特大


海外取材報告

パリ、ブダペスト、ロンドン

オルトさんの話

左からオルトさん、メンジーさん、ポロシュさん

▽オルト氏の話

『私はドナパック社の単なる生産ディレクターですが、私の説明の第一部として、少しハンガリーの歴史のことに触れてみます。また、私の方から説明するだけではなしに、皆さんからご質問を受けた方が、かえって私も話しやすくなると思いますので、話の途中でもかまいませんから、どうぞ、どしどしご質問下さい。

まず、話は一千年以上も前にさかのぼります。歴史学者によって、様々な説がありますが、その当時、ハンガリー人は、フィンランド人や日本人と同じ起源を持っていて、中央アジアのあたりに住んでいたのだそうです。

そのあと枝分かれして、日本人は現在の日本に向かって東へと進み、ハンガリー人とフィンランド人は西に向かって民族移動しました。いまでも共通の単語が幾つかあります。全く同じ発音と同じ意味の言葉が、フィンランド語とハンガリー語との間には13ぐらいあります。フィンランドに行ったときも、日本に行ったときも感じましたが、発音でしょうか、響きでしょうか、非常にハンガリー語と似ていると感じました。

フィンランドでは、学生寮に入ったとき、ラウドスピーカーが鳴っておりました。最初は何かハンガリー語が話されていると思いました。そのあと、研修旅行で日本に行ったときも、散歩していて街角で何か急に話しかけられたら、一瞬、ハンガリー語で言われたように錯覚しました。それから、民謡や民族音楽を研究してもそんな感じです。ですから、私もだんだんそういう学説を信じるようになりました。日本は、ハンガリーから非常に遠い距離にあるにもかかわらず、親近感があるのは、そのためではないかと思います。何か遺伝的にもあるのではないでしょうか。

ところで、ハンガリーは地勢的には非常に「恵まれた」ところにあります。ここには地震がほとんどありません。しかし、フィンランド人と同じように、ハンガリーは何度も何度も戦争に巻き込まれたり、やはり国のロケーションの関係で東と西の帝国が戦うとき、ちょうどその真ん中にハンガリーがあるため、彼らのいわば遊び場というか、主戦場になりました。また、長い歴史の間に、いろんな民族との混血もありました。様々な戦争に際して、いろんな民族と接しました。そういう意味では「混血して結果的に良かったじゃないか」という言い方もあるかも知れません。

近年では、第一次世界大戦が終わったとき、ハンガリーは国土の3分の2を失いました。周囲の国々に奪われたのです。同時に、そこに居住していた人口も、領土と同時に失いました。奪われた国に帰属するようになったためです。残ったのは、昔のハンガリーの中央の土地だけで、工業地帯の大半も失いました。第1次世界大戦まであったハンガリーの工場は、国の真ん中にではなく、周辺部に配置されておりました。それが、領土とともに奪われたのです。ですから、紙の工場もほとんど全て失いました。残ったのはただ一つ、非常に小さい、わずかに紙幣しか製造できないような工場だけでした。

そういうことが起こったのが1918年です。そのあとしばらく、ハンガリー国内で紙の製造は行われなかったのですが、5年後の1923年に、第2級の規模ではありますが、製紙設備が輸入され、紙の生産が再開されました。それが、当社の製紙工場の創設でした。戦争に負けて、おカネが無かったので、大型の第一級の機械は買えなかったのです。しかし、それでも、近代的な工場を作ろうと努力しました。その当時、すでにセミケミカルパルプ・上質紙・ライナー・中芯、および段ボールなどの生産が開始されました。その時の所有者の兄弟がおりました。第2次世界大戦が終わったあと、この兄弟は、ハンガリーからウィーンに亡命しました。

次に、第2次大戦後の歴史について一言いわなければならないと思いますが、ご存じのように、ソ連軍がドイツと戦って、結果的にはドイツ軍が追い出され、ソ連軍が入ってきました。そして、ハンガリーは完全に閉ざされた時代を迎えたわけです。ハンガリーは外界から完全に分離され、閉ざされていました。ですから、私たちは、外の世界のことを何も知らなかったわけです。そして、私たちが外の世界を知らなければ知らないほど、当時の政治家たちが指導、コントロールすることが容易だったわけです。しかし、ハンガリーは、そういう鉄のカーテンの彼方にある諸国の中で、比較的特別だったと思います。比較的有利な立場にあったかも知れません。というのも、「発酵」が比較的早かったからです。そういう色んな事情と、いきさつのお陰で、1985年に、世界銀行がハンガリーの経済開発に貢献することを考え始めました。そこで、われわれも1986年に外からの援助を受けて工場の設備改善、合理化が行えることになりました。

