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得能正照自叙伝「発明街道」

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第3章 製紙開発(その1)

--得能さんは、世界的な大ヒットとなった板紙抄紙機「ウルトラフォーマー」
の発明者で、同時に、それを更に発展させた「タイガーフォーマー」の発明者ですが、板紙抄紙機の一連のご発明は、どういうことから始まったのですか。

最初のころからのことを簡単に繰り返しますと、私は最初、朝日製紙に勤めていましたね。社長は斉藤信吉といって、大昭和の斉藤知一郎さんや私の母の弟、つまり叔父ですが、独立して、岩渕の近くの富士川のすぐそばに、4台の長網抄紙機のある本社工場と、ちり紙の入山瀬工場を持っていました。私は初めは、朝から晩まで現場で2〜3年、職工をやっていました。

--結婚されたのは、その頃ですね。

そうです。私は原質のパルパー係だとか、2直交代の現場の人間として勤めていたんです。それをやらないと、全部は分からないですから。
それで、自分でも紙の抄き方を相当覚えて、その積もりでやっていたのですが、そのうちに、カベに突き当たったというんでしょうか、何がなにやら、さっぱりわけが分からなくなってしまったんです。だから、思い切って、昭和29年に自費でアメリカへ行ったわけです。
アメリカの製紙工場を見たら、もう、全然レベルが違うんで、びっくりして飛び上がっちゃったんです。それで、わずか1カ月余りでしたが、いろいろ勉強して帰ってきたら、前に話した通り、会社をクビになっていたんです(笑)。それで、こんどは大昭和に勤めたんです。
アメリカを見て、私は製紙会社はあまりにも外国との差が大きいから、いまから製紙をやっても仕様がないと思っていました。ですから、東京に出てきて、ほかの仕事をやろうかと考えていました。印刷か何か、おやじが昭和紙製品という別会社でやっていましたから、そこにでも行こうかなと思っていたんです。

ところが、知一郎さんが突然家に来て、「おまえ、大昭和に来い」ということで、それで大昭和に入って、知一郎さんの下働きでパルプ工場の建設をやったんです。一年近くです。やがてパルプ工場の建設も終わって、しばらくしたら、「知一郎社長が社長室に来いと呼んでいますよ」というから行ったら、「オイ、お前に辞令を渡す」といって渡されたのが、吉永工場長代理という辞令でした。それで、仕様がないから、吉永工場に行ったんです。
吉永に行って、工場の中を歩いたら、長網しか知らない人間が板紙を見るんですから、びっくりしちゃったんです。こんな変ちくりんな機械で抄いてんのかというわけで(笑)。それからですよ、もう全部、板紙です。

--板紙との、運命的な出合いでしたね。

いまから思えば、そうですね。吉永工場にそのときあったのが1号機、2号機、それから5号機、6号機、7号機と、計5台ありました。それに、片艶クラフト紙を抄いている長網ヤンキーが1台、これが3号機でした。1号機、2号機が板紙で、5、6、7号機も板紙、3号機だけが昔からの機械で長網ヤンキー、という構成でした。吉永では、私はそれから、板紙抄紙機を12号機まで増やしたんです。まず、従来のままの製品はダメだということで、7号機に、オンマシンのエア・ナイフのコーターを導入して、「ジェット・スター」とか「ジェット・マニラ」という名前でドーンと売り出したんです。

それは、もう大評判になりました。特に、出版本の表紙などに使用するため、小学館だとか、色んな出版社の資材部長に褒められて、飛ぶような売れ行きでした。それまでに無かったような大ヒットだったわけです。
それで、斉藤知一郎社長が「おい、もう1台やる」というんです、こんどは8号機を。「得能、8号機をやれ」と言われて、実は弱っちゃったんです。
丸網じゃあスピードが出ないし、仕様がないから、表面の白いパルプ、つまりトップ・ライナーを表に付けるところを、長網にしてやれと思って、長網で抄いたやつを丸網に重ねて、一緒にするということを考えて、設計して、小林製作所に頼んで、8号機をドーンとやったわけです。
マニラボールとか何とかの上級の白板紙のコーターじゃなくて、初めてオール古紙の白ボールにコーターをかけたわけですね。それはもう最初から、丸網と長網とを合わしてこうやったんです。それが長網を入れ始めた最初です。
長網は得意だったから、長網を入れるのはワケないというような感覚で、長網と丸網のコンビネーションを考え出したわけです。

