特大


海外取材報告

パリ、ブダペスト、ロンドン

シシーが愛した町

エリザベート妃、愛称はシシー。1898年9月10日、暗殺に倒れた。 建国千年記念の「英雄広場」でダンスを披露する少年少女

いまから、ブダペストの一番きれいな、いちばんロマンチックなところに行きます。漁夫の砦、そしてマーチャス教会というところです。バスは漁夫の砦の下で止めて、皆さんには階段を上っていただきます。ブダペストの昔の建物は戦後、建て直されたという説明をしましたが、町並みは、好き勝手に、周りに合わないような建物は建てられないように規制されています。特に、この漁夫の砦とマーチャス教会の周りは、ブダペストの市庁舎で一番守られているところです。主な建物は、直すのは良いけれど、壊しては絶対いけない。まして、このあたりのスタイルに合わない、非常に近代的な建物は、絶対建ててはいけない、ということになっています。

漁夫の砦というのは、この白いメルヘンランドっぽい建物なんです。なぜ漁夫の砦かといいますと、ハンガリーがオスマントルコに襲われたとき、15世紀の終わりから16世紀にかけてですが、この辺りのドナウ川の漁師たちが、この砦を必死に守っていたことから、その思い出として名付けられたものです。
ご覧下さい。眼下を流れるのがドナウ川です。あちらに見えるのがブダペストの国会議事堂です。この国会議事堂は高さが96メートルです。1989年までは、しかし、高さは100メートルでした。なぜでしょうか。実は、あの上に4メートルの高さの「赤い星」があって、改革のあと、それが外されたからです。ハンガリーの億万長者がそれを買い取りたいと申し入れたのですが、売り物じゃないと断られたました。

当然、共産主義時代でもハンガリーには観光客がたくさん来ました。そのときのガイドたちは、国会議事堂の高さを100メートルだと言わなければならなかったのですが、みな、それがとてもイヤで、「公式的な高さは100メートル、本物の高さは96メートル」と言って、それで説明は終わりにしていたそうです。
あちらに、ドームの形が似た建物があります。これは、ハンガリーの初代王イシュトバンの思い出で作られた大聖堂です。名前は聖イシュトバン大聖堂です。国内で3番目、ブダペストで一番大きい大聖堂です。これも高さは96メートルですが、これには理由があります。本当は、これも1896年の万博までに出来るはずだったので、1896年の最後の二つの数字の96に数を合わせたのですが、事故で、あともう少しというときにドームが崩れて、そこだけを直さなければならなくなり、実際に出来たのは1905年でした。万博までには、ちょっと間に合わなかったのです。

ここから、先ほど渡った鎖橋が見えますが、次にかかっている橋が、ブダペストのゴールデンゲート・ブリッジで、「エリザベート橋」といいます。
このエリザベートというのは、オーストリア・ハンガリー帝国の最後の皇帝フランツ・ヨーゼフの王妃「シシー」のことで、彼女を記念したものです。シシーは、本当にハンガリーの国民から愛されました。彼女も、とてもハンガリーのことが大好きで、ですから、オーストリアはそれまで、ハンガリー人にひどく嫌われていましたが、こんな素敵な王妃さまが来てくれたために、一時、ちょっとばかり、仲良くなったことがあります。

さて、これがマーチャス教会です。すでに13世紀から、ここに教会があったのですが、マーチャス王がイタリアの王女様と結婚式を挙げた時に、どうしても、この教会で式を挙げたいということで、力を入れて完成させたということです。マーチャスというのは、非常に文化的な王様だったようで、すばらしい図書館も持っていたし、イタリア人の王妃がいたから、イタリアの芸術家とか、音楽家とかが、たくさんこのブダ城に逗留して、すばらしい時を過ごしていたということです。そのほかに、マーチャス王に感謝しなければならないのは、彼が生きていた間、ハンガリーは、オスマントルコに支配されることがなかったことです。彼は非常に近代的な、強い軍隊を持っていました。だから、何回襲われても、彼の軍隊は、いつもオスマントルコ軍に勝って、撃退することが出来ました。
しかし、マーチャス王は15世紀の中ごろに亡くなって、そのあと、しばらくしてから、ハンガリーはひどくトルコに負けて、そのあと150年間も支配されることになりました。