その時、メンジーさんが来られて、世界銀行の基準に則った非常に激しい競争に耐え得るようなミツビシの設備を導入させて下さったわけです。メンジーさんのお陰で、早くも86年に、当時、世界でも一番近代的な設備を導入することが出来ました。その時から、この工場もだんだんに開放的になって、また、日本との関係も密接に結ばれ始めました。

そのあと私は、ボブストグループから、「ミツビシ・マン」という称号を与えられました。私は日ごろ、ミツビシの帽子をかぶっています。スリッターも「ミツビシ」を購入しました。その時の競争入札はなかなか激しかったのですが、勝ったのは「ミツビシ」でした。そして、私の乗っている車も「ミツビシ」です。私のそういうスタイルを見て、ほかの企業は、だからなかなか進出できないんだと思っているようです。しかし、最も重要な要件は、やはりミツビシの設備の品質・性能の高さなのです。もちろん、帽子も重要ですけれど(笑い)。

また歴史に戻りますと、やがてソ連軍が完全に引き揚げる時が来ました。そして、戦後最初の自由選挙が行われ、ハンガリーは、まっしぐらに自由市場経済の道を歩み始めました。民有化・私有化が始まったのです。1990年に、ハンガリーの唯一の製紙会社の所有者の2社と、オーストリアの製紙企業2社が「DUNAPACK社」を設立しました。DUNAはドナウ、PACKはもちろん包装の意味です。当時、ハンガリー側の2社はまだ国営でしたので、株式の60%は国営、40%がオーストリア側でした。そのあと、ハンガリーの国側とオーストリアの企業との間で、長い交渉がおこなわれましたが、そのあとで、残る60%もオーストリアの企業が買い取りました。

ですから、所有はオーストリアですが、ご承知の通りハンガリーはハプスブルグ時代、オーストリアと二重帝国を形成しておりました。いわゆる「オーストリア・ハンガリー帝国」で、この期間もかなり長かったのですが、そういう歴史的な背景もあって、その後、オーストリアのオーナーがハンガリーをすっかり好きになって、ご自身、ハンガリーに移住してきました。そればかりか、ハンガリー人の仕事ぶりにも満足されて、会社の本部までオーストリアからブダペストに移されました。

ドナパック社の現況についてお話ししますと、ドナパック社は、その後、ドイツの製紙会社を一つ買いました。実はオーストリア国内にも生産拠点がありましたけれども、現在、ドナパック社は合計5つの工場を所有しております。昨年、また新しい工場が設立されました。つい最近3週間以内に稼働しましたが、その設備の据え付け指導を私がやりましたので、このトランシルバニア地方(ルーマニア中部)の一番新しい工場は、私の心に最も深い感慨をもたらすものとなりました。トランシルバニアも、第二次大戦後にハンガリーから奪われたところですが、相変わらずハンガリー人がたくさん住んでおります。政治的な意味では、そこに住んでいるハンガリー人は色んな圧迫を受けているんですが、まだ人口の2%ぐらいがハンガリー人です。ですから、こんどの工場建設に当たっても、コミュニケーション、意志疎通という点では、難しいことは何にもありませんでした。

ドナパック社は、ハンガリー国内に大きな生産拠点を3つ持っております。ブダペストから270キロ東北にある工場は段ボール製造とサックマシンによる紙器製造を行っております。次は、ドナウ沿いの南に60キロのところにある工場で、段ボール原紙と段ボールを製造しております。そして、最大の工場が、このチャペル工場で、段ボール原紙と段ボールを生産しております。

チャペル工場では、最初のミツビシと、もう1台のミツビシと、これまで2台の三菱コルゲータを使っておりましたが、先ほど申し上げた86年購入のミツビシのコルゲータは、トランシルバニア工場に移設しました。また、加工する機械も別のところにありましたので、エネルギー消費とか輸送費から考えても、やはりそういうコストを削減するために、工場全体の改造をしなければなりません。