ところが、製品が全然売れないんです。景気が悪いし、紙も、なにしろもの凄いスピードで抄きましたから、「こんなヘンテコな紙じゃ買えない」ということをユーザーは言っていたんです。製品が売れないで、何千トンたまったのか、社長に怒られましてね。「お前の作った紙、1トンも売れないじゃないか」と言われました。それで私は、「いや、売り方が悪いんですよ」いうて、「それじゃあ、私が売ってきます」と、営業と一緒に東京に出てきて、まあ、ちょっと値段を下げて、市場に出したら、少し売れ出して、ユーザーの方も試しに使ってみたら、これがもの凄く良いんです。オモテが長網だから割れないんです。それで、いっぺんに人気が出て、全部売れちゃったんです。
だから、客の方も、使ってみもしないで、見た目だけで、これはおかしいという話だったんです。まあ、表面が長網抄造ですから、表が今までとちょっと違った感じでした。それに、日本では、板紙で長網と丸網が一緒になった紙なんて、それまで無かったんです。

--そういうのをコンビネーション・マシンと言うんですね。

そう、コンビネーションです。

--コンビネーションの最初ですね。

そういうようなことを、これはヨーロッパで見てきていましたから、それをアイデアに入れたんです。ところが、全部売れちゃったもんだから、すぐ「次をやれ」という命令でした。

--知一郎さんは、「いけいけ、どんどん」の人だったんですね(笑)。

そうなんです。それで、10号機をやったんです。10号機は、L版3丁取りをやったんです。8号機までは2丁取りでしたから、取幅(紙巾)が大きいんです。

--9号を飛ばして、10号機ですね。

そう、縁起が悪いから、9と4は飛ばすんです。それで、10号機も長網と丸網のコンビネーションにしました。同じような方法で、こんどは巾を広くして、ドンとやりました。それはもう、最初からすごかったですよ。みんな売れちゃうんです。なにしろ、試運転で出来た紙から全部売れちゃったんです。そして、試運転してから4日間、一度も紙が切れなかったんです。紙切れ無しです。みんなビックリしちゃったんです。すごい機械だなあと、みんな感心していました。

--その機械は、どこで作ったんですか。

小林製作所です。全部、小林さんですよ。それが終わったら、もうすぐ次をやれというんです。次は両面コートです(笑)。両面コートで、カードでも何でもやれるやつをやれと言うんです。「分かりました、それじゃ、ちょっとヨーロッパへ行って見て来ます」と言って、ヨーロッパで、長網との抄き合わせのやり方をもう一度見て来て、アンコの部分だけ丸網のシリンダーを二つか三つ入れて、そして両サイドを長網にしたんです。いままでの経験を入れて、サンドイッチにしたんです。
コーティングは、両面ロールコーターでやりました。ロールコーターを入れ、スーパーキャレンダーも輸入して、それで、トランプの用紙だとか、幼稚園児向けの雑誌がありますね、キンダーブックだとか、「ひかりのくに」だとか、ああいう両面コートの、表面がツルツル、ピカピカのものをやりだしたんです。それも全部売れちゃったんです。

それで、それが終わったら、次をまたすぐやれと言うんです(笑)。11号機です。それと12号機とを、同時みたいにしてやりました。そして、知一郎社長が死んじゃったんです。

両面コートのカードをやるやつには、4号機という名前を付けたんです。そのころ、知一郎社長に話した一番大きな問題は、同じような板紙を、1号機でやり、2号機でも8号機でもやり、10号機でもやるというのはおかしいということだったんです。でかいマシンでドーンとやれば、まだコストが下がるのに、ひとつひとつ小さいやつをいっぱい持ってやっているんじゃダメだと言ったら、もうえらく怒られました。「お前は、外国ばかり見ていて、何ということを考えているんだ」と言うんです。「大きなマシンが出来もしないのに」といって怒るんです。