だけど、面白いことに、いくら支配されても、ハンガリー人は、自分がトルコ人になったとか、イスラム教になったとか、認めたことがないのです。やっぱりトルコを追い出す、追い出せということで、一生懸命戦ったのです。
しかし、なかなかうまく行かなくて、いつもオーストリアに手伝ってくれと頼んだのですが、ハンガリーがオスマントルコと戦っているので、オーストリアの方にまでは来なくて、彼らは、いわば、対岸の火事見物の気分だったのです。最後は、ハンガリーも戦うのに飽きて、オーストリアが手伝ってくれなければハンガリーもトルコに抵抗するのを止めて、トルコ軍をオーストリアに行かせると言ったら、オーストリアもちょっと怖くなって、ハンガリーと手を組んで、やっとオスマントルコを追い払うことが出来ました。

トルコに支配されていた間、ほとんどの教会はモスクになりました。マーチャス教会も、ですからモスクにされて、装飾用の金属とかシャンデリアとか、大切なものは、ほとんどイスタンブールに持って行かれてしまいました。それは未だに戻ってこないのですが、いまのこの教会で面白いのは、19世紀に工夫されたネオゴシック・スタイルなんです。中に入ってみると、カベや柱に非常にカラフルなオリエンタルっぽいデザインが残っているんです。モスク時代からのものが残っているから、その点、非常に独特だと言えます。
もう一つ、とても綺麗なところは、ステンドグラスです。それは第1次・第2次世界大戦とも破壊を免れたものです。どうしてかというと、戦争の時は爆弾が落ちることが予め分かっていましたから、ステンドグラスを外して、隠したのです。戦争が終わったとき戻したから、無事に残ったわけです。しかし、4年前、非常に残念な出来事が起こりました。警察は未だに誰が犯人か分からないと言っているんですが、マーチャス教会の後ろに仕掛け爆弾が置かれていて爆発、一カ所だけですが、ステンドグラスが粉々に割れました。
いまは、もちろん直してありますが、ただ入ってみると、一カ所だけちょっと色が違っているのが分かります。どうしても、四年前のものと、数百年前のものとでは、同じ色にはならないからです。

明治維新より1年前に、オーストリア・ハンガリー帝国が成立しました。1867年です。その時、当然のことですが、フランツ・ヨーゼフ皇帝と王妃のシシーはハンガリーの王様と王妃様にもなりましたので、戴冠式を2回行いました。1回はオーストリアで、1回はブダペストです。その戴冠式が、このマーチャス教会で行われました。中に入ってみますと、細い柱が何本も立っておりますが、その柱のてっぺんに、非常に古びた旗が下がっております。これは、その戴冠式のときに使われたお祝いの旗なんです。お客さんは、なんだこの汚れた旗はといいますが、明治維新の1年前に出来た当時の帝国の旗なのです。

当然、これは活動している教会ですから、ミサも結婚式も行われます。特に結婚式では、一番人気のあるところで、半年ぐらい前に予約を取らないと、もう絶対予約できません。では、中に入ってみましょう。柱の装飾がモスク時代のものです。上から垂れ下がった旗が、先ほどお話した戴冠式の旗です。ところで、一つ、クエスチョンです。日本にもローマカソリックの教会がありますが、お昼の12時に必ず鐘が鳴りますけれど、それはどうしてでしょう。

その秘密は、ハンガリーに隠されています。実はハンガリーが一番最初にオスマントルコに襲われたのは1456年ですが、そのとき、ハンガリーの方が勝って、つまりキリスト教がイスラム教に勝ったということで、キリスト教には大切な出来事となったのです。その時、ローマ法王から命令が出ました。世界中のローマカソリック教会は、これを記念して、昼の12時に必ず鐘を鳴らすようにということです。その習慣がいまも残っているのです。昼食の時間ですよ、という意味ではありません。皆さんが、日本でたまたまローマカソリックの教会で鐘が鳴るのを聞いたら、誰にでもいいですから、その鐘の由来を聞いてみて下さい。誰も知らないはずです。知っている人がいるとすれば、その人は、ハンガリーに旅行に来て、ガイドに教わった人でしょう。

