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インターネットが社会を変える(その3) 2010-09-15(第1062号)

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その頃、私は石巻市の湊尋常小学校6年生でした。昭和16年(1941年)ですから、同年の12月8日、日本海軍が真珠湾を奇襲攻撃して日米開戦に至った年です。その前年ごろから、わが家をひんぱんに訪れる人がいました。王子製紙の社員でした。

横浜高商から王子に入社し、石巻市門脇(かどのわき)に「東北振興パルプ」を建設することになって、その建設要員に選ばれて来た人で、お目当ては私の13才年上の姉でした。結局、彼が姉をゲットして去り、姉夫婦は終戦を朝鮮・群山工場で迎えて戦後早々に引揚げて来ました。義兄は戦後、旧王子の分割問題でGHQとの交渉にも参加したようですが、昭和30年に私が東京に出てきたときは本州製紙の社員になっていました。「分割で苫小牧製紙は人と山を受け継いだ。本州製紙は工場を貰った」と義兄はよく言いました。なにを言いたかったのでしょうか。

その義兄が10数年前に世を去り、姉は一昨年末、92才で亡くなって、いまは松戸の墓地に眠っております。

ということから、先述の浜町の業界新聞社を義兄に紹介されたのが、私の業界メディア歴の発端となりました。昔から「風が吹けば桶屋が儲かる」という言い方があります。ぐるぐる回しの話ですが、そういう言い方をすると、もし旧王子が東北振興パルプを建設しようとしなかったら、いまの架け橋サイト「段ボール事報」はなかったことになるというお話なのです。

東北振興パルプは、王子製紙の分割後、東北パルプとして独立、さらに近年の合併統合の結果、日本製紙グループの最有力工場となっております。石巻は北上川の河口の港町ですが、製紙に欠かせない水が無限にあるし、目の前が太平洋だから水運も絶好。これからも、製紙業界における地歩を更に高めて行くことになると、石巻で育った人間として期待しております。

さて、昭和30年に初めて見た段ボール業界は、いわば「高崎製紙の時代」でした。戦後、パルプの輸入ができるようになって、いち早く輸入クラフトパルプを使った「高崎ライナー」を開発、従来の段ボール紙に圧倒的な差を付けて毎期連続で10割配当という業績でしたし、黒崎義平社長は同社の飛ぶ鳥を落とす勢いから「黒崎天皇」と呼ばれていました。一切を取り仕切るのが原田直恭常務。「東の原田、西の増田」と言うんだと編集長に聞きました。

ところで、黒崎社長のことを調べようとインターネットで検索したら、「衆議院会議録情報」の中の名前の「高崎商工会議所会頭黒崎義平」の一行だけでした。黒崎天皇と呼ばれた人物の経歴も高崎製紙の文字すらないのです。それではと、「原田直恭」を検索したら、こちらは関係する何の記録もありません。

少し以前に「福岡製紙はどうなっているんですか」という電話での問い合わせを受けたことがあります。福岡製紙をインターネットで検索して、本紙サイトの高橋禮久さんとのインタビュー記事を読んで電話されたということでした。それやこれやを考え合わせると、合併統合などで現実世界から消え去った会社や人物などについての情報が、インターネットの上では何も残されていないことに気がつきました。

ということは、いまのこの産業界が、過去のそういう人々や企業が作りだした上に立って存在しているわけですから、その土台となった人物や企業の記録を何らかの形で公開、保存することが望ましいし、さて、では誰がその仕事をするかというと、本紙以外にはいないことにも思い至りました。いずれ、古い企業便覧等の資料を掘り起こして、現実世界から消えてしまった企業や人物の在りし日のデータを本紙サイトに復元したいと考えはじめているところです。(つづく)