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東京医科大学病院の物語 2007-12-15(第996号) (医は仁術、医は迅速、医は優しさ)

35年前の昭和48年4月に西新宿の東京医大病院で胆石症の手術を受けました。執刀は木村幸三郎先生で、先生は後に昭和天皇の医師団にお名前がありました。私の受けた手術は、みぞおちの辺りから盲腸の辺にかけて斜めに30センチも切って、腸やらなにやら全部出してという手術でしたから、退院まで一カ月近くかかったと思います。そんな大手術を受けたお陰かどうか、その後の35年間、病気らしい病気は何一つ無くて、今日まで来ました。35年前というと、いま現在で50才の人は15才、つまり中学校の3年生です。ですから、段ボール業界で現役の人の大半が学生か小中学生か赤ちゃんだったことになります。

ところで、この10月半ばごろ、少しお腹が痛んで、今年の風邪はお腹の痛む風邪かなと思っていたら、そのうちに昔々の胆石症に似た痛み方になって、同時に食欲が無くなり、ご飯が食べられないのも同じような感じでしたから、これはてっきり胆石症、といっても胆嚢はないから、総胆管結石かなにかだと考えて、11月12日、35年振りに東京医大病院で診察を受けることになりました。

昔は新宿からバスでしたが、いまはJR新宿駅から地下鉄丸の内線に乗り換えて次の駅で、もう2分も掛からない便利さ。病院もすっかり新しくなっていて、最初に内科の総合案内のところに行ったら、「75才以上の方は4階の老年病科にお越し下さい」ということで、なるほど、別格なんだと納得させられました。まず症状を色々聞かれ、准教授のH先生が主治医ということで、症状を説明しながら、机の上を見たら、「迅速」と書いてありました。「医は仁術」もさることながら、それ以前に、まず「迅速」でなければ病院の機能が麻痺してしまうだろうことが、よく分かった気がしました。

血液検査の結果、炎症反応があることが分かりましたが、詳しくはCTスキャンを撮って2日後にということで、14日に行くと、CTスキャンの結果、胆管結石はないし、虫垂炎もないから、多分、高齢者に多い胃に出来る小さな袋状のものが炎症を起こしているのではないかとの診断で、詳しくは内視鏡検査が必要だから、11月17日にその用意をして来て下さいということになりました。内視鏡検査の検査同意書の控えをもらって帰って、自宅でもう一度見たら、一番下の端に検査目的・胃癌疑いと印字してありました。そういう体質は無いはずだけど、相変わらずお腹が痛くて、食欲がないので、17日の朝までほとんど何も食べずに、そのまま検査に出掛けて行く状態でした。

「その瞬間」は突然来ました。意識がふっと消えてこれはなんだと思いながら身体の自由が利かず、崩れ落ちました。途中で台所と居間の仕切戸のノブに顎が当たって、ちょうどアッパーカットを食った状態になり、更に顔面をこすって、両腕は前に組んだ形で前のめりに落ちていました。意識はありましたが、手も足も全く動きません。これでは死んだも同然じゃないかと独り言を言ってみました。話には聞いていた低血糖の症状だと分かりましたから、物音に驚いて来た家内に「ブドウ糖を持ってきて口に入れてくれ」と言いました。スーパーで買ったブドウ糖の袋が私の机の上に置いてあったのです。あのとき、ブドウ糖が無かったら大変だったと思います。何気なく買って、ウォーキングの時など小袋に入れて持ち歩いたりしたことが役に立ちました。

そのあとは、ともかく救急車です。119番に電話したら多摩市の救急本部からすぐ救急車が来てくれました。新宿の東京医大病院で検査を受ける予定だったことを説明したら、そのままOKで、救急車が高速道路をサイレンを鳴らしながら走りました。しかし渋滞で、結局、高井戸インターで一般道に下りることになりましたが、気が付くと救急車と違うサイレンの音、時折、ピピッという音もします。たまたま出会った白バイが先導してくれたお陰で、大分早くなりました。病院について担架で運ばれながら聞いたのが「オシムさんも倒れた」という話でした。あんな鋼鉄のように頑丈な人が倒れるぐらいなら、ヤワな自分がお腹を空かして倒れるのは仕様がないかと思いました。