怒られはしたものの、私は、いや、やっぱり大きいマシンでこうやればいい、丸網はもうダメだ、アメリカでもヨーロッパでも、丸網はもう本当にダメだとみんな言っている。品質は悪いし、抄くのが難しいし、紙切れも多いしということで、これではいけない、もう考え直さなければダメだと思って、それから私が独自で、板紙の機械を考え始めたんです。私も、その頃には、板紙や板紙の機械で世間ではもうずいぶん有名になっていましたから(笑)。
大昭和時代の終わりごろからです。もう、板紙のことしかアタマにないんです。だから、板紙のことばっかり、あたまの中がはじけるぐらい考えているわけです。寝ても、覚めても、どうやったら一番良いものが出来るか、毎日、毎日、そればっかりでした。ですから、大昭和を辞めて、レンゴーに移ったときも、まだ、毎日考えていたんです。

レンゴーに入って、しばらくした頃、夜寝ているとき、頭の中にウルトラフォーマーの、丸網を逆にした機械の夢を見たんです。それで「これだっ」というわけで、それ以来、ウルトラフォーマーの開発にバッと考え方を切り替えたんです。
長網を使わなければならないということで、一番最初は、こういう長網の上に、小さいオントップワイヤーを乗せるというやり方の抄紙機のパテントを出したんです。この図面がそうですが、これはパテントが下りたんです。出願日が昭和35年で、下りたのが昭和41年です。出願申請は小林製作所の小林忠さんの名前で出して貰ったんです、私は、当時はまだ大昭和の人間でしたから。

これが最初の考えだったんですが、これをやろうかなと思っているときに、先ほどの夢を見たんです。それで、ウルトラフォーマーの考えが、すぐ頭の中で形になったわけです。ですから、ウルトラフォーマーは、レンゴーの考えでやったわけでもなんでもないんです。この最初の開発は、昭和35年から続いているんです。それで、出願日が昭和39年です。レンゴーに入ったのは38年ですから。
小林製作所でテストマシンを作って、やってみたところが、もの凄く簡単で、うまく行くんです。上から全部見えるし、タネ落ちは無いし、機械は綺麗になっているし、みんな、スゴイと言って驚いて、飛び上がっちゃったんです。
それで、井出製紙に1台入れたわけです。それからレンゴーの淀川工場の抄紙機も、もうどう仕様もない古いものだから、これにぱっと切り替えました。それで、両方とも非常にうまく行きました。

コストは下がるし、綺麗だし、紙は切れないし。ですから、私は外国の連中に、「戦争じゃ負けたけど、抄紙機じゃ絶対負けない」と言って回って、また、伊藤忠に非常に協力してもらって、アメリカやヨーロッパへ大々的な売り込みの宣伝に行ったんです。アメリカのBRDAのメンバー多数が見に来て、ビックリしました。それで、CCA(コンテナコーポレーション・オブ・アメリカ)とか、クラウンゼラバックとか、あんな大製紙会社が全部切り替えてくれたんです。それがウルトラフォーマーの開発の話なんです。このパテントを見ても分かるでしょう。

--ウルトラフォーマーは、板紙抄紙機の中でも、世界的な大ベストセラーですね。全部で何台ぐらい売れたんでしょうか。

150台ぐらいでしょう。これが、その当時の、海外に売りまくった時に作った資料ですが、その後、丸網だけじゃいけないというので、こういうように、短網をかけてやる方式に切り替え始めたわけです。
このときは、静岡興業で特許申請を出したんです。発明者は私の名前で、申請者は静岡興業で特許申請を出しているんです。これはハイスピードのウルトラフォーマーです。名称が「高速抄き合わせ抄紙機」になっているでしょう。
一番最初の、小林忠さんの名前でパテントを出したものは、小林製作所の名前で申請しました。こっちは静岡興業の名前です。こういう形式で、こういうようにやりますよと、いろいろ案を考えて、それでパテントが下りたんです。

これは、一連の流れから考えると、大昭和時代から私のひとつの信条としてずっとやってきたものが、一つひとつ完成していったものです。小林さんは、レンゴーと販売覚書の契約を結び、小林さんはレンゴーに契約料を払っていたんです。これが、その頃の、本当の特許関係資料です。

