特大


業界動向

2007-06-25 特許段で独自需要を開く森羽紙業(株)

吉岡榮社長

吉岡榮社長

長谷川通取締役

長谷川通取締役

本紙では6月8日、森羽紙業(株)(青森県五所川原市大字姥范字桜木28-1、電話0173-35-2646、URL=http://www.iihako.com 吉岡榮社長)を取材訪問、最近の状況をうかがった。吉岡社長は当年77才。若くして特産りんごの袋掛け用の紙袋製造で大成功を収めたあと、森一夫森紙業社長に乞われて段ボール製函事業に進出、同県下で最有力の同社を創始した人。因みに王子製紙による森紙業の買収に際しては、藤定輝好前社長ほか旧役員が株式を森紙業から全て買い取って個人株主となったため、王子との資本関係は何も生じていない。

6月8日金曜日の朝5時半にスタート、東北新幹線「はやて1号」で八戸から東北本線特急に乗り継ぎ、川部駅で五能線五所川原行き列車を待つこと1時間、五所川原駅到着は午後2時少し前と、片道8時間余りの旅となった。私自身、東北で生まれ育ったから、東海道沿線に比べた東北の便の悪さはよく承知しているつもりだが、これほど発展した21世紀のいまも、乗り継ぎの接続をうまくコントロールできないところが非常に気になる状況でもあった。

森羽紙業(株)はJR五所川原駅からタクシー15分ほど。長谷川通総務部長の案内で応接室に入ると、すぐ吉岡榮社長が見えて、早速のインタビューとなった。

<問>御社には本紙の創刊以来ご愛読をいただいておりますが、本日はその御礼のご挨拶をかねて、近況をお伺いしたくて、お邪魔しました。この五所川原地区一帯は全国的に有名なりんごの大産地ですが、ただ、いまはちょうど端境期に当たると聞いております。最近の需要状況としては、どんな様子でしょうか。

<吉岡>そうです。5月?6月はシーズンオフで、毎年赤字になる季節です。多分、こちらに来られる途中でもご覧と思いますが、一面のりんご畑に取り囲まれた地域ですから、一番の仕事がりんごですが、出荷が全部終わって、いま冷蔵倉庫に入っている在庫はみんな発泡スチロールに入っているんです。ですから、発泡スチロールは大分出ているようですが、段ボールは逆に減っています。

<問>せっかくの機会ですから、創業のころからのお話を伺いたいのですが。

<吉岡>森羽紙業を設立したのは昭和46年4月2日です。半年後の8月2日から操業を始めました。当時は、まだ土地ブームの入口のころで、この辺り一帯が田んぼだったのを、そのまま農地として買い取って、小作を頼んで作らせていたんです。そのころ、森紙業の森一夫社長が三井物産と合弁で東北森紙業(八戸)を作ったんですが、製品の売り先がないということで、森一夫社長が私に会いたいと言ってきたんです。全国に広範囲に工場を展開している大社長に対面するのは、私も初めてでしたが、話の内容は、この地区には有力な売り先もないし、このままでは物産にも迷惑を掛けるので、なんとかウチの会社に協力してもらえないかという趣旨でした。

協力というのは分かるけど、一体、どういう協力をすればいいのかと聞いたら「お宅は随分たくさん農地を持っているそうじゃないか、その農地に共同で一貫工場を作って、出来たシートを年間を通して買ってくれればいいんだ」というので、「分かりました」と言って、仰有る通り、引き受けることにしたわけです。どうして、そう簡単に引き受けることにしたかというと、私の方にも事情がありました。私は昭和23年からりんごに被せる紙袋を大量に自分で作って販売していたんです。

昔は農薬が発達していなかったから、虫よけ対策として、袋掛けが唯一絶対的な害虫対策だったんです。ところが、43年ごろに県が袋掛けの手間をかけることが不可能に近くなったという理由で、半分を無袋に切り替える方針を打ち出してきました。というのも、農家の人が段々年をとってきたこと、若い人がみんな都会に行ってしまって、人手がないという理由です。当時は、りんごの袋掛けの季節になると、学校も休校して、袋掛けの応援に駆けつけるという状況でしたが、私どもとすれば、無袋になれば工場も維持できなくなる、えらいことだ、何とかしなければという事情でした。

