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続 東京医科大学病院の物語 2009-12-28(第1045号)

循環器内科 山科章主任教授循環器内科 山科章主任教授

植え込み型除細動器ICDのリード線配線図植え込み型除細動器ICDのリード線配線図

10月から全国各地の本紙読者の事業所の個別取材を始める予定でした。段ボール会社は製造業で同時にサービス業だとも言われ、販売員は勿論、社長さんはじめ役員全員、それに運送トラックの運転手までセールスマンたれといわれるぐらいですから、従業人員のほとんどが販売担当者でもあるという構図です。一方、本紙サイトにアクセスされるユーザーの方々が、そのまま段ボール会社のユーザー先と重なりますから、個別事業所の個別情報、製品や、その他諸々の情報を本紙サイトを通じ開示しようという計画でした。

足には自信があります。私の住む京王線多摩センター駅周辺は、高低差のある多摩丘陵の開発当初から設計図面に基づいて開発されたところで、公園とか緑地が多く、その間を縫って車道と交差しない小径、散歩道が配されるなどウォーキングには最適の環境ですから、住みついて25年の間、週のうち2、3日は歩く習慣を続けてきました。

ところが、9月ごろからなぜかウォーキングが億劫になってきました。いまから考えると危険な予兆でした。また10月ごろから首のあたりがこわばって重く、肩こりのような感じが出てきました。それに時折、めまいもします。肩が凝るなどなかった体質ですから、おかしいと、コンピュータで調べたら「頚性めまい」というのがあることを知りました。2年前に、頚椎打撲で東京医大病院に2週間入院していますから、その後遺症かとも思いました。

ところが、11月になると歩行中、特に階段を上りきった直後にめまい、立ち眩みすることが何度かあって、何か大きな異変が身体に起こっていることを知ららされました。原因は過労だと知っていました。5月ごろから本紙サイトにアクセスして下さる方々の「IPアドレス解析」を始めたら、それが面白くて、まるで憑かれたように検索を続けていました。

毎月100万件を越すアクセスがあるホームページなど、他の産業界では余り聞いたことがありません。当事者として、その100万件の構成がどうなっているかは、どうしても解明したいナゾだったわけです。

本紙サイト、自称「架け橋サイト」を開設した第1年目の平成18年から平成21年12月までの総アクセス件数は3,686万1千件です。このアクセス数に対して、ログ解析データ中に乱数表のIPアドレスとして記録された数が30万件余りだったと思います。同じIPアドレス(同じコンピュータ)から何度もアクセスが寄せられますから、30万件は延べ数です。その重複分を削除する方法がエクセルにありました。

IPアドレスのファイルをテキスト・ファイルに変換して、エクセルでデータ読み込みし、並べ替えする方法です。同一数字が同じ位置に並びますから、重複分が簡単に削除できます。

そのように重複削除して残ったのが6万件余りでした。IPアドレス数はログ解析データ全体の3割〜4割ですから、過去4年間のビジター数は全体で20万社ぐらいということも、それで初めて分かりました。

手許に膨大なIPアドレスデータが残りました。もう一件一件解析する必要も無くなりました。例えば、3カ月分でも半年分でも、累積されたIPアドレス分を、これまでのデータファイルに混ぜて、テキスト・ファイルにし、エクセルで並べ替えれば、新規ビジターだけが無地の形で抽出できることになるはずです。

ということを夢中でやっているうちに、体調がおかしくなって、個別取材に行けなくなりました。また、それは過労が原因と分かりましたから、11月には休養第一に切り替えました。お陰で体調は徐々に良くなってきましたが、時々めまいがするので、11月18日、2年前に助けていただいた東京医大病院の准教授羽生春夫(はにゅう)先生に診察をお願いしました。

「まず心電図を調べるから、25日にホルター心電図を装着に来なさい。その結果はずっと遅くなりますが、12月28日の診察で」となりました。11月26日にホルター心電図を病院に届け、少しウォーキングを復活して体調を整えなければと思っておりました。ところが、12月2日に自宅の電話が鳴って、出ると、思いがけず羽生先生でした。「危険な兆候が見つかったので、明日病院に来なさい。自分は不在だからK先生を訪ねるように」との内容でした。12月3日にK先生を訪ねると、すぐ循環器内科の宮城先生を紹介されました。宮城先生は先日の私の24時間心電図から取った"危険な兆候"を見せて下さいました。

