になっていた繊維のヨコが、弱くなるわけです。ところが、丸網とか、そういうので抄いているのは、ワイヤーがこう回るので、繊維が最初からみんなタテに並んでいるんです。だから、タテには強いんです。長網はこうなっているけれど、全体のドライヤーの引っ張りだ、あれだということで、少しずつこういう風に繊維がタテに並んでくるから1対1以下になっちゃうんです。

それを無くするためには、余り引っ張らないで、緩みをうんと大きくする、しわになる寸前ぐらいまでドロー(引っ張り)を緩めて紙を抄くと、タテ・ヨコの比率がものすごく良くなるんですけれども、それはどういう用途に使うかというと、クラフトのセメント袋ですね、あれは、ドンと落としたときにバッと破裂すると困るから、タテとヨコの比を良くするように、みんなドローを緩めて抄くわけです。もう、シワが入るか入らないかぐらいまでですね。これは、私が自分で抄いていたから、よく知っているんです(笑)。

−−それで相当、苦労されたんですね。(笑)

そう。大昭和の鈴川でね、セメント会社とやり合ったりして(笑)。タテ・ヨコのバランスを良くするためには、引っ張りを緩めるんです。そういうことを全部知っているのはオペレーター、運転員ですよ。だから、それを解決するためには、こんどはドライヤーの途中で、生ゴムみたいな厚いゴムで、こうキュッと絞って、それでクレープを付けるんです。
そうすると、目で見ても分からないけれど、細かいシワが付いているんです。そういうやつは、もうセメント袋などには全くいい紙になるんです。

−−クレープ付きの、引っ張りに強い紙ですね。

そういう開発をずーっとやるわけです。いまでもそうでしょう。それはね、オペレーターをやっていないと、分からんのですよ。

−−話を蒸し返すようですが、知一郎さんの話は、なんど聞いても面白いですね。

いや、ひどい目に遭いました(笑)。色んなことがありましたからね。ローマ・オリンピックのとき、大昭和の小掛選手が三段飛びに出るから、斉藤孝と応援に行こうと段取りして、オリンピックのキップを買って、二人で知一郎社長に言って、「ちょっと孝君と海外旅行に行って来ます」と許可を取って、初めて孝を連れて行ったんです。それで、ハワイに寄って遊んで、サンフランシスコに寄って遊んで、ニューヨークに行ったら、孝が、アメリカばっかりじゃ面白くないから、ニューヨークからメキシコへ行こうというんですよ。

よし分かったと、メキシコまでまたキップを買って、ニューヨークからメキシコに飛んで、メキシコで遊んで、そしてニューヨークまで戻って来たら、伊藤忠から、「知一郎社長が、すぐ電話せいと言っている」という伝言です。
どうしてだと訊いたら、伊藤忠の幹部が、知一郎さんに、「いまは田舎に行っていて、連絡が取れないと言っておいた」というんです。それで、「帰ったらすぐ電話させると約束させられたから、電話して下さい」と言うんです。弱っちゃって、その夜、すぐ電話しました。すると、「すぐ帰れ」です。「孝も一緒か」「そうです」と言ったら、「一緒にすぐ帰れ」なんです。「すぐ帰れと言われても、スイスのブラウンボベリに電機の打ち合わせの用事があるから、スイスまで行かないと仕様がないんです」と言ったら、「お前たち、まさかオリンピックに行くんじゃないだろうな」。すっかりバレているんです(笑)。

それで、「小掛が出るんだから、ブラウンボベリに行ったついでに応援してやろうと思っているんです。どこがいかんのですか」といったら、「ダメだ。お前たちは、仕事で行っているんだから、ブラウンボベリに行ったら、すぐ帰れ」。結局、孝と二人、仕様がないから、ローマ・オリンピックのキップをキャンセルして、ブラウンボベリで仕事をして、そのままパーッと帰ってきたんです。そうしたら、了英さんには笑われるわけ。「お前ら、オヤジがそう言ったからって、急にマジメになって、応援にも行かないで帰ってくるヤツがあるか」なんて、両方から怒られて、散々でした(笑)。

大昭和製紙社長の斉藤了英さん

−−ところで、率直にうかがいますが、得能さんは知一郎さんの秘蔵っ子で、しかも大昭和の大変な功労者だったのに、知一郎さんが亡くなられた後、了英さんとの関係がこじれて、結局、お辞めになったということだと思うんですが、真相はどういうことだったんですか。

これがその当時の、昭和37年の日記帳です。大昭和を辞めて、レンゴーに移る前後の日記ですから、これにみんな書いてあるんです。「臥薪嘗胆」なんて書いてあります。神尾部長というのは、当時は神尾常務だったんです。彼から電話があって、「本社勤務について」というのは、私に出された辞令です。
本社勤務という辞令ですが、「本社勤務について、役職を与えることはモトノモクアミとのこと」と、これは「社長談」という注釈つきで、「一日中不快なり」と書いてます。昭和38年1月5日に大昭和の役員会があって、その役員会の内容も、これに全部書いてあります。