--昭和42年ですか。

そう、42年です。これがウルトラフォーマー関係の一連の資料なんです。全ての資料が保管してあります。

--結局、みんな繋がっているんですね。

そう、全部つながっているんです。その一連の考え方を改めて申し上げますとね、ウルトラフォーマーを思いつく前に考えていたこの「オントップワイヤー方式」(別名・インバーフォーマー式抄紙機)の特許を、日本だけじゃなく、世界各国にも申請を出して、全部取っておけば、大変なことだったと思いますね。

--その後の経過からすると、ですね。

そうです。その後、世界的な抄紙機メーカーのベロイトも、フォイトも、みんなこのオントップワイヤー方式に変わりましたから、それを全部、この特許で抑えられたでしょう。あとから考えてのことですが、そういうことがありました。
まだ、このときは、板紙をそういうオントップワイヤー方式でやるという方法は、世界にも全然無かったと思います。私は一番最初に、いろいろ考え抜いたあげく、前にお話したように、ワイヤーの上に小さなワイヤーを乗っけたらいいじゃないかと考えたんです。これは、昭和35年に出した特許申請です。

--ベロイトやフォイトは、彼らで独自に考えたんでしょうか。

そう、独自に考えたんです。後になってからですね。

--得能さんみたいな人が、ほかにもいたんですね(笑)、向こうにも。

たくさんいましたね(笑)。私はそれ以上に早く、吉永の時、もうカッカ、カッカして、いや大昭和に入る前に、朝日製紙の時にアメリカに行ったでしょう。それで、向こうの機械を見て、もう、ガクンと来て帰ってきたときですから。それがウルトラフォーマーの開発への一つの動機、スタートだったんです。
結局、一番の問題は、丸網の場合は、長網と違って上に毛布が走っていて、紙料を下から毛布にくっつけているわけです。下からくっつけるんです。だから、紙の地合を見たり、何かする場合は、下をくぐって見るしか仕様がないんです。
それに、こう下からくっつけているから、ちょっとでも振動があったりすると、上からばたんと落ちるし、そういう問題があって、トラブルだらけになっちゃうから、上から見る板紙抄紙機でなければダメだという感覚が、随分前から私にはあったんです。吉永にいるときにです。
こんなことをやっていたらダメだ、長網みたいに、上から見るように合わせりゃいいじゃないかと考えたもんだから、それじゃ、上に短網の小さいやつをいっぱい乗っけたら、そのまま上から見るように出来るじゃないかというので、この昭和35年に特許出願したんです。

私が吉永に行ったのが昭和30年ですから、板紙をやり始めて5年経ったら、こういうことを考えていたんです。というのも、海外へ行くたびに、丸網はこのままじゃダメだと考えていましたが、それで長網と丸網を合わせたり、色んなことをやったけれど、結局はダメで、それじゃ、上にやればいいじゃないかという結論だったわけです。それが昭和35年です。
これはもう、資料が正確にありますから、その通りになったと思いますね。それがウルトラフォーマーの開発の基本なんです。

--面白いですね。

そうでしょう(笑)。別に、これを発明したからといって、威張っているわけじゃないんですけれども、やっぱりこの産業に入ったからには、そういうことを考えないとね。

--入ったからには、ですね。

そう。もう一つ言えることは、機械メーカーは機械しか知らないんです。運転を知らないんです。逆に、オペレーターは運転だけで、機械を知らないんです。
抄紙機にしても、段ボール機械にしても同じですが、機械も、オペレーションも、全部分かっている人というのはほとんどいないんです。だから、こういう問題があるというと、ああ、こう直せば、もっと簡単だ、もっと綺麗に、運転しやすくなるじゃないかという感覚がほとんど入っていないんです。これは、非常に困ると思うんです。
私は、両方やろうと思っていましたから、機械は機械メーカーにまかせる、こんなものは開発できんというようには考えなかったんです。製紙会社の私みたいなのが、製紙はどうやったらいいと考えて、こうやれば良いとなったら、すぐ、それを専門家の小林さんに協力してもらって、実際にやってみたんです。悪ければ、責任は私にあるんです。