4階の老年病科の処置室に運ばれ、両腕が痛くて痺れもひどい状態でいたら、「ボクの患者がどうしたって」と言いながら入って来たのがH先生でした。土曜日ですから、まさか准教授の先生が来て下さるとは思っても見なかったのに、来るなり「亘理さん、どうしました」と仰有るので、あれこれ説明したら、「ちゃんと話せるから、これなら大丈夫」と言われて、それから脳のMRI、「脳は問題なし。次は首だ」と次々に回りに指示して下さって、気が付いたらH先生のほか教授の院長先生と、MRI画像の診断を老年病科から依頼されてお見えになった整形外科教授の先生もおられて、その回りを囲む若い先生方の10数人の固まりの奥に、私の頭と頚椎のMRI画像がそれぞれ6個ぐらいずつ並んでいました。しばらくして整形外科の先生が診断を下されて、それが私の病名となりました。「頚椎損傷、但し、損傷程度は極めて軽微」でした。

診断が出て、そのあと治療方法の質問が老年病科のK先生からありました。後になって、その時の質問の意味がやっと理解できたのですが、治療のためのステロイドの点滴の量を整形外科の先生に訊ねた内容でした。「あとで計算させて、老年病科に知らせる」ということだったそうです。

私が倒れたのが午前7時10分頃、8時20分の多摩センター発電車に乗る予定でした。倒れてから2時間半後の9時40分に救急車が新宿に向けてスタート、病院着が11時10分ごろ、診断が下されたのが12時40分頃でした。倒れてから病院着までが4時間、病院着から診断が下るまでわずか90分でした。私がH先生の机の上で見た「迅速」の文字を思い出したのは、診断が下った途端、先生方が誰もいなくなった時です。そのあと、すぐ入院手続きに移って、私の病室は15階の55号室の6人部屋と決まりました。病室番号は、1555です。縁起を担ぐようですが、この数字を見た途端、間違いなく直ると確信しました。

退院以来、私は会う人ごとに「病院を選ぶなら、間違いなく日本一だから、東京医大病院になさい」と勧めているのですが、まず最初の「医は仁術」。私は誰に紹介されたのでもなく、35年振りに似た症状だからと、わずか5日前に診察券を貰った一老人です。それが常にやさしく鄭重に診てもらえて、いつの世にも変わらぬその価値観を改めて深く感じたところでした。

「迅速」は病院のシステムから、医師も看護士さんも事務の人も、正に迅速、てきぱき、音を立てて物事が進行する感じです。病院の廊下の天井に張り巡らされたレールを伝わって四角のバッグが向こうからこっち、こっちから向こうへと次々に行き交います。カルテやレントゲン写真や、さまざまな書類が資料保管所から各科の窓口へ、逆に返却へとレールを通って行き交っているようでした。

看護士さんたちの優しさをどう表現したら良いのでしょうか。患者一人ひとりに8人か9人が一つのチームになって、24時間フルの看護体制です。色んな症状の患者がおります。手の掛かる患者ばかりなのです。それでも、どこまでも優しい姿を、私は13日間、間近に見つづけて来ました。

さて、スペースが尽きようとしております。私は幸運にも頚椎損傷ではなく、一過性頚椎打撲ショックで済みました。それと、一番最初のH先生の診断通りだったのだと思いますが、入院中に腹痛がウソのように消えて、病院食も平らげられるようになり、勿論、内視鏡でつまんだ細胞の培養検査でも悪性のものは何もなくて、ただ大きめの胃潰瘍があったのと、「胃が大分荒れています」という内視鏡の技師の言葉を重く受け止めて、これからを生きて行こうと考えております。

ステロイドの大量投与の威力は絶大でした。入院中の13日間、ほとんど眠っていないのに、一向に眠くならない不思議な体験をしました。2日目には幻想も体験しました。その物語は長くなるので別の機会に譲ります。なお、「12月15日」と申し上げたのは、11日の検査結果を待つ意味でした。