非常に不愉快でしたね。本社勤務の辞令を受け取って、それから、新旧工場長挨拶でしょう。それで、この1月6日に、退職願を書いたんです。そして、9日に「長谷川氏から電話」がかかってきて、「レンゴーの井上貞治郎社長が面談したいということだった」とあります。

−−6日に辞表を出されたんですか。

いや、7日に本社勤務の辞令をもらったんです。それで、前の晩の6日には退職願を書いていました。この前後に、色んな人に会っているんです。レンゴーの井上社長が会いたいと言っているし、小林の社長からコンサルタント会社を一緒に作ろうじゃないかという話が来たり、伊藤忠とか、色んな話があるんです。その一方で、遊びにばかり行っているんです(笑)。それで、1月16日に、東大の近くの大西旅館でレンゴーの井上社長と夕食をしたんです。このときに、頼むと言われて、それでもまだ返事はしていないんです。

色んな人から話がありました。伊藤忠の越後専務と面談したり、このときは越後専務が大王をやってくれという話。それから、三興製紙の剣持社長との面談で、来ないかといわれたし、凸版の野路さん、本州製紙の牛山さんとも会いました。それで、「小生退職の件で神尾さんと会って、二月いっぱいで退職とハラを決めた」とあります。ここのところで、「レンゴー利根川工場は、白老工場と比べ、設備のムダはどの程度か。長谷川にはいろいろ厄介になる、申し訳ない。利根川工場だけは、名実ともに立派な工場にしてあげたい云々」という話をしていたんです。この日記には、当時のそういう色んなことが書いてあるんです。ここのところ、2月の5日に、レンゴーから正式な話があったんです。

−−そのときの斉藤了英さんの出方というか、それはどうだったんですか。

私とは全然話をしないんです。一番最初に会って話をしたといっても、いきなり、「そんなに言うならお前が社長をやれ」と言うんです。だから私は、「あんたは斉藤知一郎さんの長男だから、社長をやるのは当たり前で、私が何で社長をやるんですか」と言ったんです。結局、一番の発端は、斉藤了英さんの奥さんが、気学というか方角というか、そういうものに凝って、そっちの方にのめり込んだんです。それで毎年、人の生年月日と名前を書き出したものを持って来るんです。
その中で、今年はまずいという人はチェックして下さいとなって、私の名前が一番にチェックされたんです。それで、「これは外す」となったんです(笑)。

了英さんは、お前をクビにするわけじゃない、本社へ行って遊んでいろと言うんです。本社には机もないんですよ。それじゃ困るといったら、そんなら遊んでろというんです。遊べ言われても、遊ぶカネがないといったら、それじゃあと、給料を倍にしてくれたんです(笑)。

−−ホントですか。

ええ、本当の話です。本社勤務で何もしない代わりに、給料を倍にしたんですよ。それで、私は、もうこんな会社には、こういう社長に使われるのはダメだと、痛切に思いました。

−−こんな話、どこまで書いていいのか、迷いますね。

それはかまわないですよ。歴史ですから。

−−自叙伝というのは、真実だけを語るものでしたね(笑)。世間では、なぜ得能さんが大昭和をお辞めになったのか、いまだに怪訝に思っている部分もあります。得能さんは、知一郎さんの秘蔵っ子だったわけでしょう。

そうだったんです。人からも、そう言われていたんですけど(笑)。まあ、あれや、これやがあって、結局、喧嘩別れのようなことで、全然ダメだったですね。

−−斉藤了英さんといえば、アメリカでただ同然で捨てられていたチップを、チップ専用船で日本に運んできて、パルプから一貫の製紙工場を運営するという発明をされた人でしょう。その発明のお陰で、日本は資源もないのに世界第二位の製紙王国になりました。そういう天才が、もう一方で得能さんの問題を引き起こし、後年のゴッホやルノアール、その他のスキャンダルなどもあったわけで、その辺のことは一体何だったんでしょうか。

いや、ゴッホやなんかを買うのと同じような感覚で、私にも対したんです。そういう性格なんですよ、人間的に。その感覚とばったり合ったらどんどん行けるけど、合わなかったら全然ダメ。要するに、バクチ打ちみたいなもんです。自分は生まれついてのオーナーですから、自分がいいと思ったらバッと変える。それがぼんと値上がったら、もの凄く儲かる。逆ならドーンと落っこちる(笑)。