--得能さんみたいな方が、その後も全然現れないですね。

昭和33年でしたか、大昭和のときアメリカに行きましてね、ミシガンカートンの大きな製紙工場で見ていたら、すごく変なことをやっているんです。ロールの位置は悪いし、カスは落ちるし。それで、私がロールの位置を変えたり、こうやったらいいと色々教えて、「あんたのところ、こういうトラブルがあって、こうだろう」と言ったら、「そうだ」と言うんです。それで、私の言うように直したら、もの凄く調子が良くなったんです。そのとき、「日本のいまの会社を辞めて、ウチに来て働かないか」と誘われたんですけどね(笑)。
アメリカでも、そんな話があるくらいですからね。まあ、機械は機械メーカーじゃなくて、そういう感覚でものを見るようで無いと、絶対にダメだと思います。日本の製紙も、段ボール企業も、そういう風な方向に変わらないと、世界には勝てないと思うんです。

--レンゴーを辞められたあとの、最近十年間ですが、その後の板紙抄紙機の開発、つまり「ウルトラフォーマー」につづく「タイガーフォーマー」の開発については、どういう経過ですか。

要するに、それからずーっと世界の状況を見ていたんです。私は、レンゴーを辞めてからすぐ、一般的に出ている海外の業界紙ですね、それを全部、直に取り寄せたわけです。ここに置いてあるのが全部そうです。
それで、代金もここからじかに振り込むというようにして。ですから、日本の本屋を通じて取るようなのと違って、日本中の誰よりも早く来るんです。つまり、日本の誰が見るよりも早く、私が一番先に見ているわけです。これを、ずっと続けているんです。

--これが全部そうですか。(注・得能さんのオフィスの窓ぎわ、床面にじかに、背表紙を揃えてきちんと二列になって並べてある。何百冊というボリュームである)

それでね、昔は、こういう雑誌に、私の名前がいっぱい出ていたものですよ。
これを見てましたら、はっと気がついたんです。というのは、いまはあれだけごついワイヤーの上に、更にワイヤーを乗っけて、つまりワイヤーパートにトップワイヤーを乗っけて、ハイスピードで板紙を抄いているわけです、もの凄いおカネをかけて。
それを見ていて、そんなものを止めにして、また丸網の方へ移るのかなと思っていたけど、丸網がどんどん、どんどん無くなっていっているわけです。丸網のでかいマシンを据えたなんていう記事はひと言も載っていないんです。それはどういうことかと、ずっと考えていたわけです。それで、アメリカに行ったときに、向こうの友だちや、なんかに聞いたんです。

すると、「そう言えばそうだな」というんです。それで、どうしてそうなるのか、あなた達はどう思うかときいたら、いや、分からないと言うわけです。「機械の投資額が高くても、生産性は上がるし、良い紙は出来るし」と、みんな、そればっかり言っているんです。
それで、私が思いついて、彼らに「ウェットエンドにウェット毛布を使っていないからでしょう」ということを言ったんです。プレス毛布じゃないですよ、プレスはプレス毛布ですから。丸網がそうです。ウルトラフォーマーもそうです。上にウェット毛布があるか、下にウェット毛布があるかの違いですね。それで、ベビイプレスをつけて、こうして、それからプレスに入るんです。肝心なところは、この差なんです。
それで、「ウェット毛布を使うこと自体に大きな問題があるなら、ワイヤーで全部やれば良いじゃないか、そんなのはもう簡単なことだよ」と私が言ったんです。「そりゃあ、確かにそうだ」ということで、ウェット毛布をワイヤーにバッと切り替えたのが、「タイガーフォーマー」なんです。

だから、ウェットエンドには、毛布は一切使いません。そうすると、汚れないんです。毛布だとすぐ汚れて、ああだ、こうだ、つぶれが出る、とかいうような色んな問題が出ますから、それがワイヤーだと、スピードは幾らでも上がるしということです。ですから、ウェット毛布は一切使いませんという方向にパッと切り替えて、ウルトラフォーマーの代わりに、「タイガーフォーマー」という名前に切り替えたんです。