私は、横浜の足立さん、興亜紙器さんですが、あそこから段ボールを買っていたんです。ずいぶん買いました。製品も売りました。しかし、なにぶん距離が遠いということで、そのあと盛岡の赤沢紙業さんに変わりました。赤沢さんには随分よくしてもらったので、実は森紙業とではなく、赤沢さんとの合弁を考えていました。ところが、そこでパッと森紙業に変わったわけです。なぜかというと、森一夫さんが「吉岡さん、あんたに全て任せるから、あんたの好きなようにやってくれ。シートさえ買ってくれれば文句は言いませんよ」と、こんな話になったからです。

それでも、一社買いというのは怖いものがある、外部から買って初めて高いか安いか分かるということですから、それを防止する方法を考えて、森一夫さんには、もしそれが分かれば実行していいかと聞いたら、「あんたに任せる。あんた次第だ」ということだったから、その気でいたら、どうみてもシートの値段が高い。それで東北紙器に行って、2万m2でも3万m2でもいいから、シートを作って持ってきてくれと頼んだというような、そんなことがありました。まあ、私は森一夫さんと三井物産との間で、なにか歯車が噛み合わない様子も感じておりました。そんなことも、原因の一つだったかと思いました。

そう思っていた矢先、48年のパニックが来ました。運が良かったのは、全農に行ったら、前金で4千万円出してくれたんです。それで、その4千万円を現金で静岡の製紙工場に持っていって、紙はなんぼ出来ているんだ、出来た分、私に全部、この4千万円でくれ。あと、4千万円以上使うようになれば、あんたの好きなだけ私が買うから、差し当たり、この4千万円については私の指し値で売ってくれと頼んで、そういう買い方をしました。

その年は儲かりました。段ボールをやるなら、紙を買って加工するんじゃ、余り妙味がない。製紙工場を作って、自分で使う紙は自分で作った方がいいという発想をそこで持ったわけです。森一夫さんに話したら「そんなら機械を買ってやるよ、まあ、2億ぐらいだろう」という話で、それじゃ2億借りて製紙工場をやろう、製紙工場で余った紙をわが社が加工する、そういうようにして欲しいと言ったら、「いい話だ」(森一夫)となったわけです。

ところが、その計画は猛烈に反対されました。青森には段ボール会社が11社ありました。いまは倒産して9社ですが、その反対派の連中が毎日のように押し掛けて行って、五所川原市長に森羽の工場設置願いを却下してくれと頼むんです。一方、当時の知事が物わかりのいい知事さんで、製紙機械はもう買っちゃったんだ、従業員を雇って、名古屋の方に研修にも出している、なんとか早急に認可を出してほしいというと、よし分かった、県としては何の異存もないという態度でした。

私は段ボールのことを何も知らなかったけれど、ましてや製紙のことなど何も知らなかったんですが、その私に協力してくれたのが足立で製紙工場をやっていた丸三製紙の神山社長で、実に親切に、何でも教えてもらいました。製紙で一番大事なのはヘドロの垂れ流しを絶対にしないことで、その方法が紙屋で一番の命なんだ、それさえみっちり勉強してやれば、あとはそう難しいことではない、と教わったわけです。そういう色んなノウハウを抱え込んで、五所川原市長のところに行ったら、市長は「五所川原は田園都市で、工業なんか必要ない、お前の工場は絶対に許可しません」と言うんです。その人は、市長はやめたけど健在です。あのとき、あんなに反対したけど、いまになってみれば許可しておけばよかった、どうして反対したのか、自分自身でも分からないと言っているんです。

まあ、農業というのは、工業もあって、農業もあって、農閑期には工場に来て働きながら、ある程度の収入を得て農業自体の生産性を高めるということが必要だと思います。何よりも近くに工場があれば農家の人にもプラスになるんです。そういう観点から、ずいぶん説得したんだけれど、とうとう説得しきれなかったわけです。

そうこうしているところに、森一夫さんから電話が入って「おう、しばらく」というから、「どうした」と聞くと、「いや、実はえらいことをした。あんたの買った製紙機械を保管していた倉庫が火災で焼けて、機械が、使い物にならん屑鉄になってしまった」と言うんです。そりゃあ少しおかしいじゃないか。火災保険は掛けてなかったのかと聞いたら、火災保険も、何も掛けてなかったと言うんで、大社長ともあろう人が、そんな、全く心外だと、まあ大ゲンカしたわけです。それで、ああでもない、こうでもないと言っているときに、もう15年前になりますが、工場が火事で全焼したんです。

