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インターネットが社会を変える(その1) 2010-08-15(第1060号)

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今日はメディアのお話をします。といっても一般的なメディアではなく、段ボール産業に深く関わる「業界メディア」の話です。

私は、昭和30年に東京・浜町の紙関係業界紙でアルバイトをしました。今年は昭和でいうと昭和85年ですから、55年前のことです。社長さんは戦時中の紙の統制組合の組合長で、戦後、紙の統制(配給制)が撤廃されたとき業界新聞社を始めた人です。戦後の自由選挙の復活で、紙販売業界から推されて参議院選挙に2度出馬、2度とも落選しましたが、第一回目は本当に僅差だったと聞きました。

アルバイトに入った早々のころ、社長さんに取材を命じられました。相手は紙器組合の組合長で、遠部槙一(おんべ・まきいち)という人でした。確か青物横町に会社があったと思います。驚いたことに、初対面の私が聞いたのは、段ボール業界の人たちに対する喧々囂々の非難でした。推測するに、その人たちは遠部さんたちの紙器組合の人たちと一緒にやっていた仲間だったようでした。ところが、自分たちの勝手・都合からわれわれ仲間を裏切って独立した、ということを非難しているようでした。

私は、ついこの間まで中学校の先生をしていて、いわば人類愛に満ちた世界に住んでいたわけですから、この実社会の荒々しい風の吹き回しには、正直言っていささか面食らったような気分でした。結局、私はアルバイト5年のあと、友人と段ボール専門紙を創刊、更に15年後に二度目の段ボール事報を創刊し、「段ボール専門紙」という業界メディアの世界に、どっぷり浸かった人生を送るわけですが、業界ではじめて出逢った業界人は遠部槙一さんということになります。

遠部さんがあまりにも猛烈に怒っているのだから、怒られている方も取材しなければとなって、独立派の「張本人」と言われた村瀬憲臣さんに会いに何日後かに大森まで出掛けて行きました。ところが、こちらは遠部さんとはまるであべこべの怒り方で、紙器組合の連中が段ボール事業の人たちに紙の割当てをめぐってどんなに悪さをしたか、その怒りがいまだに沸々と煮えたぎっているようなお話でした。当時は知らなかったものの、後年、ずっと段ボール漬けになる身にとっては、正に運命的な、お二人との出合いだったと、いまでは思っております。

ところで、話が飛びますが、昭和35年の最初の段ボール専門紙の創刊から今年がちょうど50年ですが、そのうちの前の方の45年と最近の5年とは同じ「業界メディア」ながら、中身がまるっきり変わってしまった思いです。段ボール専門紙はいうなら「千」の世界の住人です。原紙メーカーから段ボール加工事業所、代理店とか、この世界を取り巻く関連産業の事業所数をどう指折り数えてみても3千件とか、それに多少のプレミアムを付けるぐらいしかありません。全対象がそうで、では、この業界メディアに関心を持ってくれる人数はどうかとなると、全数を上回ることは絶対にないわけですから、否応なしに「千の世界」という結果になります。

ところが、55年前の遠部槙一さんや村瀬憲臣さんに初めて出逢った頃には無かったものが、その後、次々に出てきました。一例をテレビだけでとっても、出だしは白黒テレビでしたけれど、ぼくのお父さんはこういうものも知らずに死んじゃったんだと感慨深いものがありました。ところが、その後はカラーだし、ニューヨークヤンキースの実況中継がみられる。それに、今度は大画面の4原色だ、3D画面だという状況ですが、そういうもろもろを別においても、まず第一がインターネットです。特に業界メディアにとっては「千の世界」から空高く飛び出して、何十万人にでも語りかけることができる翼を持てるようになりました。

と同時に、以前は言語障害に掛かった人々のようだった段ボール業界の中での会話が、何十万人かも知れぬ外部世界の人たちにも聞き取れる会話に変わってきました。つまり毎日毎日、昼夜を問わず聞いてもらえるようになったのです。

5年前まで、外部世界の人たちに通じる言語を語れるのは、配達できる日経紙しかなかったのです。といっても、日経は文字通り日本経済全部のメンドウを見なければなりませんから、こちらの聞いてほしいことを外部世界に取り次いでくれる分はごくわずか、だから、インターネット版業界メディアが貴重なのです。

このお話は、実はまだまだ核心の部分にさえ触れておりませんから、次号にスペースがあれば次号、なければ更に次に続きます。

何よりの驚きは、外部世界の方々が本紙サイトに寄せられる関心の高さです。ビジターはあらゆる分野、業種と、海外を含め膨大な数の方々です。要は、全国の段ボール会社の主要納入先の購買部門は全てということなのです。(亘理)