「27連拍」でした。心室頻拍が27連でつながっている心電図です。「これが進むと突然死の原因にもなります」から「すぐ入院しなさい」ということで、「明日4日入院」となりました。その日の夕刻、全段連の年末恒例記者懇談会がありました。最初の30分ほど取材して、すぐ入院準備のため帰宅しました。突然死だけは何としてでも避けないと、折角の100万件サイトがパーになります。「命がけ」という言葉が、思いがけず浮かんできました。自分で言ったらおかしいことになりますが、本紙の100万件サイトは、もう、この業界の貴重な財産でしょうから、何としてでも守らなければと思いました。そのためには、どんな手術でも受ける覚悟ができていました。

「過労死」という言葉が新聞の社会面を飾ったりします。睡眠時間も取れないほどの残業続きで、その過労が原因で突然亡くなった話です。私の場合は、少し状況が違うのですが、その危険な状態から脱出するチャンスを得たということで多くの方々の参考になればと考え、詳細を書きます。

私が入院したのは東京医科大学病院循環器内科(主任教授山科章先生)の18階西病棟1862号室(2人部屋)です。入院中は四六時中、心電図モニターを貼り付けており、そのモニター画像が西病棟ナースセンターのディスプレイに常時映し出されていて、不整脈などが感知されると警報が鳴り、看護師さんが駆けつけるという状態でした。

12月4日に入院して、毎日が検査日。1日3回の体温・血圧・血糖値検査と、服薬検査があり、私の最初の病名は「心室頻拍」(非持続性)でした。検査内容は心エコー検査、心筋シンチグラフィー、心臓MRIから12月14日に心臓カテーテル検査へと進み、その結果、「植え込み型除細動器」(ICD)の植え込み手術が必要との診断になりました。

心臓カテーテル検査は地下1階の手術部第15号手術室で、6時間かかったと記憶します。股間の大腿動脈からカテーテルを差し入れ、心臓まで動脈を逆行で通し検査する方法でした。「まな板の鯉」という言葉がありますが、正にまな板の鯉の心境で、これさえ越せればと思っていました。

東京医大病院では毎週金曜が外来予約を含めた手術日になっているそうです。私が入院した翌週の水曜日(9日)に、同室に阿部さんが入院してきました。霞ヶ関ビルなどを手掛けたゼネコン設計チームの一級建築士で、11日の金曜日にペースメーカーの交換手術をされるということでした。7年前、ゴルフの最中に倒れ、会社の医療顧問だった山科先生の指導でペースメーカー手術をしたこと、その電池が切れるので、入れ替える手術だということでした。阿部さんは、ご自分の手術体験を何もかも教えてくれました。心臓カテーテルはこう、そのあとの埋め込み手術はこういう手順というように、詳細を説明してもらいました。

お陰でペースメーカーと機能的に少し違って、しかも一回り大型の「ICD」の植え込み手術も怖くなくなりました。阿部さんは私より13年若くて、7年前ですから、59才だったそうです。手術を決心するのに2日かかったと言いました。その点、私は阿部さんのお陰ですぐ決心できました。

それはともかく、12月15日号の新聞を出さなければという緊急用件を抱えていました。ちょうど折良く、検査が心臓MRIで一巡して、次は14日(月曜日)の心臓カテーテル検査という段階でしたので、10日木曜日から13日の日曜日まで3泊4日の外泊願いを出して許可されました。忙しい新聞作りでした。あとで見ると、同じ広告が並んで載っていたり、とんでもない誤植があったり、散々でしたが、心臓手術を受ける道中に新聞も発行したなど、誰にも信じてもらえないだろうと、独りでつい笑ってしまうおかしさでした。

阿部さんは、私の外泊中にペースメーカー交換手術を終え、リード線は問題なくそのままで、本体の入れ替えだけだったため、私の戻った日曜日には早くも退院準備に移っているような様子でした。なんでも昔の仲間とタイの海辺の小島で年末年始を過ごす予定で、その旅行日程に合わせて、こんどの入れ替え手術を計画したのだそうです。奥様を7年前に亡くされたそうで、その悲痛なストレスが阿部さんの場合の原因ではなかったのかと、私には思えたことでした。

「植え込み型除細動器ICD」は肩胛骨の部分に表層を剥がし埋め込みます。心臓は自家発電機能を持った不随意筋の固まりで、上に左心房と右心房、その下に左心室と右心室が並んでおり、私の場合は心臓自体の老朽化でしょうか、本来の機能が劣化しつつあったことが原因と、自分流に解釈しております。

そこで、阿部さんの説によると、チタン合金製の精密コンピュータから上掲図のようにリード線を肩口から心房・心室の周囲に這わせ、リード線の先端は矢印形で血管の通路から抜けない形。そして、心臓の自家発電の代わりの電力供給によって拍動を制御するということなのだそうです。

