特大


海外取材報告

パリ、ブダペスト、ロンドン

ルルさん

漁夫の砦から見たドナウ川。手前がブダ、対岸右側に国会議事堂。 ガイドのルルさん

メンツィさんが、ドナパック社での締めくくりの挨拶で、「折角来られたのだから、ハンガリーの歴史や文化もよく研修して帰って下さい」と言われたが、幸いにも、格好のガイドさんに出会った。

写真の美女、DALLOS LUCA ダロシュ・ルツアさんである。
「カゼにはルルの、ルルです。ルル(LULU)と呼んで下さい」という彼女は東京・西麻布生まれ。8才のとき再び来日、8年間日本に住み、「そのころ覚えた言葉が私の日本語のベースになった」と。その後もたびたび来日し、埼玉や豊島区などにも住んだと聞いた。ある時、友人とおしゃべりしながら町を歩いていたら、後ろから来たおじさんに、「若い娘が、髪なんか染めて」と文句をいわれて、思わず振り返ったら、「なんだ、外人か」と驚かれたという。日本人もびっくりの、きれいな日本語である。

ハンガリー語と日本語が同時に話せる通訳は少ないから、彼女は、今後も益々貴重な架け橋になると思われた。最近も、NHKの衛星放送の仕事や、先日は婦人公論のハンガリー特集などで活躍、と聞いた。以下は、ドナパック社訪問のあと、午後から、彼女のガイドでブダペスト市街を回った際の説明を収録、要約したものである。

『一般に、東ヨーロッパの国々は大体、みんな同じ様な感覚があるということですが、実は必ずしもそうではありません。ハンガリーだけは、どこか、幾つか独特なところがあります。
まず、それは、ハンガリー人というのは、中央アジアからやってきた民族で、モトはといえば、モンゴル系が非常に強く入っていた民族なのです。9世紀の終わり頃、西暦896年なんですけど、896年にここにやってきたマジャール人は、本当にジンギスハーンそっくりの民族だったんです。髪の色が黒く、目は茶色、そして、馬に乗って周りの国々に襲いかかる非常に物騒な民族でした。弓矢使いが非常にうまくて、そして多神教でした。
だけど、すでに周りの国々はみなカソリックだったから、これじゃダメだと気が付いたのが、ハンガリーの初代王、イシュトバンという人で、いまでもハンガリーの人々から最も尊敬されている賢明な政治家でした。彼は、もし宗教的に周りの国々と同じにならなければ、ハンガリーは必ず滅びると考えて、一生懸命、ハンガリーをキリスト教に改宗しようと頑張っていた王様です。幸いそれが成功して、ハンガリーが、まわりの国々と経済・貿易をすることが出来たということです。
ですから、英雄広場でご覧になられましたように、ガブリエル天使は二十字架を持っています。この二十字架を、ハンガリーではイシュトバン王のシンボルと考えております。英雄広場自体は、1896年の万博のために作られました。1896年といえば、ちょうどハンガリー人がここにやってきてから1000年に当たる記念の年で、その年に、ブダペストで万博が行われ、そして英雄広場も作られたということです。
そして、英雄広場の両側に、二つの美術館があります。その一つは20世紀の芸術家の展覧会をやっている美術館、もう一つは、国立美術館または西洋美術館といい、非常にきれいな外国の絵のコレクションがあります。例えば、フランスの印象派のマネ、モネ、セザンヌ、それからエル・グレコ、イタリアのラファエルなどを所蔵しております。

いま私たちは、アンドラッシュ通り、ブダペストの一番きれいな大通りの一つを走っています。このアンドラッシュというのはオーストリア・ハンガリー帝国の外務大臣の名前です。有名な伯爵の名前でもありますが、この通りの下を、世界で2番目に出来た可愛い小さな地下鉄が走っています。いまでも、ちゃんと使われていますが、地下鉄が一番最初に作られたのはイギリス、二番目がハンガリーです。
ご承知と思いますが、頭の中でヨーロッパの地図を想像しますと、ハンガリーは大体真ん中にある小さな国だということが分かります。面積は日本の約4分の1です。9万3,030平方キロメートル、そして陸続きです。車を飛ばせば、4時間ぐらいでウィーンに行けるということで、朝ご飯はブダペストで、夕飯はウィーンでということが出来ます。その他のドイツとか、フランスとかにも簡単に行けるということで、それは便利な所なのですけれども、ただ、国境を一生懸命守らないと、すぐ支配されるということです。
ハンガリーの1100年の歴史、正確には1102年ですけれども、この歴史の流れの中で、とにかく、いつも支配されようとしていたのです。実際、オスマントルコには150年、そのあとオーストリア、そして共産主義時代にはロシアと、いろいろな国に支配されましたが、ハンガリーの民族は、負けても負けてもまた頑張る、また戦うという非常に負けず嫌いなところがあるんです。
七転び八起きで、何回支配されても、一生懸命、自分の独立のために戦うというところがあります。
いま、バスの右手にブダペストのオペラ座が見えます。その真正面がブダペストのバレー学校です。このオペラ座は、19世紀の半ばごろ出来たもので、そしてオーストリアと同じようにハンガリーも、クラシック音楽で有名な国です。一番有名な作曲家はフランツ・リスト、コダーイ、そしてバルトークの3人です。コダーイという人は、作曲ばかりではなく、音楽の教育システムを完成させた人です。リズム感を生かしながら、幼稚園や小学生の子どもたちにドレミ、そして楽譜の読み方、いろいろな楽器の使い方を教える教育システムです。