10月末でしたから、ちょうどりんごの注文がバーッと入っていたときで、どうしようもなくて、ひどかったんです。すると、藤定さんが、当時常務でしたが、森一夫さんから派遣されて飛んできました。鴻池組の建設屋さんを一人連れてきました。こんな焼け具合なら再建には半年かかるだろうという話で、「この人にやらせるから」と言うのを、ちょっと待て、お客さんには迷惑は掛けられないから、20日間で再建して、段ボールを作りたい。だから、20日で直してくれる建設屋でなければダメだと言ったら、それは大変な難題で、逆立ちしても出来ることじゃないと言うんです。

ウチの火災で半年は生産再開がムリと見たこの辺の段ボール会社が、取引先にそう言って歩いたようでした。しかし、さすがレンゴーさんだけは、工場長が直接来られて、レンゴーで作って森羽の名前で納入すれば、お客さんに迷惑を掛けずに済むでしょうと、協力を申し出てくれました。有り難かったです。しかし、そのレンゴーさんも断って、私独自に再建を進めることにしました。基礎だけはありました。そこに建設用の足場を組んで、デッキプレートを屋根替わりにして、電氣はタコ足配線で建設現場を作りました。11月ですから雪が降ります。作業班は第一班、第二班、第三班に分けて、三交代の昼夜兼行で、私は双眼鏡を持って作業の進行状況を監督するんです。

そのとき、ちょうど展示会があって、ISOWAが出品していたフレキソマシンがありました。それをすぐ持ってこいと、藤定さんが尽力してくれました。それで、1カ月で全部出来ました。段ボール工場の再建というのは半年、1年かかるのが普通と言って、みんな驚いていました。森羽というのは恐ろしい会社だ、という評判が立ったみたいでした。

そんなある日、森一夫さんから電話がありました。いわば火事見舞いの電話でしたが、どこから電話を掛けてきたかというと、病院からだったんです。彼は、入院していたんです。そのときの言葉が「段ボールというものは腐るものではないし、1年間置いておいても賞味期限切れにはならないで使えるし、こんな良い物はない。だから、あんたも、飽きないで、お客を大事にしてやっていれば間違いない商売だから、オレの言った言葉を必ず守って、やってくれ」ということでした。

病院から、そういう電話をしてきて、そして翌日、亡くなったんです。私は、森一夫さんとずいぶんやり合ったけれど、最後のその遺言みたいな言葉が忘れられないんです。まあ、振り返ってみれば、森一夫さんの言う通り、食品には全て賞味期限があるし、ところが、段ボールは自分のところで間違った加工をしない限り、そんな心配も何もなくて、商売しやすい商品なんじゃないでしょうか。

ということで、それ以来,私も一生懸命働いて、順調に業績を上げてきました。まあ、欲しい機械も手に入れて、まあまあと考えているんですが、その一方で、王子が巨大グループになった、レンゴーもそれをやったということになると、われわれ下々の企業、力のないわれわれ製函メーカーがこれからどう生き延びて行けばいいのか、それが絶対的な命題として浮かんできたわけです。王子、レンゴーが作っているようなものを、われわれが幾ら頑張って作ってみても、向こうは設備も良いし、とてもかなうはずがない。それじゃどうするか。勝ち残るためにはどうするか、ここが私の着目点なわけです。

そのためには、レンゴーも王子も作っていないものを作ればいい。絶対に真似の出来ないものを、特許を取って、それを前面に押し出して行けばいいということです。たまたま、それも時機到来となりました。石油製品がどんどん値上がりする。しかし、紙は上がっても、そうべらぼうに上がったわけじゃないから、多少割高についても、お客さんが喜んでくれているということです。

お客さんがいま非常に困っているのが、ゴミの分別回収です。プラスチック緩衝材などの分別が大変ですから、段ボールの緩衝材なら、逆に多少カネを払ってもらえうようなことで、大変良いことじゃないかということになります。それが「エスコパ」なんです。soft comfortable partition からの略称です。平成16年12月10日に特許がおりました。これがそうです。触ってみると、ふんわりしているでしょう。なぜふんわりした感触になるかというと、段が台形で、尖っていないからです。発泡スチロール製の緩衝材に代わって、いま猛烈な勢いで普及しつつあります。これが、まず第一のわが社の生き残り策です。