--毛布屋さんにはショックな話ですね。

ウェット毛布が要らないんだから、仕様がないんです(笑)。ショックだろうが、何だろうが、そんなことを言っていたら、新しいことは出来ないですよ。
そしたら、ワイヤーメーカーの方は、私の方で、もう立派ないいワイヤーを作りますからと言ってね(笑)、コンベアベルトみたいなものです。ごついワイヤーでやったら、一年〜二年もつわけですから、毛布のようには交換が要らないんです。ですから、いま、私が一番考えていることは、製紙産業も、段ボール産業も、両方とも開発のやり方を考え直す必要があるということです。

--それは、従来からの考え方に、とらわれ過ぎているということですか。

そうです。それと、もう一つは三本柱ではないことです。メカと、エレクトロニクスと、ケミカルと、この三本で立つような開発をやらないとね。
ケミカルの考え方を入れると、ケミカルの人の開発によっては、排水路は要らなくなると思うんです。そうすると、製紙工場は、どこにでもできるんです。
ただ、紙1トン当たりで、水1トンはどうしても必要ですよ。ドライヤーで乾かすと、蒸気になって、1トンは空に飛んで行きますから。ただ、それだけで済めば、排水路はなくなります。そうすると、製紙工場はどこにでも出来ますという方向に、おそらくはなると思います。

だから、段ボールでも、シングルフェーサでもそうです。ものの考え方によっては、フィンガレスだ、バキュームだ、あんなのが何にもなくなって、そうすると段ロールだけで、もの凄く安い段ロールだけでいいことになります。スリットを入れたり、孔を開けたり、そんなことは一切要らないといった、そういう方向になっていくだろうと思うんです。
そういうこと、ケミカルのことを考えると、まだまだダブルバッカーなんかも半分になってしまうかも知れないと思うんです。だから、私は今後、段ボールを考える場合は、接着性を考えることが一番重要問題だと思っているんです。

私はもう年ですけど、この間も言いましたように、接着技術の話ですね、こういう考え、こういう接着性の問題がありますよということがいっぱいあるわけです。これを一応勉強しながら、ケミカルの方の考えを入れて、段ボールをやっていく必要があるのではないか。そうすると、コルゲータがもの凄く簡単になっちゃう可能性があります。要は、箱を作るんですから、これを安くする方法は幾らでもあります。いまは、あんな、ごついシングルフェーサでやっているでしょう。

--ところで、肝心の「タイガーフォーマー」ですが、その普及化の展望といいますか、現状はどうなっているんでしょうか。

いや、それがね、私がやった後に、外国の会社が、よく似た方式のものを出してきているんです。だから、その会社も、これからは、おそらくそっちの方向になると思います。私の方は、テストマシンをもうとうにやって、終わっていますからね。これが、その会社のテストマシンです。

--そうですか。早くも同調者が現れた、ということですね。

そうなんです。だから、もうそのぐらいテンポが早いんですよ。

--これはいけるなと思ったら、ひらめきだけで、すぐ始めちゃうんですね。

そうです。日本人には、それが全くないんです。日本の国民性でしょう。
これがね、そうでしょう、ワイヤーが。私の場合はずっと延びているんですよ。この会社のは、ワイヤーがここにあって、こう行って、こう行くわけです、そうでしょう。下はワイヤーが通っているんです。ワイヤーでもフェルトでも何でも良いんですよ。だから、こういう風に簡単にやると、こう小さくなるんです。

--専門家が見ると、こんな簡単な図面だけで、もう全部分かるんですね(笑)。

普通は、オントップワイヤーだと、こんな大きなワイヤーになるけど、これになると、こんな小さいものになるんです。

--なるほど。

そうすると、こんな大きなオントップワイヤーのマシンが、こんなになっちゃうんです。

--そういうことですか。

そう。これのやり方というのは、私のやり方と同じなんです。

--なるほど、そうですね。

アタマに来ちゃったですよ。これが小さくなるから、同じことです。私のこのタイガーフォーマーの設計図面は、もうずっと前に、スマーフィットに渡してあるんです。見積もりも取って、渡してあるんです。ですから、世界はそのぐらいテンポが早いんですよ。