世間が言うような不道徳やなんかではなくて、感覚的にそうなんです。だから、話を聞いてみて、私は、まわりにいい人がいればよかったんだがと思うんですよ。
了英さんが、アメリカのチップを船に積んで持ってくるという仕事をしたあの当時、進言したのは斉藤喜久蔵さんです。彼がそういうすごい感覚で兄貴に話したんです。「あっ、そりゃいい、やろう」。了英さんは、こういう感覚で、どんどん行くわけです。だから、前にもお話しましたが、私がレンゴーにいた当時、海外出張からの帰りにハワイで出会って、二人だけで中華料理店に行って食事したときは、ちょうど大昭和に住友系がどっと入ってきて、彼は会長かなんかに外されて、それで、彼は仕様が無くて、ハワイに来ていたわけです。私はそのとき、大昭和を辞めてから初めて彼と会ったんです。

それで、「あんたは住友銀行に全部イカれた。知一郎さんの長男でありながら、どうしてそういうことになったんだ。私は心外だ。私は知一郎さんにも厄介になった。あんたは長男としての価値がないじゃないか。なんで住友銀行を追い出さないんだ」と言ったら、「どうやったらいいんだ」というから、「銀行は一軒だけじゃないですよ。帰って、丸紅にでもどこにでも聞いて、銀行を全部切り替えたら、またやれる。住友を追い出したらいいじゃないか」と言ったら、「そうだ、お前の言う通りだ」と言って、すぐ帰って、本当にやったんです(笑)。

−−本当にやりましたね(笑)。

あれは、私が言ったから、やったんです。ああいうのは、了英さんの感覚ではないんです。ヒトに言われて、あっ、それが良いとなると、ばっと走るんです。
絵もそうなんです。昔から絵が好きでしたから、画廊のおっさんに言われて、ゴッホの絵かなんかを、これは値打ちが出るよと言われて、よし買おうとドーンと行くんです。カネなんか、関係ないんです(笑)。そういう性格なんです。自分の頭で考えて、こうやるという性格では絶対ないと思いますね、私は。

−−そうですか、血を分けたイトコでも、随分違うんですね(笑)。

やっぱり、人の意見を聞くことは聞くけど、全体の考え方、自分のポリシーというか、こうあるべきだということを考えて走らないと、ああいう問題が起こりますね。どうしてあんな性格になってしまったのか知りませんけど、私は自分の問題で非常にイヤな思いをしました。だけど、ハワイ以来、仲直りしてからは、50号機などの問題もあったし、いつも「一族の中じゃ、お前が一番だ」とかなんとか、そんなことをよく言っていましたね。

新幹線の中なんかで会うでしょう、向こうから見つけて、必ず声をかけて来るんです。レンゴーにもよく電話を掛けてきました。会議中でも何でも、おかまい無しなんです。終いには、彼が可哀想で仕方がなかったです。だから、昔のそういうイヤな思いは、その頃は全く無くなっていましたね。

生涯を通じての恩師、斉藤知一郎さん

−−ところで、知一郎さんが亡くなられたときは、どんな様子だったんですか。

そのころ、私は白老工場の板紙の試運転をやっていました。それで、一週間ぐらい白老に行っていたんですけど、帰りに、喜久蔵さんが「おい、ちょっと札幌に寄って、一杯やって帰ろう」と言うんで、札幌に寄って、試運転成功の祝杯をあげたんです。それで帰ればいいものを、東京に着いたら、こんどは銀座に寄ろうと言うんです。

知一郎さんはその頃、身体の具合が悪かったんですよ。結局、私は二日ぐらい遅れて帰ったんですが、真っ直ぐ社長の家に行って、「得能ですけど」と言ったら、女中が出てきて、「得能さん、あんたには会わないと言っています。社長は絶対会いませんよ」というんです。どうしてですかと聞いたら、「あの遊び人、オレが待っていることを百も承知なのに、帰って来やしない。あんなヤツに会えるか」と言っていて、絶対会ってくれないですと言うんです。
それで、仕様がないから奥に聞こえるような大きな声で、「社長、サンプルやなんかはみんな置いて行きますから、報告はしませんけど、よろしく」と言ったら、女中がまたすっ飛んできて、上がれ言うてますというわけ(笑)。それで、上がったら、怒っていてね、「お前何じゃい」「いや喜久蔵さんと一緒だったから仕様がないんです」「喜久蔵なんか、もう相手にするな」とか何とか言って、「まあ、それはいい」となったから、それで白老の紙を見せたら喜んでね。「お前、ここまでやってくれたか」とすごく喜んでくれて、「一緒にメシを食おう」と言われて、夕方でしたから、そこでメシを食べて、ようやく家に帰ったんです。

それから1週間か10日ぐらいしてからですが、様子がおかしいというんです。親父やなんかは知一郎社長の家に飛んで行って、詰めていたんです。ところが、亡くなる直前に、比奈の知一郎さんの家がパッと全部停電したんです。私は外にいたんですが、停電してしばらくして、パッとついたら、亡くなっていたんです。親父は、そばに付いていました。