こういうものを作る機械を作ってくれと機械屋に頼んだら、作れないというんで、自分で作るしかないかと、自分で作って、いま機械を回しているんです。申し訳ないですが、機械のレイアウトが特許ですから、写真撮影だけはご勘弁願いたいのです。機械は、たしかにオンボロですが、無人で動いてくれるし、ロボットが全部自動で積んでくれますから、競争力は抜群です。それに性能が良いから、スピードを上げようとすると、忽ちその辺に置き場が無くなるくらいに生産が上がるんです。だけど、売れないものを作れば値下げになる恐れがありますから、出るだけしか作りません。数はすべてコンピュータで管理しています。そして、今日作れば明日納入出来るため、在庫は一切持たないし、持つ必要がないんです。

これは片面段ボールで、紙は新聞用紙です。こっちはクラフトです。りんごの箱詰めの場合、発泡スチロールのネットを使って、キズが付くのを防いでいました。その発泡スチロールの代わりに、これを使えば、キズも付かないし、公害もないということです。エスコパは、売り始めて1年間で240万枚売れました。240万枚というとトラックで240台分ですが、今年はその2倍の500万枚が目標で、6月までに350万枚売れました。こういうペースで、来年は1千万枚、再来年は2千万枚、5年後には5千万枚ぐらい売りたいと考えております。いま、その販売に、大々的に協力したいという人も出てきておりますが、但し、値段は負からないよと言っているんです。

その後に、もう一つ、特許が下りました。これがそうです。中芯をダブルに貼り合わせて重ねた形です。この機械も全部私が考案して作りました。中芯の段はC段で、台形にしたのがポイントです。シングルでダブルの強度、しかも緩衝効果が高いということです。

なぜこういうものを作る気になったかというと、ウチの場合、青森の五所川原ですから、輸送する場合、すべて長距離輸送が条件です。すると、段ボールが弱いとか、潰れるとかというトラブルがありました。それをカバーするために、ダブルにすると、こんどは積載面積を非常にとることになって効率が悪い。だからダブル並みの強度で、かつ積載面積はダブルの2倍ということで、特許庁の特許認可が下りたわけです。
台形段の特許がないと、これも作れません。これの使い道としては、まず、発泡スチロールに取られた冷凍長期保存のりんご用として、もう一度りんご需要を取り戻したい、そのカギになる可能性が出てきたと考えております。

まあ、王子やレンゴーと別にケンカをする積もりじゃないけれど、これぐらいやらないと、生き残れないんじゃないかと考えているんです。残念ながら、そうまでしても、私自身には一つだけ欠点があるんです。年が年ですから、お迎えの来る日が近づいてきていることです。生まれが昭和5年1月19日ですから、そのことも、意識しないわけには行かないのです。

先日、東京大学工学部の大先生が来て、2週間ほど滞在して、うちの会社のこういう状況を調べて帰られました。その先生が、私にどうしてああいう機械を作られたんですかと聞くんです。自分たち、いわば学者から見ると、とても作れる代物じゃないという話でしたが、だから私は、学者でもないし、技術者でもない半ぱものだ。だから出来たんじゃないかと言ったら、先生がたまげていました。

私は、15年前に、丸刃できれいにカットする装置を東洋刃物に注文して、作らせたんです。いまは、それがコルゲータでみんな使うようになりました。そこからスタートしたことです。ただ、あれには欠点があります。手に触ると手が切れて危ないのです。だから私は、製品として出す場合はノコ刃に変えました。それに、最近は紙粉が嫌われるんです。選果場のセンサーの目詰まりを起こして、選果の効率を悪くするということで、嫌われています。

うちの人員は、このカタログに映っている20人で全員です。ほかに営業が5?6人いるけど、これで全部、わが社のマンパワーです。私は酒もタバコも、ゴルフもやらない。ただ、カメラはキチガイですから、世界中の名機ばかり、誰も信じられないほど集めました。