共産主義時代の最初のころは、宗教が排撃されましたが、そのあとは、だんだん共産主義も緩くなりましたから、幸いなことに、教会を壊すとか、そんなひどいことは一度もなかったので、非常にそれは嬉しいことだったと思います。マーチャス教会をもし壊されたら、もう絶対こういうものを新しく建てることは出来ませんから、その点だけは共産主義にも感謝しなければならないと思います。

もちろん、特に50年代のハンガリーでは、あまりミサに通っているとか、神様を信じているとか自慢しない方がよかったのですが、でも田舎のおばさんたちは始終ミサに通っていて、政府からは神様はいないと言われても、自分の神様がいなくなったわけではないから、ずっとミサに通って、お祈りを続けていた人たちが多かったのです。
王宮の正面に来ました。ここはナショナルギャラリー、19世紀のハンガリーの絵が置いてある美術館の入口にもなっております。そして、いま降りてきた門のところに鷲のような鳥がついていますが、この鳥は実際には存在しない鳥なのです。伝説によると、ハンガリー人を7人の部族長と一緒に、ここまで導いてくれた鳥だということで、鷲によく似ているけれど、鷲ではないそうです。マジャール人に、この土地が一番良いと教えてくれたのです。

ところで、どうしてオーストリア・ハンガリー帝国が出来たのか、よく聞かれるんですが、これは非常に簡単なことです。ハンガリーはオーストリアに支配されていて、何回も離れようとして、独立運動の革命を起こしました。次から次に負けたんですが、オーストリアの方もイヤでしょう。軍隊を送らなければならないし、戦わなければならないので、面倒だけれど、ハンガリーはなかなか止めないということです。ほとほと手を焼いて、いまの言葉でいうと合弁会社を作るように、ハンガリーに新しい権威と力を与え、新しいパートナーシップを組むようにすれば、オーストリアも安心していられると、つまり、ハンガリーを黙らせるための政策でした。

ですから、第一次世界大戦には、ハンガリーはオーストリア・ハンガリー帝国として入ったのです。残念ながら、負けてしまって、当時の人たちにとっては、「トリアノン条約」という言葉は、一番いやな言葉だったのです。なぜかというと、トリアノン条約というのは、1919年にハンガリーがオーストリア・ハンガリー帝国として負けたあと、その時のハンガリーの土地の3分の2が取られたんです。オーストリア、ルーマニア、スロバキアに、パイを切るみたいにパッパッと国土の3分の2も取られて、ひどいショックだったのです。
そのあとハンガリーは、ドイツとイタリアと日本と組んで、第二次世界大戦に入ったけれど、どうしてかと聞かれますが、これも非常に簡単な理由です。要は、ドイツが、失った土地を取り返してくれると約束したからです。そんなシンプルな理由です。

さて、お話はずっと飛んで、ロシアの軍隊がいよいよハンガリーから引き揚げる日が来ました。その時、私は、テレビ朝日の撮影の通訳をしていました。ロシア軍の出て行くところをレポートするために、駅の電車の中にまで入って行ったのですが、私がひどくびっくりしたのは、私よりも年の若い兵隊さんが沢山いたことです。
すごく悲しい顔をしていました。電車の中でうつむいて坐っていました。どうしてそんなに悲しい顔をしているの、自分の国に帰れるんでしょう、ふるさとに帰れるんでしょうと言ったら、僕たちのふるさとはハンガリーだよ、僕たちは、ここで生まれ、ここで育ったんだ。一度もモスクワに行ったこともないんだ。自分たちは、全く知らない国に送り返されるんだ、というのです。
ハンガリーのガールフレンドが見送りに来ていた兵隊さんもいて、ですから全体的に、歴史的に、ハンガリーにとっては、とてもいいことだったんですが、個人的には、とてもショックなことでもありました』。

日差しが強い日で、ルルさんは、片時もサングラスを離さなかったが、のぞき込むと、非常に綺麗なエメラルド色の瞳だった。そのことを言ったら、ハンガリーには何とかいう名前の湖があって、陽が昇るにつれて七色の虹のように湖の色が変わるのだという。だからハンガリーでは、「君の瞳は○○湖のようだ」というのが、女性への最高の賛辞なのだと言って、笑った。

ハンガリーと、ブダペストと、シシーが大好きな、素敵なガイドさんだった。