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私の育った石巻の物語(その1) 2010-10-15(第1064号)

私の一番最初の発端ということで、東北振興パルプや王子製紙の社員だった義兄との出合いなどを書いたことで、生まれ育った懐かしい石巻の昔話をすっかり思い出してしまいました。どなたにも「ふるさと」があります。以下は、父や母や兄弟、恩師や友人たちの思い出がいっぱい詰まった石巻のお話です。というのも、段ボール業界紙には私ごとは無用でした。しかし、年間延べ20万社、毎月120万件のアクセスという現状では、その視線に耐えるためには、私事をさらけ出しても真実を述べる覚悟が必要なことなのでしょう。

80年前の1930年というと、石巻の湊町、つまり北上川の河口の中瀬(なかぜ、中州のこと)を挟んだ東側は、水揚げ漁港と魚市場そのもので、西側の中央商店街とも全く違った生き生きした町でした。学区は東側の湊尋常小学校1校に対して、西には海側から門脇(かどのわき)、石巻、住吉と3校ありました。人口密度のせいだったのでしょうが、湊小学校の生徒も先生も、いつも3校と戦っているような気分があったような気がします。

昭和5年(1930年)というと、1929年秋にアメリカで突発した大恐慌が、日本に波及してきた正にその年でしたが、こどもの私には何の記憶もありません。幼いときの一番古い記憶は「キドッコ」(軌道っこ)の撤去した跡が、わが家のすぐ近所にあったことです。たぶん文明開化の明治のころに16キロほど離れた女川港との間を結んだ軽軌道の線路が、いまのJR石巻線の開通で無用になったからだろうと、ずっと思い続けている幼い日の思い出なのです。

いまでも自分で自覚していることですが、子供時分からずっと石巻ですから、石巻弁の重たさがいまだに残っております。ところがテレビの探訪番組などで見たり聞いたりすると、いまの子どもたちも家庭の主婦なども普通の標準語を喋っているので、改めてテレビの威力を認識させられる思いでもあります。

子供のころは、なんでも語尾に「っこ」を付けて言いました。「やろっこ」は男の子。多分「野郎っこ」の転化でしょう。女の子は「あねっこ」。同様に「姉っこ」からの転化なのでしょう。それで、高等学校に入って青森県の弘前市に行ったら、同じ東北なのに、言葉の優雅なのに驚きました。男の子は「わらはんど」でした。童(わらべ)子からの転化でしょう。女の子は「めらしこ」でした。女童(めわらべ)子(こ)なのでしょう。改めて、石巻の言葉の荒っぽさを思ったりしたことでした。

そんな言葉を互いに交わしながら遊んでいました。河岸の暴れ者の「タンツ」や、煎餅屋の「チョペチャン」、下駄屋の「コンケラコン」、髪結いさんの家の「トッカピン」など、子供のころの有名人たちにも遊んでもらいました。チョペチャンの家の煎餅は型で焼き上げた美味しい煎餅で、私の父は特に万国旗の模様の大ぶりの旗せんべいが大好きで、何十枚か入った袋を抱え込むようにして食べていたのを思い出します。こどもたちはみな甘い旗せんべいより、少し塩味のイカせんべいが好きでした。懐かしく楽しい思い出なのです。

しかし、何年後かに太平洋戦争が始まると、楽しい子供時代が全く暗転しました。チョペチャンの家は、せんべいを焼く鉄製の焼き型を軍に供出させられて廃業、お父さんは徴用にとられ、チョペチャンは召集されて戦死で、一家全滅という哀しい思い出にすぐつながってしまいました。

良い下駄は、歩くと「カランコロン」と音がするそうです。ところが上述の下駄やさんの上等の下駄は「コンケラコン」という音がするのだそうです。また湊町の髪結いさんに披露宴などのための髪結いをしてもらうと、辺りを払うような「トッカピン」のスタイルができるということなそうです。こども本人は、そんなアダ名で呼ばれるのはさぞかしイヤだったに違いありません。しかし、ある意味ではその家の勲章でもあったのだと思います。

私の家は、昔々の石巻のお大尽の「伏見屋」の応接間を含む道ぎわの部分を借りた家でした。伏見屋は、「三十五反の帆を巻き上げて、行くよ仙台、石巻」と歌にも歌われた当時の、お大尽でした。当主は推定40歳代のマロちゃん(清麿さん)でした。私の父は亘理家の長男で「いずれ白石に帰る」と言い続けて、生涯自分の家を持とうとしませんでした。父の父、つまり私の祖父のことは以前に書きました。幼名・左伝です。東京で佐々木東洋先生に師事して医学を学び、白石に帰って内科医院を開業、長男が父の杏造です。山口高等学校から東京大学医学部を卒業しましたが、「男子の一人はお国に捧げる」という祖父の強い意志で、東京大学は陸軍委託生となりました。つまり、学費から何からぜんぶ陸軍にお任せで、卒業と同時に陸軍軍医中尉に任官という人生行路でした。

任官から10何年かでしょうか、これまた祖父の命令で、予備役に編入して赤十字に入り、敦賀、仙台、八戸、石巻と経めぐって私が生まれたという事情です。石巻では、日赤を辞めて内科医院を開業しました。父とすれば自由になれて、一番楽しい時代だったのだと思います。ところが、昭和12年7月に支那事変が始まり、予備役軍医少佐だった父は即日、現役復帰で召集令状がきました。57才でした。最終軍歴は上海陸軍病院分院(内科)院長です。

父の憧れの人は、現役軍医時代の陸軍軍医総監・森林太郎(森鴎外)でした。ちょうどご長男の於莵(おと)さんと大学で同期という間でもありました。鴎外にあやかってか、何か書き物をしていた気配も残っております。しかし、母が言う通り、出征前と3年後ではまるで別人のようになって帰ってきました。それが近年になって納得したことですが、米軍のイラク戦で有名になったPTSD(戦時心的外傷ストレス障害)だったのだと思います。そのことから、本人も、家族もずっと苦しむことになりました。既にたびたびお話したことですが、私に介護役の順番が回ってきて、中学校教師をしながらの父の介護ということでした。

2年前、2008年6月の岩手・宮城大地震のちょうどその当日に、石巻でその当時の教え子たちの古稀祝いがあったことも既にお話ししました。その教え子たちが、「人生の残りが少なくなったから、これからは毎年集まろう」ということになって、今年6月にも石巻グランドホテルの同期会に招かれました。

翌朝の帰り道に、久しぶりに湊まで足を伸ばして町の様子を見てきました。私の子どものころや、その後ともまるで町の情景が一変していて、わびしく、悲しい思いで帰ってきました。昔の思い出が何も残っていないのです。「ふるさと喪失感」でした。

(不定期連載、つづく)