私は13才のとき、学徒勤労動員で海軍工廠に動員されて、15才の終戦まで工場勤務でした。亘理さんも同じですね。

<亘理>はい、多賀城海軍工廠で零戦搭載の機関銃を作っていました。

<吉岡>終戦でどうしたかというと、バスもない、鉄道も動かない、食べる米とおかずにする缶詰を支給されて、歩いて帰れでした。青森に着いたのが夜の10時ごろ、青森は何もない焼け野原でした。それから夜通し歩いて帰りました。

それで、23才のとき、りんごの移出商を始めたんです。ところが売りに行ったりんごの半分が害虫にやられていて、ちっとも儲からない。どうすればこれが防げるんだと聞いたら、紙の袋を作って、りんごに被せれば解消する問題だということが分かって、それじゃあと袋屋を始めたんです。袋の生産は当時は機械が無く、みんな手作業でした。それで、川口の鋳物屋さんで大原さんというギヤ専門の方がいて、こういう機械がほしいと言ったら、遠くからはるばる、よく訪ねてきてくれたと感激して、私の注文したものを全部作ってくれたんです。

そのギヤを持って帰って設計を起こして、加工して袋を製造する機械を作ったんです。そのころ、県内には48軒の袋屋があって、みな余り性能のよくない機械を使っていたんですが、私は工夫に工夫を重ねて1秒間に17?18枚も貼る機械を開発したんです。1秒間に17?18枚だと、8時間で35?36万枚上がるんです。それを女工さんが100枚ずつ数えて揃えるんですが、それを無人で出来るようにしました。それで特許を取ったんです。ですから、袋では日本一の生産量でしたが、段ボール事業に転換したとき、その特許の権利を、ほしい人は自由に使ってよろしいということにしました。機械は、私は機械屋じゃないから売りません。ただ、使いたい人は、工場に来て、自由に見て作って下さいということにしたんです。

それが、あとで、段ボール工場をやっていたとき、すごい恩返しを受けたんです。昭和54年の第二次パニックのとき、みんな紙が入らなくて困ったんです。三井物産も紙が無くて、八戸の工場が休業状態だったときです。そのとき、長野の袋専門の会社の専務さんに電話して、支払は全部現金という条件で頼んだら、宇都宮に福岡製紙という会社があるが、そこで良いか、よろしい、頼むということで、福岡製紙のコルゲータ2台分、毎日ピストン輸送でシートを届けてもらえたんです。凄かったです。途方もない儲けでした。

それが、袋の特許の恩返しでした。長野のその会社は、いまもあります。私は未だにその会社の製品をこの地域に販売しています。

<問>ところで、森紙業グループが王子に買収されたわけですが、御社は森紙業のグループの一員だったわけで、御社の株はどうなったのですか。

<吉岡>森羽紙業は一体どうなっているんだと、業界七不思議みたいに言っている人もいるようです。要するに、藤定さん、小林敏昭さんなど、森紙業の旧役員の方々が森羽紙業の株を森紙業から買い取って、それぞれ、うちの個人株主になったんです。ですから、王子製紙との資本関係は何もありません。

<問>最後に、もう一つお訊ねします。後継者についてはどうお考えですか。

<吉岡>後継者はここにいる長谷川です。15年前からそう決めて、藤定さん達もそれを承知しております。

<問>長谷川さんとは血縁関係でもおありですか。

<吉岡>何もないんです。私が決めた後継者です。質問がもう終わったんなら、18の時から基礎を築いて頑張ってきたボクの足あとでも見に行こうか。

<亘理>はい、ぜひどうぞ。

【後記】森羽紙業の5千坪の製函工場に隣接した1千坪の素晴らしい美麗庭園だった。吉岡さんが全国各地で買い集めたらしい巨石などが、あちらこちらで存在感を際立たせており、優雅な広い茶室が設けられていて毎月多数の客人が集まって茶会をするのだという。終戦の日、昭和20年8月15日の夜、月明こうこうの中、15才の私が長い鳴瀬川の鉄橋を渡って夜っぴて家に向かって歩いていた同じ時刻に、青森でも同じ15才の少年だった吉岡さんが、焼け野原の青森市街を突っ切って夜通し歩いていたことを五所川原に来てはじめて知った。私が聞いた感動の物語を、なんの修飾も加えず、会話そのままの形でお届けする次第である。

段ボール事報社
代表 亘理昭