--「ニューフォーマー・フォー・トップ・プライ云々」と書いてありますね。パッケージング・ペーパー誌ですか。

これが普通のテンポなんです。

--食うか、食われるかですね(笑)

そうなんです。だけど、私は負けないと言っているんです。パテントで負けないとか何とか言うんじゃないですよ、私の方が早かったんですから(笑)。

--多分、タイガーフォーマーの情報が流れたんでしょうね。いまは、インターネットでも何でもありますから、色んな情報が世界中に瞬時に伝わるんですね。

どこから流れたかは分からないにしても、これがいまの現状なんです。だから、これが良いと思ったら、早くどんどんと持って行かないと、日本は世界に置いて行かれると思います。

--景気が悪いからとか、どうとか言っていると、ですね。

絶対ダメです。これがそう、一つのいい例です。だから、もの凄く考えて、こうだとなったら、バッと行かないとダメです。昔のウルトラフォーマー的な感覚でないと、テンポが合わないんです。

--斉藤知一郎さん流でないと、ダメなんですね(笑)。

そう、絶対ダメ(笑)。いまの製紙、段ボール関係の経営者には、そういう感覚をよく頭に入れて貰わないと前に進まないと思います。世界中のみんながチョロチョロ行くんだったら、別にどうということはないんでしょうけど、日本はチョロチョロだけど、世界はこうバッと行くとなったら、日本は置いてけぼりを食います。
私は、そういうことを頭に入れながら、全部、外国の資料を取り、話を聞きながら前に進めていっていますが、だからといって、私の考えが取り上げられようが、取り上げられまいが、一向構わないんです。実際には、機械をこう作ったら良いと考えて、ボランティア的にやっているだけなんですから。

それに、いまのこういうのを見ても、いや、もうアタマに来たとか、参ったとかとは思ってないんです。彼らも、オレの考え方と同じ考え方だな、レベル的には私とあんまり変わらないなと、そう思っているんです。逆にね、それで私も安心するわけです。世界的に有名な外国の抄紙機メーカーも同じ考えだ、いや、これは絶対いける、というわけです。

--タイガーフォーマーは、間違いなかったということですね。

そう、間違いなかった。私に自信がつくわけです。

--それが「タイガーフォーマー」ですか。

この外国のメーカーの連中はこうして出しているけれど、私の考え方と、基本はほとんど変わらないんです。安くできるし、同じですね。

--毛布がどうという話も出ているんですか。

いや、出ていません。オントップワイヤーの代わりにこういうものを、ということです。オントップワイヤーで、こんなすごいやつをやられたら、どうしようもないですよ。
これが、やはり一つの開発の方向だと思いますけれどね。だから、私はこの会社に対して批判しているわけでもないし、逆に、オレの考えには間違いがなかったという確信なんです。

--戦うのは、この道でメシを食っている人が戦えばいいわけですね。

そうなんです。私が戦う必要はないです。だから、私は海外に行って、私の図面を見せて説明しているんです。こういう詳細なタイガーフォーマーの開発説明書、こういう詳細な資料もあるということを、私はみんなには言ってはおりませんけど、作ってはあるわけです。
これは、スマーフィット・グループの社長連中を全部集めて説明した時の資料です。1997年8月27日ですね。こういうかけ方をするワイヤーで、こういうようなやり方だと説明しているんです。全部ワイヤーです。毛布は使っておりませんから。長いワイヤーでね、それで、どういうやり方をやって行くのかというので、色々説明しました。
こういうやり方を、全部やりながら、最終的には1999年1月8日に、この方式で行こうとしたわけです、こういう画を描いてね。これはまあ、これの延長線で、コンパクトにしているわけですけれどね。いまのは、外国メーカーのこれより良いと思いますよ。