ブダペストの全体的な雰囲気は、もうご覧になられましたが、ブダペストはウィーンに似ていると、よく言われます。それは確かにそうなんですけれど、なぜかといいますと、ブダペストは、いまの形が出来たのがオーストリア・ハンガリー帝国の時代、19世紀の半ばから20世紀のはじめ頃までということで、簡単にいえばウィーンを真似て作ったんです。第二次世界大戦では、ドイツ・イタリア・日本と、一緒に負けさせていただきましたが、非常に爆撃を受けた建物が多く、ブダペストの建物の70%ぐらいまで爆撃で壊されましたが、戦後、できるだけ昔の形で建て直そうという努力がありましたので、ほとんどの建物は、昔の形に戻されたということです。
ですから、ブダペストは幸いなことに、古き良き時代の香りが残っているということで、東京とか大阪に比べたら、あまり近代的なキンキラキンの建物はないんです。私としては、それは非常に嬉しいことだと思います。ただ、よく見ますと、非常にきれいな建物がある一方で、カベの色が汚い灰色の建物も多くて、これはとても残念です。

ブダペストのほとんどの建物のオリジナルカラーは真っ白か、きれいな薄い黄色なんです。ただ残念ながら、共産主義時代には、政府はあまり環境保護に関心を持ってくれなくて、ほとんどの建物は、排気ガスで汚れてしまいました。それで、改革のあとは、その汚れた建物を一生懸命きれいに磨く、きれいに洗うというキャンペーンが始まったんですけれども、非常に時間もお金もかかることですから、いっぺんにきれいには出来ず、半分はきれいになったけど、半分はまだ汚いというように、まだ中途半端な建物も幾つかあります。

バスは真っ直ぐ、ドナウ川の方に出ました。ドナウ川は、ブダペストが一番きれいに見える、ブダペストはドナウ川が一番印象的な街だと言われていますけれど、ちょうど国を半分に切るような形で流れています。しかも、ブダペストも真ん中で二つに分けられています。これから橋を通って、ブダ側に渡ります。ブダも、ペストも、両方ともスラブ語の言葉です。ペストというのはカマドのこと、ブダは水の意味です。ブダの方には、二〇〇〇年前ごろから人が住みついていたんですが、一番最初に、そこに温泉が見つかったのです。ブダペストの街、そしてハンガリーも、温泉がたくさんあることでは一、二を争う町であり、国なのです。
この先に科学アカデミーの建物が見えます。ハンガリーのことで、一般に案外知られていないのは、人口の割合からすると、ハンガリー人が一番たくさんノーベル賞をもらっていることです。ただ残念ながら、沢山のハンガリー人がよその国へ行って、例えばアメリカに行って、アメリカでノーベル賞をもらったというような例が多いのです。それは、いまでも問題になっていて、どうしてかというと、ハンガリーのコンピュータ・プログラマーや、数学者などが、外国では非常に恵まれていて、ハンガリーの若い数学者が学校を卒業して仕事を始めるのと、アメリカに行って仕事を始めるのとでは、アメリカの方が10倍も多い給料を貰えるのです。ハンガリー政府も、ちょうどこの間、選挙が行われましたが、何とかして、そういう優秀な人たちをこの国に引き止めておく方法はないかと、いろいろ苦心しております。

いまから、ブダペストの一番古い橋、鎖橋を渡ります。この鎖橋には、両側に2匹ずつライオンの像が坐っています。しかし、このライオンは、一つだけ欠点があります。作った人が舌を忘れてしまったのです。舌がないので、このライオンは口がきけません。無口のライオンが鎖橋を見張っています。
鎖橋そのものは、1849年、つまり19世紀の半ばに出来たもので、それまでは、人々はボートで行ったり来たりしていました。ただ、そのボートがよく遅れたり出なかったり、いろいろ問題があって、非常にパワフルな伯爵、セーチニという人ですけれども、舟が出なかったから、自分のお父さんのお葬式に間に合わなかったのです。それで、この川に橋がないのは絶対におかしいと、イギリスから、ウイリアム・クラークとアダム・クラークという兄弟の技師を呼んで、彼らの指導で鎖橋を作らせたということです。

鎖橋の奥のほうを見ますと、ブダ城、ブダの王宮が見えてきましたが、王様はいませんから、当然、人は住んでいないということですが、ここには19世紀のハンガリーの絵画が置いてある美術館、歴史博物館、国内で一番大きな図書館が入っています。200万冊以上の蔵書があります。この王宮は一番最初、15世紀に建てられましたが、そのあと、何回も何回も破壊され、建て直されて、第2次世界大戦のあとも、たくさん穴があいていて、直さなければいけなかったんです。戦争中は、ドイツ軍の総司令部があって、ドナウ川を挟んで、ロシア軍と砲撃を交わしました。

ちょうどいま、ドナウ川の橋の上にいますが、ドナウ川は、ずっとずっと北の黒い森から出て、南の黒海まで流れています。右手が上流になります。そして、左手を見ますと小高い丘が見えます。235メートルの丘ですが、そのてっぺんに女性の像が建っています。これはゲレルトの丘といい、像は「自由の女神」です。ゲレルトというのは、イタリアの司教さまの名前です。先ほど説明しましたように、ハンガリーの初代王イシュトバンは、国全体をキリスト教に改宗させようとしていたのですが、もちろん一人では出来ません。出来ないから、何人かの司教をイタリアから呼んで、手伝わせました。その中の一人が、ゲレルトという名前だったのです。

ただ、人々の宗教的な考え方を変えるのは一番難しいということで、ハンガリーでは、ローマカソリック教会への抵抗感が非常に強かったのです。いままで多神教で良かったのに、なぜローマカソリック教でなければいけないんだと、その抵抗の気持ちを表すために、なんとゲレルト司教を樽の中に押し込めて、あの丘のてっぺんからドナウ川に突き落として、殺してしまったのです。その思い出として、丘に「ゲレルトの丘」という名前が付けられたのです。