私の場合、除細動器ICDの埋め込み手術は、およそ3時間で終わりました。カテーテル検査と比べると時間は半分で、しかも大腿部から延々と上まで通すのと違って、リード線も左肩口からの最短距離を通すのだから、部分麻酔で済むこともあるし、ずいぶん楽だったような気がしました。カテーテル検査も、植え込み手術も五関(ごせき)先生。7年前の阿部さんの場合も五関先生だったそうです。山科先生の循環器内科の手術部門は五関先生が率いるチームでした。

自分は「まな板の上に乗った鯉」だったけれども、ずっと安心感で満たされていたことをまずお伝えします。絶えず声が掛かりました。「痛かったら痛いと言って下さい。息苦しくないですか。酸素吸入します。大きく息を吸って下さい。大体半分ほど終わりました。もう少しだから頑張って下さい」。手術チームと主治医チームのメンバーが代わるがわる声をかけて下さる。ずっと、そういう安心感の中で手術が進行しました。

東京医大看護専門学校2年の実習生「あやの」さんが私の看護実習担当で、2週間、色々お世話になりましたが、カテーテル検査にも立ち会ってもらえました。手術チームのみんなが実習生に優しくて、順を追って色々説明する。その説明を私も夢うつつに聞きながらの進行でした。大腿部の太い動脈からカテーテルを差し込むので、動脈の血をどうやって止めるのだろうかと思っていました。それは指先で5分ほども、ぐるぐる回しのようになぞり続ける方法で見事に止まりました。あとに完全防水の透明テープを貼って、それは退院近くまで貼ったままでしたが、差込口のところの一点が少し滲んだだけで、後の広がりはなくて済みました。

私はこれで前後3回、東京医大病院に助けていただいたことになります。1回目は昭和48年の胆石症手術でした。その3年前、私のすぐ上の兄が従兄・亘理二郎から金沢大学同期の麻酔科岡本主任教授を紹介されて胆石症手術を受け、「体質が同じだから、次はお前だ」と兄に言われていた通り、私も3年後に胆石症手術をした経緯でした。

それから35年、病気らしい病気ひとつせず、元気でいたところ、2年前に自宅で頚椎打撲を引き起こして老年病科の羽生先生に助けていただきました。こんども、羽生先生に危うい症状を発見していただき、循環器内科へのリレーで命拾いすることができました。

2年前の退院後、私は自分の新聞に「東京医科大学病院の物語」を書き、同時にホームページに転載しました。その中で、感じたまま「医は仁術、医は迅速、医は優しさ」と書きましたが、こんどは、それに加えて「医はコミュニケーション」ということを改めて強く感じました。老年病科の羽生先生に始まって、いろいろな先生方のお名前を記名させていただきました。その中には18階西病棟の肥田(ひだ)先生ほか4人の主治医チームへの感謝を欠かすことができませんし、私を担当して下さった「みどりチーム」の看護師さんたちも同様というように、大きな「医療サークル」の輪で私を包んで命を助けていただいたと感じております。

近ごろ、世間では「医師不足」とか「救急車が病人の受入を断られた」などの話を聞くことが多くなりました。入院中、深夜、西新宿の路上に救急車のサイレンの音を何度も、何度も聞きました。その音は遠くからやってきて、私の病床の下で止まります。そのたびに私は「ああよかった」と胸をなで下ろすのでした。

入院中、東京医科大学5年生の実習のお嬢さんにも会いました。聴診器で音を聞かせて下さいというので何度もそうしましたし、話を聞かせて下さいというので、雑学でよければと、実は自分も60年前は旧制高校理科乙類の医学コースで、ただ事情があって医者にならず、却って自由な生き方をしてきたこと、そういう自分から見るとお医者さんはきつい、厳しい道で、それに耐えるためには相当の覚悟が要ること、ただそういう厳しい道を敢えて背負ってくれる人がなければ、この世は闇だからと、そんな話もしました。

東京医大5年生の女医さんの卵の同期生は、およそ100人だそうです。それから、さきにお話した看護専門学校の2年生、平成元年生まれの20才の「あやの」さんの同期生は80人だそうです。そのうちの9人が、私が入院中の18階西の循環器内科病棟で実習中でした。

多数の患者を受け入れ、治療しながら、毎年100人の医師を育て、また本校と霞ヶ浦と二つの看護専門学校で毎年計160名の看護師を育てているのだそうです。企業でいう競争力でしょうか。人材がどんどん育っているのです。

さて、最後にご挨拶を。経過はすこぶる順調です。いずれ個別取材を開始します。ご期待下さい。(亘理)