−−不思議なことがあるんですね。

ええ、あるんです。停電したんです。それを知っている人は、余りいないと思いますね。

−−病気は何だったんですか。

肺炎か何かだったんです。風邪をこじらせたというような、老人性の病気でした。あの人はひどかったですよ(笑)。私がアメリカに出張して、羽田の飛行場に夕方やっと着いたら秘書が待っていて、飛行機のキップを私に渡して、「社長が、これを渡せ。次の朝5時に家に迎えに行くと言っている」というんです。札幌行きのキップなんです。それで、車で家に帰って、アメリカ出張の荷物をほどいて、片づけて、翌朝5時に社長の車が迎えに来たので、それに乗ったら、社長の家に寄って、社長が乗り込んでくるんです。
「社長も行くんですか」と聞いたら、「オレも行く」というんで、社長と二人で札幌に行って、それで白老に行ったんです。飛行機の中で、隣でタバコを吸ったら、怒られて(笑)。

−−知一郎さんは、タバコを吸わなかったんですか。

吸わなかったですね。「お前、飛行機の中で、なんでタバコを吸うんだ。飛行機が火事になったらどうするんだ」「済みません」なんて言って(笑)。そんな人でした。それで、建設工事で白老に一週間ばかりいました。一緒になってやって、それが終わったから、「それじゃ、もういいですね、私は吉永があるから帰らなきゃ」と言ったら、「ダメだ、お前はこれから三原へ行け」と言うんです。
それで、「じゃあ三菱に行って来ます。だけど、私はカネも何も無くなっちゃって、どうにもならんです」と言ったら、「おう、お前に小遣いをやるわ」と言って、五百円くれました。当時の五百円紙幣を、チリ紙みたいな紙に包んで呉れるんです。「社長、五百円じゃあ」というと、「五百円あったら良いじゃないか」(笑)。

それで、羽田に着いたでしょう。羽田に着いたら、秘書の何とかいう人が迎えに来て、得能さん、キップがありますからと広島までのキップをくれたんです。それで汽車に乗って行きましたけど、いつも、ホントにひどい目にあいました(笑)。まあ、それでも、費用は全部出してくれますから、小遣いは要らないんですけれども、五百円だけ(笑)。そういうようにして三原に行って、白老の機械の打ち合わせをして、帰って、それから、やっと吉永に戻りました。それぐらい使われたんです。

ですけど、それがまた、もの凄くプラスになりましたね。工場長だけれども、普通ならそんな仕事を、30代の終わりぐらいのあの年代で出来るわけがないです。若いときに、それが全部やれたんです。やらして貰ったんです。それは、非常に身に付きました。有り難かったと思います。もう、最高の人だったと思いますね。その代わり、最高にひどい人だったと思いますね(笑)。カネは呉れない、仕事はうんとさせる。結局は有り難いことでしたが、普通はそうは考えないと思いますよ。うんと仕事をさせるけど、ケチで、カネはこれしか呉れない、とか考えるんじゃないでしょうか。

私は、うんと仕事をさせて貰っているから、給料は安くても良いと、ある程度、そうは思っていました。給料は少ないけど、仕事も少ないというのは、やっぱりダメです。給料は少ないけど、仕事はうんとあるというのが、これが最高です(笑)。非常にやりがいもありますしね。自分の身体に、身に付きますから。それで、私は吉永の工場長ですけれど、年が若いから、ほかの課長なんかより給料はずっと少なかったんです。

−−そうだったんですか。

ええ、非常に少ないです。その代わり、工場長の接待費というのは、もの凄くありました。そりゃあ、自分のものは買えないですよ、だけど、飲んだ、食った、遊ぶのだけは(笑)。ひどい目に遭いましたけれど、非常にプラスになりました。それが、やっぱり、レンゴーに移っても、それからも全部、ずっと身体に付いていましたから、仕事だけは出来ましたね。

−−「秘蔵っ子」だったんですね。

やっぱり、あの人は、自分の息子に対しては余りきついことは言えない人ですからね。自分の息子には、言えない人だったんです。その代わり、私に対してはキツかったね(笑)。だけど、私が兵学校を出て、第一駆逐隊で戦地へ行くとき、あの人のところへ「これから戦地に行きます」と言いに行ったら、あの人は心配して、いやあもう絶対に戦死するなよと言って、小遣いをびっくりするほど、もの凄く呉れたんです。心に沁みました。何千円だったかな、あの当時のカネで、海軍少尉の給料が百円かそれぐらいの頃ですよ、それを全部、こう持ってね、それで戦地に行ったんです。北海道の北東方面艦隊へ行ったわけですが、「絶対に死ぬなよ」と、もの凄い小遣いを呉れたんです。

−−頼りにしていたんですね。

どうだったのか、分かりませんけれど、知一郎さんは、生涯を通じての私の恩師です。