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百年前の人も生き続ける不思議 2008-08-15(第1012号)

亘理晋亘理晋

私の祖父をご紹介申し上げます

名前は亘理晋(すすむ)、嘉永6年(1853年)生まれ、昭和6年5月9日没、享年78才。ちょうどお盆だから、ご先祖の供養に、ということでは勿論ありません。この写真は紋付き羽織袴姿、宮城県議会の元議長ということで、昭和2年の昭和天皇ご大礼(即位式典)の祝賀会の記念写真ですが、わが家の欄間にいつも額縁入りで掲げられていました。

ですが、この画像は家族アルバムからではなく、インターネットから取り込んだものです。どなたでも、「亘理晋」を検索すると、宮城県立白石高等学校のホームページに、創立者ということで、竹馬の友、延命寺疋田師と二人並んだこの写真が現れるはずです。実はこの写真は、私がウェブサイトを立ち上げる最初の動機になりました。インターネットに段ボール事報の記録を移せば、50年でも100年でも変わりなく生きつづけることができるのだと、改めて気付かされたという事情です。

ということで、「段ボール事報 db-jiho.jp」とも決して無縁ではないことがお分かりいただけたとして、では、どんな人物だったのか、「創立者」だけでは孫としても不満なので、少しご説明したいと思います。

祖父は幼名・左伝。父は権大僧都法印(ごんのだいそうずほういん)つまり修験道の千手院第9代清儀と母ゑいの三男。長兄が夭折、次兄の潔志(幼名・右門)が第10代、千手院最後の修験となりました。明治元年の神仏分離令により修験道が廃止されたためです。

少し解説しますと、亘理家の先祖は出羽三山の修験者。戦国のころ宮城県亘理郡に移り住み、伊達政宗の筆頭家老片倉小十郎景綱に従って戦場往来、初代大僧都法印清昭から徳川三百年を白石市亘理町(現町名)に居住、片倉家の客臣格で修験道場千手院を運営してきたという家の歴史です。

左伝の父清儀は文久3年(1863年)に51才で亡くなりました。左伝は10才でした。幕末のペリー来航以来の騒然たる世相で、5年後の1868年が改元後に明治元年となります。その年は慶応4年として始まりましたが、1月の鳥羽伏見の戦いから、戊辰戦争にまで広がり、同年8月には、白虎隊の悲劇で知られる会津戦争の真っ最中となります。

左伝は、このとき15才。つまり会津家中の15〜17才の少年で結成された白虎隊と同年代で、彼らと同じ戦場におりました。といっても伊達領内ですが、私が父から聞いた話では、兄・右門に代わって刀を担いで行ったけれど、物陰から敵情を偵察しようと顔を出した途端、すぐ目の前に同じように敵の少年兵が顔を出したところで、左伝が飛んでもない大声を出したものだから、相手が驚いてすっ飛んで逃げたのを見て、左伝も急に怖くなって、後も見ず逃げ帰ったのだそうです。

戊辰戦争の時、奥州列藩同盟の本部は白石に置かれました。最初は会津の後ろ盾として、会津懲罰を唱える明治新政府側と斡旋交渉を繰り返したのですが、要衝の白河城の攻防で、優秀な火器を揃えた新政府軍には敗戦一方の形。このため列藩同盟側が相次いで新政府側に降伏、仙台藩も9月15日に降伏となりました。

お陰で祖父は命拾いしました。戦後、白石には長州勢が進駐してきました。亘理家にもかなりの人数が分宿した様子ですが、その中に佐々木東洋という30才の軍医がおりました。その軍医に、母ゑいが繰り返し繰り返し左伝の教育を頼み込みました。東洋先生は固辞しました。まだ戦争中でした。しかし、遂に根負けして、世の中が落ちついたらということで、その時は手紙で知らせるという約束をしてもらいました。

二、三年後に、約束を違えず佐々木東洋先生から手紙が届きました。東京に出てくるようにとの内容でした。左伝はこのとき17才か18才、少し前まで江戸と呼ばれた東京を目指して出発しました。佐々木東洋先生は、神田駿河台の現在の財団法人佐々木研究所杏雲堂病院の創設者。先ごろ宮様が入院手術された病院です。祖父は東京での医学修行中に晋と改名、数年後、白石に戻り内科医院を開業しました。

私の父杏造は明治14年9月1日、晋の長男として生まれました。逆算すると祖父は27才だったことになります。白石に中学校がなかったので、父は仙台二中に入学しました。三年生のとき、一年生に入学した柔道好きの少年がいたそうです。「1年生のときはぽんぽん投げて稽古を付けてやったんだけど、彼が三年生になったら、三番のうち一番も勝てなくなった」と父から聞いたのが、空気投げで有名な講道館、三船久蔵名人ということでした。

長男の後に次男、三男とつづくことと、明治政府の日清戦争後の国民皆学政策の後押しを受けて、明治32年、祖父と疋田師の先導により刈田中学が開設されました。それが県立白石中学校、白石高等学校となりました。敷地は白石城内の拝領屋敷跡を、町に返上したものだったそうです。

以上が、本紙サイト開設の最初の動機だった祖父の写真説明であります。私事ではありますが、ありのままを申し上げることにしました。

本紙代表 亘理昭