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インターネットが社会を変える(その5) 2010-10-15(第1064号)

私はどういう理由か幾ら考えても分からないのですが、木下又三郎さんが樺太での長期抑留から帰国されたときの新聞の写真記事を切り抜いて、紙挟みに長い間、保存しておりました。あとで、そのことを思い出して、随分探したのですが、結局、見つからないままに終わりました。日本陸軍の戦闘帽でしょうか、古ぼけた帽子と、ボロボロの兵隊服を着ておられて、当時のことですから飛行場ではなく、舞鶴港かどこかで船から降り立ったばかりという写真記事でした。

帰国されて、王子製紙の副社長になられ、そのあとすぐ本州製紙の社長に就任されましたが、三社分割で義兄の言った「本州は工場をもらった」(人は貰わなかった)という言葉を思い出す場面でもありました。

ところで、私は昭和30年の最初のアルバイト先の業界新聞を1年半で辞めて、次の新聞社に移りました。アルバイト先でストが発生して、同僚4人とひと固まりで退社という成り行きになったためです。そんなことのあった翌年、つまり昭和32年5月ごろ、私が通産省の繊維統計部の池田さんに会い、そのあと雑貨二課の大井正三事務官(昭和35年に全段連専務理事)から色々取材して帰ろうとしたら、出口のところで呼び止められて、「亘理さん、村瀬さんのところには最近行かれましたか」と訊ねられました。

何となくピンと来て、取材して回ったら、その日の前日、本州製紙の木下社長と段ボール業界の主立った人たち10数人が会って、その席で木下社長から本州製紙が釧路に新工場を建設し、210インチ幅の長網式抄紙機でオールバージンパルプのクラフトライナーを2年後の昭和34年から生産開始する計画だと発表された経緯が分かりました。

二度目の業界紙は、義兄が「大昭和製紙系じゃないか」と非常に機嫌を悪くした新聞社でしたが、その記事を掲載すると同時に、全国から問い合わせが殺到、電話が鳴り止まない状態というものを初めて体験しました。後にも先にも、私の一番のスクープでした。

また、そのことがあって、大阪支社からぜひ来てほしいというお呼びがかかり、生まれて初めての大阪住まいで浜寺公園近くに住むことになりました。東京に来てからの新しい友人と二人で、本州製紙釧路工場の開設をメドに段ボール専門紙を創刊しようという計画が同時進行しました。

「本州製紙の時代」は、長網クラフトライナーという、硬くて貼り難いけれども、それまでの水に弱い段ボールのイメージに取って代わって、青果物をはじめとする新規需要分野を開拓することで開幕しました。同時に、クラフトライナーはマシンを高速回転すれば幾らでも量産ができるのに対して、段ボール原紙の購買力には限界があることにも本州製紙は直面しました。このため、段ボールに加工して販売するプロジェクトが釧路工場の完成と同時にスタートしました。

中心にいた人物は、常に高橋禮久さんでした。段ボール専門紙の記者として、本州製紙の原紙部門と加工部門との掛け合わせの取材ほど取材し甲斐のあるものはなかったと言えます。

原紙部門は、昭和通りに面した、いまの王子製紙1号館の6階、加工事業部門は9階の位置でしたが、業界でも単に6階、あるいは9階といえば通用する状況でした。段ボールの王者レンゴーと本州とでは、業界の評判の上は、どうにも勝ち目が見えないとされたものが、レンゴーのどちらかというと純血主義に対し、本州の連合軍指向が組織拡大に効果が発揮された様子もあって、収益面は薄くとも、組織面は急速拡大という印象が業界でも際立っていたと思われます。

しかし、本州製紙の栄光が続かなかったことも事実でした。王子系ゆえに、リーダーと目されながらリーダーシップを発揮できない環境が肥大し続けました。何よりも、釧路工場の位置でした。それと最初の長網クラフトライナーで新規需要の開拓が一巡した後、歴史的には、環境の時代がすぐ後続してやってきました。段ボール原紙の古紙化を促す社会的な意識変化でした。つまり、大都市周辺で古紙を回収して直に生産し、消費する形への地殻変動でした。