--そちらの方は、まだ、テストマシン段階だし、しばらくは迷走しないといかんということでしょうか。

私のは、もう絶対大丈夫。それで、1998年6月に作ったタイガーフォーマーのテストマシンのサンプルがこれです。スピードは800m/分ぐらいです。

--そんなに速いんですか。

ワン・ユニットで200m乗っかるんです、ひとつのユニットで。ですから、400mのライナーといったって、2ユニットで間に合ってしまうんです。
昔は、機械によっては、丸網を六つも七つも並べていましたが、これは二つか三つでいいんです。それで全部行っちゃうんです、しかも安くなります。スピードも、小林さんでテストをやってもらったんです。これでいい、これで行こうとなって、テストマシンでテストをしたところが、こういうデータが出ました。
それで、小林さんには、この図面もコピーして渡しましたから、これをスライドにしてアメリカに持って行って、板紙関係の技術者の集まりで、みんなに説明して下さいと話してあるわけです。小林さんは、もう行ったと思います。これをドーンと宣伝する予定です。うわー、これはスゴイと、みんな飛びつくはずです。うんと宣伝して注文を取ることが重要なんです。

--そうですか。

面白いでしょう。これは、もう終わったんです。私にとっては、もう終わったから、また次には、どうやるのが一番良いのかなと考えているんです。これは絶対いけますよ。テストマシンも、テスト済みです。

--800mというと、すごいスピードですね。

いや、1000メーターは出ますよ。ワンユニット当たりのスピードの、ローディングカーブがこうですから。しかも、あれだけ小さいマシンなのに、これは200メーターでのサンプルですが、良い紙でしょう。全然問題ないです。そのときのテストで抄いたサンプルが、全部あるんです。

--スピードごとにサンプルを取るんですか。

そう、これのサンプルが全部あるんです。小林さんで作ってもらったテストマシンです。これはもう、本当に良いです、こういうように、地合が全く良いですから。こういうのをやらなきゃ、ダメです。そういう面白さがあるんですよ。だから、やっているんです。
タイガーフォーマーは良い機械です。運転しやすいし、おそらく紙切れも無いでしょう。1999年1月8日のデータですから、これがタイガーフォーマーの、いま現在の状況です。これは、終わったんです。だけど、これよりもっと新しいものが出来るかも知れません。

--ここまで来ると、あとは応用編ですね。

そう、応用編です。得意先の考え方を、どう入れるかとかですね。それは簡単でしょう。それと、ここのヘッドボックスによっては、2層をやれるんです。
表とアンダーライナーとで、違う原料をこう入れたら、裏表が違いますよね。そうすると、裏表から脱水しますから、混じらないんです。

--両側から脱水ですか。

ここにヘッドボックスがあります、こう走りますね、水を下へ取るのと、上へ取るのと、上は遠心力でダーッと出てきますから。裏と表の2層が、このヘッドボックスで、こう乗っかるんです。

--そういうことですか。

これは2層、これは1層です。こうすることによって、表はうんと薄くできます。そういうやり方が全部、やれるんです。

--得能さんは、こういうことををいつ、どういうようにして考えるんですか。

いつでも考えているんです。24時間考えていますよ。

--24時間ですか。

いや、そんなことはないですよね(笑)。こればっかり考えていたら、全然ダメですよ、遊ばないと。だから、ゴルフに行ったり、家内とニュージーランドに行って、たくさん写真を撮ってきたり、それで、良い景色を見て、ああ今日はすごかったなあと思っていると、パッと夢を見る場合がありますね、いつも頭の中に残っていますから。あっと思ったら、パッと書いておくわけです。そういうやり方をしているんです。だけど、そういうことをする人が、余りいないんですよね(笑)。私は、いい言葉に出会ったときも、こうして書いているんですが、これは三国連太郎です。「働きすぎてはいけない。働きすぎると、見えるものが見えなくなる。感じるものも感じなくなる。それはとても恐ろしいことだ」というのを、何となく書き留めておいたものです。この間のニュージーランドでは、写真をいっぱい撮ってきました。写真を撮りに行ったんです。

--この写真はクライストチャーチですか。これがマウントクックですね。空の青い色が、スゴイですね。このフィルムは、例の、何とかいう特殊なフィルムですね。

そうです。それと、偏光のフィルターをかけていますから。これは、一緒に行った海軍兵学校の同期の友だち夫妻です。

--海軍兵学校が良かったですね。

私にとっては最高の学校でした。同期の友だち夫妻との友情は、何よりの宝です。